第19話 魔王軍の気配
朝、畑に出ると、鳥の声がしなかった。
いつもなら夜明けと同時に鳴き始める鷹が、今日は一声も聞こえない。
雀も、鴉も、川沿いのカモも。
全部、いない。
俺は鍬を下ろして、森の方向を見た。
木々は静かに揺れているただ、いつもも何かが違う。
「《魔力感知》」
術を展開した。
森の中に、魔獣の気配がある。
ただ——動き方がおかしい。
全部、南に向かって動いている。
スケイルドベアも、ダークウルフも、ウィングリザードもだ。
種類に関係なく、全員が同じ方向へ、急いで移動している。
俺は地面に手をついた。
北から、微かに——何かが来ている。
まだ遠い。 ただ、確かにある。
俺は立ち上がって、鍬を畑に立てかけた。
今日の水やりは後回しにする必要があるかもしれない。
エリアが作業場にいた。
術式の研究資料を広げながら、朝食のパンをかじっていた。
「おはようございます」
「エリア、少しいいですか」
「はい。 あ、このパン、昨日リナさんのお母さんが焼いたやつで美味しくて——」
「北の方向の魔力反応を調べてもらえますか」
エリアが手を止めた。
「北、ですか?」
「今朝から森の魔獣が全部南に逃げています。 地脈にも微かな乱れがあります」
エリアがパンを置いた。
眼鏡を直して、立ち上がった。
「……どのくらい遠いですか」
「まだわかりません。 ただ、近づいてきている気がします」
「調べます」
エリアが術式の道具を手に取った。
俺はゴードンのところへ向かった。
ゴードンの家に行くと、老人がすでに縁側に座っていた。
北の方向を見ていた。
「知っていましたか」
「鳥が飛んでいかんな、と思っていた」
「魔獣も逃げています」
ゴードンが静かに頷いた。
「……何十年も前に、一度だけこういうことがあった」
「どうなりましたか」
「魔王軍が、近隣の村に来た」
俺は少し考えた。
「その時は」
「被害が出る前に、冒険者ギルドが察知して、王都の軍が動いた。 ただ——ここは辺境だ。 王都からの援軍が来るのに、どのくらいかかると思う」
「最短で三日。 状況によっては五日」
「そうだな」
ゴードンが俺を見た。
鋭い目だった。
「……ガイウス殿」
「わかっています」
俺は空を見た。
北の方向に、雲が集まり始めていた。
暗い色の雲だった。
「とりあえず情報を集めます。 エリアが調べています」
「わかった。 わしは村人たちに、念のため準備をさせておく」
「お願いします」
「ガイウス殿」
「なんですか」
「顔が、いつもと少し違うぞ」
「そうですか」
「珍しく、引き締まっている」
俺は何も言わなかった。
嫌な予感がする、とは言わなかった。
言っても仕方がないことは、言わない性質だ。
ただ——
北の空が、今日は少しだけ重かった。
昼前、エリアが走って戻ってきた。
地図を全部落としながら。
「ガイウスさん!」
「落ち着いてください」
「落ち着いてる場合じゃなくて——」
エリアが羊皮紙を広げた。
「北の方向、距離にして約三十キロのあたりから、大規模な魔力反応が出ています」
「規模は」
「……個体数の推定が難しいんですが」
エリアが眼鏡を直した。
「少なくとも、二百。 多ければ、三百を超えるかもしれません」
広場が静まり返った。
いつの間にか、リナとゴードンとグラントも来ていた。
「移動速度は」とゴードンが聞いた。
「このペースだと……二日で、この村の手前まで来ます」
「二日」
「はい」
またしばらく沈黙があった。
リナが言った。
「魔王軍、なの」
「断定はできないですが——魔力の質が、通常の魔獣とは違います。 統率された動き方をしています」
グラントが腕を組んだ。
マルクが広場の端から覗いていた。
グラントが目配せすると、マルクが渋々引っ込んだ。
「王都への連絡は」とセルジオが——
セルジオはいない。 そうだ、先週帰った。
「手紙を出します。 ただ、援軍が来るのは早くて三日」
「二日では間に合わない」とゴードンが言った。
「そうです」
「つまり——」
全員の視線が、自然と俺に集まった。
俺は空を見た。
北の雲が、少し広がっていた。
「まず情報を確認します。 本当に魔王軍かどうか、規模はどのくらいか」
「どうやって」
「明日の朝、見に行きます」
「一人で?」とリナが言った。
「一人のほうが速いので」
「それは——」
「とりあえず今日は、村人の避難経路を確認してください。 南の街道を使えば、ラッセルまで半日です」
「わかった」とゴードンが頷いた。
「ガイウス殿」
「なんですか」
「無茶はするな」
「無茶かどうかは、見てみないとわかりません」
ゴードンが皺を深くした。
それが笑顔なのか、困り顔なのか、今日はわからなかった。
夕方、作業場でポーションを多めに仕込んでいると、リナが来た。
「手伝う」
「いいですよ」
「手伝いたいから来た」
いつかも同じことを言っていた気がする。
リナが隣で薬草を仕込みながら、しばらく黙っていた。
「ねえガイウスさん」
「なんですか?」
「怖い?」
俺は少し考えた。
「怖い、というより——面倒ですね」
「面倒」
「三百体を相手にするのは、普通に手間がかかります」
リナが俺を見た。
「……三百体、一人でやるつもりなの」
「できれば」
「できればじゃなくて」
「まあ、成り行き次第です」
リナが薬草を置いた。
「ガイウスさん」
「なんですか」
「……絶対、帰ってきてよ」
俺はリナを見た。
いつも通りの顔で言っていた。 ただ、目が少し違った。
「帰ってきますよ」
「約束して」
「約束します」
リナが少し息を吐いた。
「……信じる」
俺はポーションの仕込みを続けた。
窓の外で、風が強くなってきていた。
北から吹いてくる風だった。
スローライフは、今日から——少しの間だけ——中断する。




