第38話 黒龍
翌朝。
翌朝。 昨日の「森の異変」について話し合っていた矢先のことだ。 作業場の戸を叩き、村長のゴードンが入ってきた。
「座りますか?」
「いや、このまま話す」
ゴードンは勧めた椅子を断り、厳しい視線で窓の外を見つめた。その先にあるのは、北にそびえる険しい山脈だ。
「……五十年前の話だ」
ポツリと、呟く。
「ワシがまだ若かった頃、この村に一人の冒険者が逃げ込んできた。彼はAランクで、龍を何体も仕留めた実績を持つ、泣く子も黙る凄腕だった」
ゴードンが一度言葉を切り、喉を鳴らす。
「その男が——泣いていたんだ」
「泣く? 怪我でもしていたんですか?」
レオが身を乗り出して尋ねる。
「いや、体は無傷だった。ただ、顔が紙のように真っ白でな。生まれたての小鹿みたいにガタガタと震えながら、村に転がり込んできた」
作業場が、しんと静まり返る。
「……何を見たんですか」
「北の山の奥で、『黒龍』が動くのを見たと言っていた。気配を感じた瞬間、戦うどころか、無意識に足が動いていたそうだ。気づいたら、この村までなりふり構わず走っていたと」
外で風が吹き、乾燥した薬草の葉がカサリと音を立てた。
「ワシは聞いた。何を感じたんだと。男はしばらく震えていたが、一言だけこう言った」
「——『死』の気配だと」
ゴードンが視線をこちらへ戻す。
「自分の死だけじゃない。もっと巨大な、この世界そのものが終わるような気配がしたそうだ。……当時は若かったワシも、大げさな奴だと笑った。Aランクともあろう者が情けないとな」
「……笑い事では、なかったんですね」
「ああ。その翌日、村の周りから一切の生き物が消えた。鳥も、獣も、虫さえもだ。森が、耳が痛くなるほど静まり返った。今お前たちが森で見てきた光景と同じだ」
「どのくらい、続いたんですか」 カナの問いに、ゴードンは指を三本立てた。
「三日だ。その後は何事もなかったように、また鳥が鳴き始めた。あの時は、龍がただ寝返りを打ったか、縄張りを確認しただけだったのかもしれん。だが、ワシはあの三日間……この村が地図から消えるのを待つだけの、生きた心地がせん時間を過ごした」
ゴードンの吐き出した溜息は、五十年前の恐怖をそのまま引きずっているかのように重かった。
「今回は、あの時とは違う。気配だけじゃない、龍そのものが動いている。Aランクの龍が逃げ出すほどの、何かが」
「……なぜ、今になって動き出したと思いますか」
俺の問いに、ゴードンは真っ直ぐに俺を見た。
「正直わからん。だが、お前が来てからこの村の周りでは色々起きすぎている。魔王軍が来て、王国との交渉が進み、環境が変わった」
地脈の修復、魔族の移住。
長年澱んでいたエネルギーの流れが変わったことが、眠れる古龍を刺激したのか。
それが怒りなのか、ただの目覚めなのかは、まだわからない。
「ガイウス」
ゴードンの声が、少しだけ低くなった。
「お前はどうせ——行くんだろう?」
「……そうなるかもしれません」
ゴードンは苦い顔をしたが、やがて諦めたように深く息を吐いた。
「ワシはこの村に六十年いる。過去には盗賊も来たし、飢饉もあったが村は在り続けた」
ゴードンが俺の肩に、手を置いた。
「お前が来てからは、色々大変だが、お前たちがなんとかして来たからな、……だから今回もなんとかしてこい」
それだけ言い残して、ゴードンは作業場を後にした。
縁側に向かうその背中は、いつになく小さく、少しだけ丸くなっているように見えた。
その日の午後、俺は二通の手紙を書いた。
一通はエリアへ。
王都の文書庫にある黒龍の目撃情報、討伐記録、あらゆる魔力報告書を洗ってほしい。
もう一通はセルジオへ。
ギルドで保持している黒龍についての公的な記録を調べてほしい。
手紙を書き終え、外に出る。
井戸のそばで、リナが桶に水を汲んでいた。
俺の姿に気づくと、彼女は手を止めた。
「……ゴードンさんの話、聞いてたよ」
「そうでしたか」
「誰にも言わなかったのかな?」
「言う機会がなかったんでしょうね」
リナが井戸を見た。
「……怖い話だね」
「それに死の気配、か。……ガイウスさんは、怖くないの?」
正直に、答えようと思った。
「怖いですよ。Aランクが泣いて逃げる相手です。怖くないはずがない」
「……でも、行くんでしょ?」
「行きます。放っておいて何かが起きた時、後悔するほうがもっと怖いので」
リナはしばらく俺の顔をじっと見ていた。
やがて、何かを納得したように小さく頷き、桶を両手で抱え直した。
「……わかった。ガイウスさんらしいね、それ」
リナはそのまま宿屋へと戻っていった。
その真っ直ぐな背中を見送りながら、俺は北の空を仰ぐ。
山の稜線が夕闇に溶け込み、不気味な静寂が広がっている。
五十年前、一人の冒険者を絶望させた「死」がそこにいる。
それでも——。
守らなければならない畑と、エールと、この騒がしい日常がある。
行かなければならない理由が、今日、また一つ増えた。
スローライフは、先々不穏ではあるが、まだギリギリ順調だ。




