第69話 村を出る
夜明け前に起きた。
いつも通りの時間にいつもの日課の薬草畑に水をやる。
ヒンヤリとした朝露を纏った薬草たちは、水を吸い込むたびに微かに葉を震わせた。
土の匂いや湿り気を確認して、指先で土をほぐす。
「……よし、問題ないな」
端の方で、少しだけ葉先を丸めていた一株を見つける。
昨日の日照りが、この子には少し強すぎたのかもしれない。
周囲の土を少し足し、指先で優しく整える。
旅支度は昨晩のうちに済ませてある。
だが、農家にとって「家を空ける」というのは、命のバトンを一時的に他者に預けることを意味する。
背後から、呆れたような声で声がかけられる。
「出発の直前まで土にまみれている人間は、王国広しといえどもガイウスさんくらいでしょうね」
そう、リナに声をかけられた。
ガイウスは振り返る。
「夜明け前ですよ、みなさん見送りに来てくれたんですか?」
「みんな来てるわよ。……見て、あなたを見送るために村中の『早起き』が集まってるわ」
指差した先――村の広場に、松明の明かりが揺れていた。
広場へ向かうと、そこには驚くべき光景があった。
見送りに来なくていいと言ったつもりだったが、俺の言葉がこの村で文字通り受け取られることは稀だ。
「行ってらっしゃい、ガイウスさん」 リナが、少しだけ潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見た。
その隣には、椅子に腰掛けたままのゴードン、腕を組んで黙って立つグラントが並んでいる。
エリアは既に手帳を開き、「ガイウスさんの不在期間における村の生産性変化」という物騒なタイトルのページをめくっていた。
レオとカナは、騎士としての礼を尽くすように背筋を伸ばしており、マルクは母親の陰で眠そうな目をこすっていた。
「……みなさん、夜明け前ですよ」
「王都へ行くんだもの。これくらい当然だよ」
リナが、俺の胸元に手を置いて、少しだけ服の埃を払った。
「早く帰ってきてね。約束だよ」
「帰ります。ここに俺の畑がありますから」
リナの母、マーサさんが大きな風呂敷包みを差し出してきた。
「ガイウスちゃん、これ、道中のお弁当。ヴェルダちゃんの分もしっかり入ってるからね」
「ありがとうございます」
「ヴェルダちゃん、いっぱい食べるんだよ。王都は美味しいものが多いけど、この村の味も忘れないでね」
隣にいたヴェルダが、ひょいと顔を出した。 「……ありがとう。わらわ、マーサの料理が一番好きだ」
「あら、嬉しい。いい子だねぇ、ヴェルダちゃんは」
「いい子……」
千年以上、黒龍として恐れられてきた存在が、「いい子」と言われて耳まで赤くして照れている。
その光景こそが、この数ヶ月で俺たちが作り上げた「日常」の証だった。
少し離れた場所、朝日が差し込み始めた開拓地の境界線に、カインたちが立っていた。
彼らは村の中まで入るのを遠慮したようだが、その眼差しは真剣そのものだった。
「ガイウス。開拓地は任された」
カインが、自らの魔剣ではなく、使い込まれたクワの柄を握りしめて言った。
「農夫として、この土地に責任を持つ。お前が帰ってきた時、一本の雑草も生えていない完璧な畑を見せてやろう」
「期待しています、カイン殿。……ベルグさんも、よろしくお願いします」
後ろに控えていたベルグが、カインの様子を見て肩をすくめる。
「カイン様、『農夫として』というのが、もはや口癖を通り越してアイデンティティになっていますね」
「……悪いか。農家から移ったのだ。悪くない癖だ」
「ええ、悪くない。……俺も、少し移ったかもしれない」
二人が顔を見合わせて笑う。
かつて王国を攻めようとした魔族の皇太子と将軍が、今や一人の農家の留守を案じている。
このシュールな光景を王都の人間が見れば、それこそ天変地異が起きたと思うだろう。
「では、行ってきます」 俺は短く、けれど力強く告げた。
「行ってらっしゃい!」という合図と共に、グラントが無言で太い腕を上げた。
マルクが「ガイウスさん、お土産買ってきて」と言う。
「王都の何がいいですか」
「なんでもいい。王都のやつ」
「わかりました」
村の入口を抜けた。
振り返ると、全員がまだ立っていた。
リナが手を振っていた。
マルクが「お土産忘れるなよー!」と叫んでいた。
「多いね、見送り」とヴェルダが言った。
「そうですね」
それから少し間を置いた。
「見送られて、嬉しかったんでしょ。内側で」
「……そうですね」
「それでいい」
ヴェルダが前を向いた。
道が続いていた。
王都まで、三日だ。
「行こう」とヴェルダが言った。
「そうしましょう」
二人で歩き出した。
朝の空が、変わり始めていた。
スローライフは、今日も——村を後にしながら——順調だった。




