第60話 地脈の流れから整えよう
農家の朝は早い。
まだ太陽が地平線の端にかかっている頃、俺は崩れた岩の斜面を登り、開拓の予定地へと足を踏み入れた。
そこには、先客がいた。
少女の姿をした黒龍ヴェルダだ。
彼女は切り立った巨岩の上にちょこんと座り、退屈そうに足を揺らしていた。
朝の冷たい風に、彼女の藍色の衣と長い髪がさらさらと流れている。
「遅い。日が昇りきってしまうではないか」
「待ち合わせをした覚えはありませんが」
「わらわがここに来て待っていたのだから、お前は遅いの。不敬であるぞ」
「そうですか」
「そうそう、毎回同じことを言わせるでない」
ヴェルダはそう言うと、岩の上から軽やかに飛び降りた。
着地の瞬間、彼女の周囲の空気がわずかに震える。
人間離れした、しかし洗練された身体能力。
彼女はそのまま俺の前に歩み寄ると、黄金色の瞳を輝かせて平地を見渡した。
「……で、今日から始めるのだな? あの、カインとかいう小僧が泣いて喜ぶ『畑』への再生を」
「そうです。まずは地脈の流れを確認します。ここが詰まっていると、どれだけ肥料を撒いても土は肥えません。血管が詰まっている人間に、ご馳走を食べさせるようなものですから」
「ふむ、わらわはどうすればいい」
「ヴェルダは反対側から、地表の魔力の揺らぎを感知してもらえますか。龍の鋭敏な感覚なら、地脈の奥深くにある『澱み』が見えるはずです」
ヴェルダは「任せよ」と得意げに頷き、三歩ほど歩いてから、ふと立ち止まって振り返った。
「……ねえ。一つ聞いていいか」
「なんですか?」
「この、地面の下を覗き見て魔力を整える作業。……これ、農家の仕事か?」
「農家の仕事ではありませんが」
「では何なのだ‥」
「……魔術師、あるいは風水師の領域ですね」
「農家ではないではないか」
「農家ですが、今は農家が魔術師の作業をしています」
「……わかったような、わからないような」
ヴェルダは「もうよい、よく分からん」と今日一回目のため息をつき、地脈の調査へと向かった。
俺は地面に膝をつき、固く焼けた土に掌を当てた。
意識を集中させ、魔力を細い糸のように地中へと伸ばしていく。
かつての戦いの余波、そして長年放置されていた巨大な岩山の重圧。
それらが地中のエネルギー――地脈を歪め、複雑に絡み合わせていた。
流れの止まった箇所は三箇所。
まるで、固まった粘土の中に水路を指で掘り直すような、根気と精密さを要する作業だ。
「ガイウス、こっちは四箇所詰まっておるぞ」
ヴェルダが反対側から声を上げた。
「合わせると七箇所ですね。……一月もあれば、すべて通せるでしょう」
「一月!? この広大な土地をか? 農家というのは、実は魔王軍の軍師よりも恐ろしい存在なのではないか?」
「農家にはない作業ですが」
「……もういい、それは!」
早速俺たちは並んで地面に魔力を流し始めた。
ヴェルダの魔力は、俺のそれとは根本的に質が違う。
厚く、重く、そしてどこか懐かしい「大地の母」のような温度。
彼女が力を込めると、土の奥深くで「ゴゴ……」と低い地鳴りが響いた。
「こうか? 加減が難しいな」
「そうです。一度に流しすぎず、詰まっている場所に魔力を『置く』イメージです。固い土を耕すときと同じですよ。時間をかけて、奥から解きほぐすんです」
黙々と作業を続ける。
風が吹き抜け、かつての戦場の静寂を連れ去っていく。
一人のときとは違う、誰かが隣にいる温度感。
時折、ヴェルダの長い髪が俺の肩をかすめ、彼女が集中しているときのわずかな吐息が聞こえる。
「ねえ」
三十分ほどの沈黙を破り、ヴェルダが顔を上げた。
「この、退屈な作業……楽しいのか?」
「楽しいかどうかは分かりませんが――やりがいはあります。死んでいた土地に、少しずつ血が通い始めるのが分かるので」
「わらわには、まだわからぬ。土は茶色のままだぞ」
「もう少し経てば、空気が変わります。そのとき、ヴェルダも気づくはずです」
ヴェルダは不思議そうに空を仰いだ。
その表情は、破壊の象徴たる黒龍ではなく、新しい命の誕生を待つ無垢な少女のそれだった。
昼過ぎ。遠くから鈴の音のような声が聞こえてきた。 リナが、ずっしりと重そうな籠を抱えてこちらへ歩いてくる。
「おーい、お昼持ってきたよ!」
「ありがとうございます、リナ」
「ヴェルダちゃんの分も、しっかり作ってきたからね」
リナが広げた布の上には、焼き立てのパンと、たっぷりの野菜スープ、そして村の恵みが詰まったサンドイッチが並んだ。
「わらわの分まで……。リナは、ガイウスより気が利くな」
「だって、ガイウスさんってば今朝、パン二枚しか食べてないんでしょ? そんなんじゃ、こんなに広い場所、耕しきれないよ」
「二枚食べれば十分ですが」
「全然十分、じゃない (のう)!」
リナとヴェルダの声が、完璧に重なった。 二人は顔を見合わせ、それから楽しそうに笑い出した。
「ふふ、息がぴったりねヴェルダちゃん」
「本当だ。わらわたち、気が合うのかもしれぬな」
「ガイウスさんがしっかりしてないから、私たちが頑張らないとね」
俺は苦笑いしながら、手渡されたスープを啜った。
崩れた岩の上に並んで座り、三人で食事を摂る。
かつては龍の咆哮が轟いたこの場所で、今はパンを噛む音と、たわいもない笑い声が響いている。
空は高く、北の地平線はどこまでも澄んでいた。
「……進んでる、開拓?」
スープを飲み干したリナが、真剣な眼差しで聞いた。
「ええ。ヴェルダが手伝ってくれたおかげで、予想より早く土が呼吸を始めそうです」
「農家の真似事も、案外悪くないな。ガイウスに、土の奥を覗く面白さを教わった」
ヴェルダが誇らしげに言う。
作業が終わる頃、太陽は北の山々の向こう側へと沈みかけていた。 跡地全体が、燃えるような橙色に包まれている。
「明日も来るぞ。……毎日頑張るのじゃ」
ヴェルダが帰り際、少しだけこちらの顔を伺うように言った。
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
「即答か。……もう少し、嬉しそうにしたらどうなのだ」
「嬉しいですよ。内側では、天地がひっくり返るほど驚き、喜んでいます」
ヴェルダは「嘘つきめ」と頬を膨らませた。
「もう。お前は、本当に……」
「いえ。……ヴェルダを見ていると、ついつい構いたくなってしまうんです。一種の習慣のようなものでしょうか」
ヴェルダの動きが、ぴたりと止まった。 彼女は俺の顔をじっと見つめ、それから慌てて視線を逸らした。
夕焼けの光のせいだけではないだろう。
彼女の白い耳が朱色に染まっていく。
「……それ、どういう意味だ。わらわのことを、そんなに、注視しているということか?」
「そうなりますね。気になっている、とも言えます」
「っ、お、お前……っ!」
ヴェルダは何かを言いかけ、しかし最後には小さく
「……もう!」と叫んで、早足で村の方へと歩き出した。
「ガイウスさん、今の、絶対に狙って言ったでしょ」
後ろで片付けをしていたリナが、呆れたように、しかし温かい目をして笑っていた。
「……無意識ですが」
「それが一番タチ悪いんだって。……でも、いよいよ始まりだね」
リナは空を見上げた。
そこには、明日という日が、今日よりもさらに豊かな実りをもたらすことを予感させる、美しい夜の帳が降りてきていた。
スローライフは順調だ。




