第58話 閑話 魔王軍の皇太子、農家を志す
父上が村から戻ったのは、夕方だった。
そして執務室に呼ばれたのは、その日の夜だ。
入ると、ヴァルドが机の前に座っていた。
エールの瓶が一本、空になっていた。グラントの酒場のものだと、瓶を見ればわかった。
視察のついでに補充してきたらしかった。
「座れ、カイン。それと、ベルグもだ」
ベルグも座る。
「ガイウスの村の視察に行った」とヴァルドが告げる。
ヴァルドの言葉に、カインは思わず身を乗り出した。魔王自身が、一介の農家の提案を確かめるために馬車を飛ばした。
その事実だけで、この開拓計画がもはや単なる「個人の趣味」の域を超えていることを示していた。
「……どうでしたか、父上。あの、黒龍ヴェルダと戦い、剥き出しになった大地は」
カインが問いかけると、ヴァルドはゆっくりと視線を上げた。
「広かった。龍の魔力に焼かれ、岩山が崩れ去ったその先には、私ですら想像し得なかったほどの平地が広がっていた。だが……何より驚くべきは土地の広さではない」
ヴァルドは一度言葉を切り、喉を鳴らすように続けた。
「あの農家――ガイウス・ノアだ。彼が『ここは畑になる』と口にした瞬間、私にはそこが既に青々と茂る農地にすら見えた。奴が言えば、それは単なる希望的観測ではなく、確定した未来になる。そう思わせるだけの理が、あの男にはあった」
傍らで聞いていたベルグが、信じられないといった様子で小声で呟く。
「……父上まで、そんな風に仰るのですか。あの農家を、そこまで……」
ヴァルドは構わず話を続けた。話題は、カインが最も気にかけていた存在――黒龍ヴェルダに移る。
「黒龍にも会った。少女の姿をしていたが、あれは紛れもなく『四大魔獣』の一柱だ。藍色の衣を纏い、金色の瞳で俺を射抜く姿には、かつての荒々しい誇りが宿っていた」
「少女の姿……。それが、農家と共にいたのですか」
「そうだ。ガイウスの隣に立ち、当たり前のように言葉を交わしていた。驚くべきは、黒龍が己の縄張りの管理を、全面的にガイウスに委ねているということだ」
俺はベルグを見た。
ベルグが俺を見た。
二人とも何も言わなかった。
「農家が黒龍を懐柔したということですか」とベルグが言った。
「懐柔ではない」とヴァルドが言った。
「では何ですか」
「……なんだろうな」
ヴァルドが少し考えた。
「農家が農家をしていたら、龍がついてきた、という感じだった」
「それが一番わからない表現ですが」と俺は言った。
「あの農家に関しては、それが一番正確な表現だ」
その言葉は、魔王城の重厚な執務室にはあまりにも不釣り合いで、しかし、だからこそカインの胸に深く、ワクワクとするような期待感を刻み込んだ。
話題は、開拓の条件へと移った。
ヴァルドは、グラントから譲り受けた二本目のエールを開け、琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「ガイウスには、収穫物の四割を魔族領に納めるよう条件を出した。開拓の人手と引き換えにな。……奴は、即答したよ」
「即答、ですか。……迷いもなく?」
「ああ。理由は一つだった。北の集落に住む、魔族の子供たちが、来年も同じ場所で笑っていられるように――とな」
「……また、彼に先を越されました」
カインの声は、微かに震えていた。
「皇太子として、民の食糧問題を、住処の安寧を真っ先に考えるべきは私だったはずだ。それなのに、あの方は……」
「恥ずかしいか、カイン」
ヴァルドの低い問いに、カインは真っ直ぐに父を見返した。
「はい。恥ずかしいです。……ですが、それ以上に、誇らしい。そのような御方が、私の友人であり、開拓の師であってくれることが」
ヴァルドは満足げに頷くと、エールを一口飲んだ。
「ならば、その恥をクワを振るう力に変えるがいい。グラントという店主は、エールを出すとき、実に良い顔をしていた。己の仕事に一切の妥協を許さぬ、職人の顔だ。ガイウスも、カイン、お前も、そうであれ」
「父上……」
「逸れた。開拓の話に戻るぞ」
ベルグが横で「逸れた自覚はあったのですね……」と、今度は誰にも聞こえないような小声で呟いた。
ヴァルドが立ち上がり、窓の外を見据えた。
そこには、魔族領を包む深い夜が広がっているが、その先には確かに、北の開拓地へと続く道がある。
「開拓に参加する魔族の人選は、すべてお前に任せる。カイン」
「はっ! 責任を持って、志のある者を選び抜きます」
「それと――ベルグ。貴様も行け」
「……は?」
ベルグが、間の抜けた声を上げた。
魔軍の最高幹部である彼に下された、あまりにも唐突な「出向」命令。
「な、なぜ私まで……。私は軍の再編や、防衛の任が……」
「農作業というものを見てみたい。いや、やってみても良いな、と言ったのは誰だったか?」
「それは、まあ、好奇心で少し口にしただけで……」
「決定だ。魔王軍最高幹部が、黒龍の縄張りで土にまみれる。……実に面白いではないか」
ベルグが顔を覆い、「魔王軍の威信が、クワ一本で消えていく……」と絶望的な呟きを漏らすが、魔王ヴァルドの決定は絶対だった。
魔王ヴァルドが扉へと向かう。
カインはその背中に、最後の一つ、どうしても確かめたかった問いを投げかけた。
「父上! 皇太子である私が、農夫として参加すること……本当におかしいとは思いませんか?」
魔王ヴァルドは足を止め、振り返ることなく答えた。
「ガイウスが、お前のために農具を用意すると言っていた。……あのアホ正直な農家が、使うあてのない農具を無駄に用意すると思うか?」
「……いいえ。あの方は、必要なものしか用意しません」
「ならば、お前は必要とされているのだ。農夫としてな。……恥をかくなよ。せいぜい、土に教わってこい」
そう言い残し、魔王は部屋を去った。
一人残された執務室で、カインはベルグと顔を見合わせた。
「……カイン、一つだけいいか」
「なんだ、ベルグ」
「農具の使い方は、本当に調べておくんだな? 私は絶対に、お前の尻拭いで畑を耕すのは御免だぞ」
「わかっている。……明日から、まずは書庫で文献を漁る。農地整理、地脈の調整……学ぶべきことは山ほどある」
ベルグはため息をつきながらも、その口元には、かつて戦場へ向かう前のような、不思議な高揚感が漂っていた。
「……行くんだな。本当に」
「ああ。行くよ」
カインは窓の外を見た。 そこには、ただ冷たく厳しい魔族領の夜があったが、今の彼にはその暗闇の向こうに、緑が芽吹き、魔族の子供達の笑い声が響く、新しい大地が見えていた。
農夫として行く。
皇太子としての冠を脱ぎ捨て、一人の男として、ガイウスと共に土を耕す。
そのことが、今、これほどまでにカインの心を震わせていた。
「よし。まずは、どの農具が一番手に馴染むか……そこからだ」
カインの独り言に、ベルグが呆れたように笑う。
魔族領の歴史が大きく動き出そうとしているその夜、一番の「事件」は、皇太子がクワの形状に悩み始めたことだったのかもしれない。




