第39話 逃げた龍、村への襲来危機
夕方、村の北側の森から音がした。
大きな音だった。
木が折れる音、地面が揺れる音、それが混ざり合って、村まで届いてきた。
グラントが無言で手を止めた。
息子のマルクが外を見た。
リナの母が食堂の窓を開けた。
俺は薬草に水をやっていたが音の方角を確認した。
(北側の森、村から三百メートルほどか)
「……ガイウスさん!」
レオが駆け寄ってくる。その顔には隠しきれない緊張が浮かんでいた。
「龍……でしょうか」
「おそらく。レオ、皆を連れて宿屋へ。外には出ないように伝えてください」
「まさか、一人で行くつもりですか!?」
そうレオは慌てて声をかける。
「一人の方が、相手を刺激しません。……何より、薬草の収穫前なので、これ以上暴れられるととても困ります」
俺は返事も待たずに、夕闇に沈みかけた森へと歩き出した。
森の入り口で俺を待っていたのは、体長十五メートルを超える火龍だった。
Aランク相当。本来なら空の支配者として君臨し、数隊の騎士団を焼き払うほどの猛りを持つ種だ。
普通の龍なら、ここで威嚇する。
縄張りに侵入した人間に対して、咆哮を上げて距離を取らせようとする、それが龍の行動だ。
しかしこの龍は、咆哮を上げなかった。
ただ、俺を見ていただけで目に、光がなかった。
疲弊しているらそれだけではない。
何かに怯えた生き物の目をしていた。
何日も眠れていない、何日も食べていない、そういう目だった。
それに目の前の龍は満身創痍の状態だった。
赤い鱗は剥げ、翼は無残に折れ曲がっている。本来なら咆哮を上げるはずの口からは、かすれた喘鳴が漏れるだけだ。
俺は少し考えた。
戦う必要があるかどうか。
答えはすぐ出た。
この龍は村を襲いに来たのではない。
逃げてきただけだ。
ただ、このまま放置すれば、追い詰められた龍が何をするかわからない。
だから村の近くにいさせるわけにはいかない。
ふと龍と、目が合った。
(火龍side)
あれは、
北の山に現れた「あれ」は生き物とは思えない存在だった。
魔力は、ただ圧倒的な質量で我らの魂を塗り潰した。
抗う術などない。
ただ逃げること、それだけが生存の唯一の選択だった。
逃げて、逃げて、辿り着いたこの小さな村の入り口。
目の前に一人の人間が立っていた。
威圧感はない。
だが、言葉を交わす前に理解した。
この人間の魔力は、北にいる「あれ」とは対極にある。静かで、どこまでも深く、澄み切っている。
恐怖ではなく——不思議と、絶望の淵で差し伸べられた手のような、安堵を感じた。
(ガイウスside)
「……離れてください。北に戻る必要はありません。ただ、この村から去るように」
俺は龍に向け、【古代語】を紡いだ。
龍の瞳が驚愕に揺れる。
人間が、龍の始祖の言葉を操っているのだから当然だ。
俺は少しだけ、魔力の質を変えた。
戦う意志がないことを示しつつ、こちらが「格上」であることを、その生存本能に刻み込む。
「南へ行け。そこなら、お前を拒むものはいない」
龍は長い間、俺を見つめていた。
やがて、重い体をゆっくりと持ち上げると、残った片翼を大きく広げた。
土煙を上げ、龍は南の空へと消えていく。
その最後の一瞥には、確かな感謝の色が混じっていた。
村に戻ると、入り口には不安そうな顔をした皆が揃っていた。
「ガイウスさん! 龍はどうなりましたか!?」
「南へ行きました。戦う意志はなかったようです」
レオが信じられないといった顔で繰り返す。
「戦わずに……追い払ったんですか?」
「追い払ったというより、道を教えただけですよ」
カナが静かに、空を見上げて呟いた。
「……怯えていたんですね、あの龍も」
「ええ。これで、確認できているだけで七体目です。周辺の龍がすべて、北から逃げ出している」
アルトが顔を青くして俯いた。
「七体……。それほどまでの『何か』が、あそこにいるんですね」
リナが俺の袖を、少し強めに引いた。
「ガイウスさん、龍を追い払ったんだって?」
「ええ。もうあの龍には、戦う力も気力も残っていませんでしたから」
「……優しいね、相変わらず」
リナはため息をつくと、空気を変えるように明るい声を上げた。
「さあ、ご飯! 今日は母さんが山盛り作ってるから。みんなで食べて、英気を養わないと」
本日の献立:村特産の温野菜サラダ、グラント特製の厚切りベーコン、そして大盛りのエール。
「座れ。まずは飲め」
ゴードンの号令で、全員が席につく。
俺は運ばれてきたエールを一口飲んだ。
喉を通る冷たさと、グラントが丹精込めた麦の香りが、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
「……旨いな」
「そうだろ」
グラントが短く答え、満足そうに頷く。
北に何がいようと、やるべきことは変わらない。
旨いものを食べ、しっかり眠り、明日もまた土をいじる。
それが俺にとっての、守るべきスローライフの姿なのだから。
スローライフは、今日も——色々あったけど順調だ。




