第163話 勇者たちの逃走と、暗躍する魔神
エーデル村での強制労働が始まって数日。
開拓地には、泥にまみれ、虚ろな目でツルハシを振るう三人の勇者たちの姿があった。
「……クソッ……なんで俺が……大勇者様が……」
「爪、また割れちゃった……もう嫌……」
「腹減った……力が、出ねえ……」
ケンヤ、リカ、ゴウの三人は、完全に疲弊しきっていた。
彼らは未だに「自分たちは選ばれた特別な存在だ」というプライドを捨てきれず、農作業の極意(土と対話すること)を学ぼうとしないため、ただ無駄に体力を消耗するばかりだった。
そんな彼らの様子を、少し離れた場所から精霊たちが見守っていた。
「おいおい、また腰が高くなってるぜ。あんな振り方じゃ、すぐにバテちまう」
炎の大精霊イグニスが、呆れたように頭を掻く。
「プライドが邪魔をしているんですのね。私たちも最初はそうでしたから、気持ちは分からなくもないですけれど……」
水の大精霊ウンディーナが、冷たい麦茶が入った水差しを用意しながらため息をついた。
かつては神話の存在として傲慢に振る舞っていた彼らも、今やすっかり「ガイウスの畑の住人」として馴染んでいる。
だからこそ、出来の悪い後輩(勇者たち)をつい気にかけてしまうのだ。
「おーい、お前ら! 意地張ってないで少し休めよ! ほら、冷たい麦茶と、リナ特製の塩クッキーだぜ!」
イグニスが気を利かせて、彼らの元へ差し入れを持っていった。
だが――。
「……触るな!!」
パァンッ! と、ケンヤがイグニスの手を乱暴に払い除けた。
土の上に、コップとクッキーが散らばる。
「てめえらみたいな、農民の真似事をしてヘラヘラ笑ってる連中と一緒にすんじゃねえ! 俺たちは勇者だ! こんな泥臭い村、絶対に抜け出してやる……!」
ケンヤが血走った目でイグニスを睨みつける。
「……あっそ。せっかく心配してやったのによ。まあ、勝手にしろ」
イグニスは落ちたクッキーを拾い集め、肩をすくめて背を向けた。
これ以上は、彼ら自身が折れるのを待つしかないと悟ったのだ。
その日の深夜。
村の皆が寝静まった頃、三つの影が音を立てずに宿舎を抜け出した。
ケンヤたち三人の勇者である。
「……よし、見張りはいねえ。あの農民、俺たちが逃げ出さないとでも思ってやがったな」
ケンヤが暗闇の中でニヤリと笑う。
「早く王都に戻ろ、ケンヤ。こんなところ、もう一秒もいたくない」
「ああ……チートスキルも少しずつ回復してきた。今なら、あの化け物どもから逃げ切れるはずだ」
彼らは全速力で村を飛び出し、北の霊峰へと続く深い森の中へと駆け込んだ。
枝葉を掻き分け、息を切らしながら数時間ほど走り続けた時だった。
――ふと、周囲の空気が「凍りついた」。
「……え?」
「な、なんだこれ……息が、できねえ……!」
ただの魔力圧ではない。
世界そのものが変質し、生物としての本能が「これ以上進めば死ぬ」と警鐘を鳴らすような、絶対的な死の気配。
月明かりすら届かない深い森の奥。そこに、漆黒の衣を纏った一人の男が立っていた。
「ひぃッ……! ぁ……」
ケンヤたちは息を呑み、恐怖でその場にへたり込む。【鑑定眼】が壊れたように真っ赤なエラーを吐き出し、目の前の存在が『神』の領域にいる化け物だと告げていた。
だが、その化け物――魔神ヤマトは、ひらひらと軽く手を振って、纏っていた死のオーラをあっさりと引っ込めた。
「やあやあ、こんばんは。こんな夜更けにどうしたんだい?……おっと、ごめんごめん。ちょっと魔力が漏れちゃってたね。脅かすつもりはなかったんだ」
ヤマトは、まるで渋谷のスクランブル交差点で友人にでも声をかけるような、あまりにも軽薄で親げな口調で笑いかけてきた。
「え……?」
ケンヤたちが呆然とする中、ヤマトは屈託のない笑みを浮かべて彼らに歩み寄る。
「君たち、……地球の、日本の出身だろ? いやー、驚いたな! 実は俺もなんだよ。
こんな異世界で同郷の人間に出会えるなんて、奇遇だね!」
「に、日本から……? あんたも、転生者なのか!?」
ケンヤの顔に、驚きと一縷の希望が差す。
圧倒的な強者でありながら、自分たちと同じルーツを持つ存在。
異世界で孤立し、プライドをズタズタにされていた彼らにとって、それはまさに「渡りに船」だった。
「そうそう。俺の名前はヤマト。よろしくね。……で、君たちずいぶんボロボロだけど、どうしたの? ああ、もしかしてあの村……ガイウスのところから逃げてきたの?」
ヤマトが同情するように眉を下げる。
「そ、そうなんだよ! 俺たち勇者として呼ばれたのに、あのイカれた農家に捕まって……!」
「泥水啜るような労働させられて……ネイルもボロボロなの!」
堰を切ったように不満を吐き出す三人に、ヤマトは「うわー、あいつ本当に容赦ないからなぁ、災難だったね」と深く頷いてみせた。
「よし、分かった。せっかくこんな異世界で会えた『同郷のよしみ』だ。俺が君たちを助けてあげるよ」
ヤマトが指先を軽く鳴らす。
パリンッ! と、ケンヤたちの体を縛っていた見えない鎖が砕け散った。
「おお……! 体が、軽い……! 魔力が完全に元通りだ……!」
「すげえ! ヤマトさん、あんた俺たちの命の恩人だ!」
ケンヤたちが歓喜の声を上げ、ヤマトの手を握りしめる。
「いいってことよ。せっかくチートもらって転生したんだからさ、もっと自由に、好きに暴れなよ。俺は君たちの味方だからさ。何かあったら力になるよ」
「ヤマトさん……! ああ、俺たち、王都に戻って絶対にあの農民を見返してやる!」
すっかり気を良くした勇者たちは、ヤマトに何度も礼を言いながら、狂ったように笑い声を上げて夜の森を駆け去っていった。
彼らの足音が完全に聞こえなくなった後。
ニコニコと手を振って見送っていたヤマトの顔から、スッと表情が消え失せた。
「……ホント、チョロいな。今の日本の若者は」
彼らが解放されたと信じているのは錯覚であった。
ヤマトは同郷の人間だと言って彼らを安心させ、その魂に自身の『支配の糸』を深く、気づかれないようにしっかりと植え付けていたのである。
「ガイウス・ノア。お前の愛する平和な箱庭に、少々『毒』を撒かせてもらうよ。……くくく、また新しくて便利な手駒が増えた」
魔神の口角が、三日月のように歪む。
軽薄な笑い声の裏に隠された絶対的な悪意が、夜の森に溶けていく。
エーデル村のスローライフの裏側で、世界を巻き込む巨大な闇が、いよいよ本格的に動き始めていた。




