第36話 閑話 動き出した影
閑話少し短いです、すいません。
山が、揺れた。
いや違う、揺れたのではない。
“あれ“が、動いた。
俺たちはそれを感じた瞬間、全員が同じ方向を向いた。
北だ、北のさらに奥。
人間どもが「禁忌の山」と呼ぶ場所。
百年間以上、誰も近づかなかった場所。
そこに、“あれ“がいる。
この山脈では強い部類に入る。
人間の冒険者が挑んでくることもあるが、返り討ちにするのが常だ。
ましてやBランクなど、爪の一振りで終わる。
縄張りも広いし食料も豊富だ。
ここ百年、不自由したことはなかった。
なのにあれが動いた。
それだけで、足が震える。
理屈ではない、本能だ。
本能が、全力で叫んでいる。
逃げろ、今すぐどこまでも。
俺だけではなかった。
仲間たちも同じだった。
縄張りを争っていた相手も、今日だけは関係なかった。
全員が南を向いていた。
誰も何も言わなかった。
言葉は要らなかった。
逃げる、それだけだった。
南に向かいながら、一度だけ振り返った。
北の山の頂に、巨大な黒い影があった。
山そのものが動いているように見えた。
目が合った気がした。
気のせいだと思いたかった。
でも——もっと速く逃げなくてはと思った。
人間の集落が見える。
本来なら近づかない。
面倒なことになるからだ。
ただ、今は関係なかった。
あれから離れるほうが大事だ。
人間が騒いでいた。
小さな声が聞こえた。
怖くないのか、人間。
“あれ“が北にいるのに。
俺たちが逃げているのに。
お前たちは、何も分からないのか?
それとも——知っていて、動じないのか。
南の森に入る。
ようやく、少し息ができた。
仲間たちも同じで全員が疲弊していた。
食事も取れていない、縄張りも捨てた。
百年かけて作った居場所を、一日で失った。
だが誰も文句を言わなかった。
言える状況ではなかった。
“あれ“の気配が、まだ背中にある。
遠くなっているのに、消えない。
夜。
北の空が、少し赤かった。
あれが魔力を放出しているのかもしれない。
俺は目を閉じたが眠れなかった。
ただ——
南の集落の灯りが、遠くに見えた。
人間どもは今夜も眠るのだろう。
“あれ“が動いているのも知らずに。
馬鹿な生き物だと思った。
それでも——
あの灯りが、なぜか少しだけ、羨ましかった。




