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Sランク宮廷魔術師、理不尽な理由でクビになったので田舎でスローライフ(農家)始めました  作者: 仁科異邦


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第59話  IF ある男の末路

本編とは関係のない“もしも“お話です。

よろしくお願いします。


 春の夕暮れ、エルはガイウスの手を握った。


 窓から差し込む光が、白いシーツの上で溶けるように広がっている。

父の顔は穏やかだ。


ただ、穏やかすぎる。

老いたというより削られたという言い方の方が近い。

四十七歳には見えない目が、石造りの天井をぼんやりと眺めていた。


「おじさん」

 父は顔を向けた。澄んだ目で、エルを見た。

「……おや?お嬢ちゃん、また来てくれたのか」

エルは微笑んだ。

頬を伝うものを、そっとぬぐった。

「うん。また来たよ」


 膝の上に、古びた革表紙の手帳を置く。

表紙には、もう色あせた魔法インクで、こう刻まれている。

——これを読む俺へ。これはお前の話だ。

 エルは、ゆっくりとページを開いた。



日記を書くのは久しぶりだ。

最後に書いたのはいつだろう。

エルが生まれた夜か。

あの子が初めて「とうちゃん」と呼んだときか。

どちらも、もう正確には思い出せない。

今日、俺は記憶屋へ行った。


王都の外れ、城壁に沿って建つ小さな魔法店だ。

看板には古い文字でただ一行、

《記憶、買います》とだけ書いてある。

値段も、営業時間も書いていない。

それでも俺は知っていた。

あそこへ行けばいい、と。


 店の名はムネモシュネ。


店主は老婆だった。

白い髪を後ろで一つにまとめ、丸眼鏡の奥の目が、俺をまっすぐに見ていた。

指先には、かすかに青い魔力の光が宿っている。記憶を扱う魔女の証だ。


「何を売りたいんだい」


俺は答えた。

「娘の治療費が要ります」

 老婆——ヒルデ婆は少し黙って、それから頷いた。

「記憶を売ったら、二度と戻らない。それは分かってるね」


分かっているさ。

「幸せな記憶ほど、値が張る。それも分かってるね」

ああ、分かってる。


だから俺は最初に、たいした値もつかないものを売ることにした。


十五年前に観た劇の内容、食べたことのない料理の名前、知らない誰かの顔。


ヒルデ婆は細い指で俺のこめかみに触れた。静かな痛みがあって、何かが薄れた。

青白い光の粒が指先に集まり、小さな水晶のかけらになる。

それが、俺の記憶だ。


「百二十ゴルドだよ」


薬代には足りない。

でも、始まりとしては十分だ。

帰り道、俺は何かを忘れたような気がした。でも何を忘れたのか分からない。

それが、売った記憶というものだ。


家に帰ると、エルが熱を出して眠っていた。

額に手を当てると、燃えるように熱かった。


魔力枯渇症の発作だ。

魔力を持って生まれた子どもが、その魔力ごと消えていく病。

俺は濡れタオルを替えながら、夜明けまで隣に座っていた。

この子が笑う顔を、俺はまだ覚えている。

今夜は、それで十分だ。


だが、いつか忘れてしまう前に書いておかなければならない。

俺の娘の名前はエル、八歳だ。

笑うと左の頬だけにえくぼができる。


雨の音が好きで、晴れた日は少し退屈そうにする。

猫アレルギーなのに、猫が大好きだ。

世界で一番かわいい子だ。

父親の欲目じゃなく、本当に。


 今日もムネモシュネへ行った。


もう5回目から先は数えていない。

売った記憶の内容は覚えていないが、帳簿だけはつけている。


売るたびに何かが消えて、財布が少し膨らんで、それを治療院へ持っていく。

そういう日々が続いている。


先週、少し困ったことがあった。

ギルドの前で知った顔に声をかけられた。

「ガイウスさんでしょう、同期のレオですよ」と言われた。

俺はその男の顔も名前も、まったく思い出せなかった。

愛想笑いをしてやり過ごしたが、帰り道で考えた。

俺はそいつの記憶さえも売ってしまったのだろうか。

それとも、もともと忘れていただけなのか。

今となっては確かめる術がない。


エルの具合は、少しだけよくなってきた。

治療師が「このまま続ければ」と言った。

だか続けるには金がいる、金には記憶が要る。


シンプルな話だ。

今日売ったのは、俺の学院時代の記憶だった。

ヒルデ婆は「まとまった量だな」と言った。

値が良かった。

同期の顔、修行の痛み、初めて好きになった人の声。

全部、消えた。


不思議なことに、寂しいとは思わない。

たぶん、寂しいと感じるための文脈ごと、なくなったからだろう。

帰り道、俺は何かを失ったことすら、よく分からなかった。


エルが治院を出られたら、何か美味しいものを食べに行こうと思っている。

何でも好きなものを頼んでいい、と伝えたい。あの子は遠慮するだろう。

俺が「いいから全部食え」と言う。

たぶんそういう父親だ、俺は。


ヒルデ婆に、今日こんなことを言われた。

「そろそろ、お前に残る記憶はほとんど無くなってきたぞ」


「あと残っているのは大切な人との記憶だ。もちろん高く売れるが、売るべきかどうか、よく考えなさい」


 俺は少し笑った。

「娘との記憶を売ったら、何のために稼いでいるか分からなくなりますよ」

 ヒルデ婆は答えなかった。


 今日は、妻との記憶を売った。

 妻は、エルが三歳のときに魔病で逝った。それ以来、俺とエルの二人暮らしだ。


 売る前に、少しだけ思い出した。

 笑い方が、エルによく似ていた。

 料理が上手かった。俺の話を、どんなにつまらなくても最後まで聞いてくれた。


 それを、売った。

 八百ゴルド。

 今まで売った中で、一番高かった。


 帰り道、俺は泣いた。

 何のために泣いているのか、もうよく分からなかった。

 ただ涙が出た。

 たぶん、記憶が消える瞬間だけは、体が覚えているのだと思う。


 今夜、エルから連絡が来た。

「とうちゃん、最近ごはんちゃんと食べてる?」


 俺は「食べてる食べてる」と答えた。

 エルの声を聞くと、胸の奥が温かくなる。

 この感覚だけは、何があっても売りたくない。

 でも、そのうち売ることになるかもしれない。

 だから書いておく。


 俺の娘、エルは今年で十五歳になった。

病気と戦いながら、それでも魔法学院に進んだ。

笑うと左の頬だけにえくぼができる。

その笑顔を見るたびに、俺は生きていてよかったと思う。


 それが、俺の全てだ。



 最近、少し自分がおかしくなってきた。

 王都の大通りを歩いていると、見知らぬ景色に見えることがある。住んで二十年の街なのに。


 魔道具屋で商品を手に取って、これが何に使うものか分からなくなることがある。

 俺は何かを、たくさん失ってきたのだろう。

 それが何なのか、もう分からない。


 ヒルデ婆は言った。

「今日は何を売るかね」

 俺は答えた。

 「娘の記憶を、少し」


 ヒルデ婆の眉が、わずかに動いた。

「少し、というのは?」

「エルが魔法学院に入ったとき、制服姿を見て泣いてしまいました。恥ずかしかった。あの記憶を売ります。エルに笑われたから」


 ヒルデ婆は少し黙って、それから言った。「それだけかい?」

「それだけです」

 俺は売った。エルに笑われた記憶を、売った。

 値段はたいしたことなかった。

 でも今日はそれで十分だった。


 薬代は、まだかかる。

 治療師は「もう少し」と言い続けている。

 もう少し、もう少し。

 その言葉を、俺は数えることをやめた。

 数えると疲れるから。


 今日の夜、エルが夕食を作って持ってきてくれた。

「とうちゃん、最近忘れっぽいじゃん。ちゃんと食べてる?」


俺は「食べてる」と答えた。

エルは俺の顔をじっと見て、少し心配そうにした。

俺は笑った。「なんでもないよ」


本当は、エルの名前を一瞬、忘れかけた。

扉に、俺は羊皮紙を貼ってある。

魔法のインクで、こう書いた。


「娘の名前はエル。エルは俺の全部だ。忘れるな」


 貼ったのは自分なのに、読むたびに少し驚く。

 俺は、こんなことをしていたのか。

 でも、貼っておいてよかった。



 ムネモシュネには、もう行っていない。

 ヒルデ婆に「もうこれ以上は買い取れない」と言われたからだ。

「これ以上売ったら、あなたは戻れなくなる」

 そういわれた。


 俺は笑った。

「戻る場所があるうちは、売り続けますよ」

 ヒルデ婆は首を振った。


「お嬢さんが治っても、あなたが娘を認識できなければ、意味がないとは思わんか?」

 俺は少し考えて、それから答えた。

「意味はあります」

「それはなぜ?」


「エルが元気でいれば、それでいい。俺が覚えていなくても、エルが笑っていれば、それが俺の全部です。俺が何者であっても、そうであっても」


 ヒルデ婆はしばらく俺を見ていた。それから、静かに言った。


「……一つだけ、約束して欲しい。最後の一つは、売らないで欲しい。‥最後の記憶だけは」


俺はヒルデ婆に聞く。

「最後の記憶?」


「あぁ、それはお前が何者であるかを決める、一番深いところにある記憶だ。魔法使いとしての核——魔核と呼んでもいい。それを売ったら、本当に何も無くなる」


 俺は頷いた。

 でも正直、もう分からなくなってきた。

 最後の記憶が何なのか。



今日、エルが魔法学院の最優秀賞を取ったと知らせてくれた。

声が震えていた。

泣いているのかと思ったら、笑っていた。

俺もつられて笑った。

「おめでとう」と言ったら、エルが「とうちゃん」と言って、少し黙った。


その間の意味が、今の俺にはよく分からない。

でも温かかった。

通信を切ったあと、俺は窓の外を見た。

桜が散り始めていた。

きれいだな、と思った。

誰かに見せてあげたいな、と思った。


 その誰かが誰なのか、しばらく思い出せなかった。

 ふと羊皮紙を見た。

「娘の名前はエル」

 そうか。エルに見せてやりたかったんだ。

 エルは今日、魔法学院で一番になったんだ。

 よかった。本当に、よかった。



 これを誰かが読んでいる頃、俺は俺じゃなくなっていると思う。


 最近、自分が誰か分からなくなってきた。

 自分でも分かる。

 何かが、空っぽになっていく感じがする。

 でも怖くない。不思議と、怖くない。


 なぜかというと、胸の真ん中が、いつも温かいからだ。

 何の記憶もないのに、温かい。

 人を愛したことがあった体は、覚えているのだと思う。

 体から魔力は消えた。

 でもこれだけは、消えなかった。



 今日、若い女の人が来た。


 見たことのない顔だった。

 でも、扉の前に立ったその人を見たとき、胸がいっぱいになった。

 泣きそうになった。

 なぜだか分からない。


 その人は俺を見て、少し笑った。

 笑うと、左の頬だけにえくぼができた。


「とうちゃん。私だよ」

 俺には分からなかった。

 でも、ずっと会いたかった人だと、体が分かっていた。

 その人は俺の隣に座って、古い魔法帳を開いた。そして読み始めた。


 俺はその声を聞きながら、目を閉じた。

 胸が、ずっと温かかった。



 エルは最後のページを閉じた。

 魔法帳の最後には、こう刻まれている。


——この日記を読む人へ。俺はもう忘れてしまっているかもしれない。

でも、一つだけ伝えておきたいことがある。


 俺が最後まで売らなかった記憶が何だったか、分かるか?

 ヒルデ婆は「最後の一つは売るな」と言った。

 俺はその約束を守った。

 最後に残った記憶は、たった一つだった。


 それは娘が初めて笑った瞬間の記憶だ。

 あの瞬間、俺は父親になった。

 どんな魔法より、どんな魔力より、それが俺の核だった。

 それだけは売れなかった。

 それだけは、どうしても。


 エルは手帳を膝に置いて、父の手を握った。

「とうちゃん」

 父は澄んだ目で、まっすぐに見た。


「……お嬢ちゃん、いつも来てくれるね」

「うん」

「ん?なんで泣いてるんだい?」

 泣いていたエルは笑った。

「ううん、なんでもないよ」


 しばらくして、父は言った。

「この日記に出てくる人、すごいね」

「……そうだね」


「娘のことが、すごく好きなんだね」

 エルは返事ができなかった。

 父は続けた。

「そういうお父さんがいる子は、幸せだね」

 窓の外で、桜が風に揺れていた。


 エルはしばらくの間、声を出さずに泣いた。

 父の手を、ただ握っていた。父は何も言わず、ただ横で、静かに笑っていた。


 胸の真ん中が、温かかったから。

 何の記憶もなくても、ただ、温かかったから。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

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