第57話 魔王が来た、目的は
朝。
村の静かな空気を切り裂くように、漆黒の馬車が姿を現した。
それは並の馬なら怯えて逃げ出すような、威圧的な魔力を放ちながら。
扉が開くと、そこには冬の夜を纏ったような男――魔王ヴァルドが立っていた。
だが、その手には不釣り合いなものが握られていた。
酒場の店主、グラントの名が刻まれた、空のエール瓶だ。
「……これを返却に来た」
「それが、わざわざ馬車を飛ばしてこられた主目的ですか」
「いや視察だ」
「視察、ですか?」
「エールの品質確認と、視察だ」
魔王は無表情に言い放つが、その瞳にはわずかな愉悦が宿っている。
彼は俺の顔をじっと見つめ、低く響く声で続けた。
「黒龍ヴェルダと戦い、そして勝ったそうだな。報告書より先に、カインから熱に浮かされたような手紙が届いたぞ」
「やってみなければ分かりませんでしたが、結果としてそうなりました」
「『やってみて勝った』か。……面白い農家だ」
ヴァルドはそう言って、空き瓶を横から出てきたグラントへと無造作に手渡した。
グラントは無言でそれを受け取ると、瓶の底を覗き、汚れがないか確認して短く頷く。
「補充分は用意してある。樽ごと持っていけ」
「助かる」
魔族の王と、頑固な酒場の親父。二人の間に余計な言葉は要らなかった。
そこにあるのは、旨い酒を醸す者と、それを正当に愛する者だけの静かな信頼関係だ。
「跡地を見に行く。案内しろ、ガイウス」
ヴァルドの言葉に従い、俺たちは村を北へと発った。
森の入り口まで差し掛かった時、木陰から一人の少女がふわりと現れる。
藍色の衣を揺らしたヴェルダだ。
魔王と黒龍。
かつて世界を震撼させた『四大魔獣』の二柱が、今、俺の目の前で対峙した。
風もないのに森の木々がざわめき、足元の地脈が悲鳴を上げるような緊張感に包まれる。
俺は静かに、二人の射程圏内から一歩下がった。
このレベルの衝突に巻き込まれては、農家の体力がいくらあっても足りない。
「……黒龍か」
「そうだけど」
ヴェルダの声には、少女の姿に似合わぬ重圧があった。
「わらわの縄張りに土足で踏み入るとは、無礼な魔王よ全く」
「農家が許可を出した。貴様、こ奴に管理を任せているのだろう?」
「……ふん。面白い魔王だ。ガイウスを盾にするとはな」
一触即発かと思われた空気は、魔王ヴァルドの意外な一言で霧散した。
「エールを飲むか。案内が終われば、一杯付き合おう」
「……む、考える」
ヴェルダが少しだけ口元を綻ばせた。龍の誇りと魔王の威厳。
二つの巨大な存在が、一人の農家が淹れた酒を介して、不思議な調和を見せ始めていた。
跡地に辿り着くと、ヴァルドはしばらく言葉を失った。
崩落した岩山。
深く刻まれた戦いの爪痕。だが、そこにはかつてなかったほど、まっさらで広大な平地が広がっていた。
「広いな。ここを、すべて畑にするのか」
「そうです。三年から五年もあれば、一帯を緑で埋め尽くせます。人手があれば、もっと早い」
「魔族の人手は、カインが既に選別を始めている。……だが、条件があるぞ」
ヴァルドの金色の瞳が、鋭く俺を射抜いた。
「収穫物の四割を、魔族領に回せ。あとの六割は好きにしろ」
「承知しました。妥当な配分です」
「即答か。六割では少ないとは思わんのか?」
「こちらは問題ないです、それに北の集落の連中が腹一杯食べられますから。……魔族の子供たちの、来年の飯になる」
俺がそう答えると、ヴァルドは意外そうに目を細めた。
「農家のくせに、随分と遠くを見るのだな」
「農家だからこそ、収穫の分配こそが平和の礎だと知っています」
ヴァルドは視線を遠くの地平線へと向けた。
「カインが農夫として来ると言っていた。皇太子が泥にまみれるのを、貴様は止めなかったのか?」
「止める理由がありません。農作業は、誇らしい仕事ですから」
「……そうか」
短く、重い肯定。その一言には、戦いに明け暮れてきた王としての、隠しきれない敬意が混じっていた。
村への帰り道、グラントの食堂でエールを飲み干したヴァルドは、満足そうに喉を鳴らした。
「カインに伝えろ。『農夫として来い』とな。あ奴は不器用だ、農具の使い方も分からんだろう」
「しっかり教え込みます」
「……慣れるか? あ奴に」
「農作業は、誰でも慣れます。土が教えてくれますから」
三杯目のエールを置いたグラントが、無言で頷く。
リナが隣で「あの二人、背中がそっくり」とクスクス笑っていた。
夕方、村を出発する漆黒の馬車を見送りながら、黒龍ヴェルダが勝ち誇ったように言った。
「な? わらわの言った通りだったろう。あの魔王、またすぐに来るぞ」
「そうですね。次は視察ではなく、確認だと言っていましたし」
「驚けと言っておるのだ。わらわの予想通りだよ!」
「ええ、内側では天地がひっくり返るほど驚いていますよ」
「もう! その顔、全然驚いてない!」
夕焼けが、北の跡地を黄金色に染めていく。
あの地を耕す。
龍がいて、魔王が来て、皇太子がクワを担いでやってくる。
穏やかなスローライフを求めていたはずが、どうやらまた、面倒で賑やかな日常が加速していきそうだ。
だが、土を握る俺の指先には、確かなワクワク感が残っていた。
スローライフは、今日も魔王の飲み干したグラスの音と共に順調だった。




