第17話 宰相閣下の、長い一日 その2
(宰相ハーヴェルside)
王都から説得団が出発して、五日が経った。
宰相ハーヴェル・クロスは、執務室の豪奢な革椅子に深く沈み込み、副官のロウから提出された報告書を死んだような目で眺めていた。
朝から、書類に目を通す気力がまったく湧いてこない。
前にも全く同じことを思った気がする。
「閣下」
ノックの音とともに扉が開き、ロウが入ってきた。
「何ですか」
「説得団から最終報告が届きました」
「結果は?」
ロウが、ひどく言いづらそうに間を置いた。
「……全員、見事に撃沈したとのことです」
ハーヴェルは静かに目を閉じた。
「……詳しく聞きましょう」
「はい。まずフォルク神官長ですが、ガイウス殿から神託の術式の根幹について鋭い指摘を受け、一言も反論できなかったとのことで」
「あの神官長が?」
「はい。『王都へ持ち帰って至急検証する!』と血相を変えて戻られました。現在、神官団を総動員して術式の見直しが行われています」
「次は」
「ロスベルク侯爵ですが——」
「侯爵が直々に出向いたのですよね。あの強欲な御仁が、どうやって言いくるめられたのですか」
「はい。財産、地位、名誉、全て提示しましたが即座に断られたそうで。そして最終的に、ガイウス殿が『欲しい』と要求したものは——」
ロウが手帳を確認する。
「空のガラス瓶、三十本だったそうです」
重苦しい沈黙が落ちた。
「……は? ガラス瓶?」
「はい。上質なガラス瓶、とのことです。侯爵が慌てて急ぎで手配し、自ら手渡してきたそうで」
「侯爵が、自ら?」
「はい。『あの凄腕から特級のポーションを売ってもらった! 品質が素晴らしかった!』と、大変上機嫌で戻られました」
ハーヴェルは頭痛に耐えるように、こめかみを強く押さえた。
「……騎士団の二人は」
「一人は昨日のうちに報告書を提出しました。内容は『辺境の安全を守ることこそが、ひいては王国への最大の経済的貢献になるという崇高な考え方を学んだ。王都に戻って政策に活かしたい』と」
「……説得に行って、なぜ逆に感銘を受けて帰ってきているのですか」
「もう一人は報告書の提出すらなく、口頭で『あの方は王都のような薄汚い場所に来るべきではない。今いらっしゃる場所こそが正しいのだ』と熱弁を振るいました」
「セルジオはどうしました」
「『お暇をいただいて、また村へ行ってもいいですか』と聞いてきました」
ハーヴェルはもはや返す言葉がなかった。
説得団が全員、手ぶらで帰ってきたどころか、見事に丸め込まれ、あるいは感化されて戻ってきたのだ。
「……ガイウスは一体何と言っていたのですか。王都に来ない理由を」
ロウが手帳をパラパラとめくった。
「侯爵へ放った言葉ですが——『王になんてなったら、今の平穏な暮らしがなくなる』とのことです」
ハーヴェルはしばらく黙り込んだ。
「……それだけか」
「はい、それだけです」
ハーヴェルは窓の外を見た。
王都の空は、今日も恨めしいほど青かった。
「……わかった」
「どうされますか、閣下」
「どうもしません」
「しかし、神託の問題が——」
「神官団が検証しているのでしょう。結果が出るまで待ちます」
「その間、ガイウス殿への対応は」
「一切放っておきます」
ロウが少し目を丸くした。
「放っておく、というのは?」
「あの規格外の男は放っておいても、勝手にどこかで王国の役に立っています。我々が変に追いかけ回すほうが、よほど迷惑になる」
ロウがしばらく考え込んだ。
「……確かに、そうかもしれません」
「そういえば、ミミはどうしていますか?」
「王妃様の愛猫ですか。先週からパッタリと木に登らなくなり、王妃様も安心されているそうです」
「何かあったのですか?」
「……侯爵が王都に戻る際、ガイウス殿から『小さな石』をいただいてきたそうで。それを猫の首輪につけておくと落ち着くから、と」
ハーヴェルは今日一番の深いため息をついた。
「……ガイウスは何もかも、こちらが頼む前に全て終わらせているな」
「そのようです」
「……報告書、下げていいです」
ロウが一礼して退室した。
執務室に一人残されたハーヴェルは、再び椅子に深く沈み込んだ。
神託が再度下り、万全を期して説得団を送った。
だが、全員が手も足も出ずに返り討ちに遭った。
次に何をすればいいのか、宰相たる彼にも正直わからなかった。
ただ——
あの男が辺境の畑を耕しながら、何かに満足した顔をしているのを想像すると、不思議と腹は立たなかった。
いや、腹を立てる気力すら、もはや残っていなかった。
「……ガラス瓶、か」
虚ろに呟いて、ハーヴェルは未決の書類に目を落とした。
「はぁ……」
(ガイウスside)
朝、いつものように畑に出ると、村の入り口に人だかりができていた。
昨日はいなかった見慣れない顔が、十人以上も集まっている。
俺はクワを肩に担いだまま、村長であるゴードンの家に向かった。
老人が縁側に座って、面倒くさそうに遠くの喧騒を眺めていた。
「……村長」
「ああ、わかっている」
「何が起きているんですか」
「残念なことにお前さんの噂が、さらに広まったんだ」
ゴードンが渋い顔で腕を組んだ。
「王都の者が来た話が瞬く間に広まってな。Sランクの規格外魔術師が、エーデル村で呑気に農家をやっているという話が——」
「知れ渡ったと?」
俺は入り口の方向を見た。
人だかりがまた少し増えている気がする。
「野次馬ですか」
「半分はただの野次馬だな。残りの半分は、極上のポーションを買いに来た行商人と冒険者だ」
「ポーションは売りますが、野次馬は困りますね」
「困るな」
ゴードンがよっこいしょと立ち上がった。
「とりあえず、連中を広場に案内してくる。お前さんは——」
「畑の水やりをします」
「……目立つぞ」
「いえ、ただ水やりをしているだけですので」
ゴードンが呆れたように深いため息をついた。
昼過ぎには、広場に三十人ほどが密集していた。
グラントが急遽、昼間からエールの樽を追加で開けている。
リナの母親がフル稼働でパンを焼き、マルクが忙しそうに水を運んでいた。
いつぞやの市が立った時と同じ、完全にカオスな状態になっていた。
リナが慌てて作業場に飛び込んできた。
「ガイウスさん! 人が多すぎてお母さんがてんてこ舞いなんだけど!」
「ポーションの在庫を出しましょうか」
「それどころじゃなくて! みんながガイウスさんを一目見たがってるのよ!」
「それは困りますね」
「困るじゃなくて!」
リナが頭を抱えるように額に手を当てた。
「どうするのよ、あの人数」
「普通にしていれば、そのうち飽きて帰りますよ」
「普通って何よ、この異常事態で!」
「水やりをします」
「絶対目立つからやめて!」
俺は少し考えた。
「では、ポーションを売りに行きます。淡々と仕事をしていれば、野次馬も落ち着くでしょう」
「……まあ、今はそれしかないか」
俺はポーションの瓶が詰まった箱を抱え、広場に出た。
瞬間、三十人の視線が一斉に俺に突き刺さった。
「ポーションを売ります」
俺がただ一言そう告げると、三秒で凄まじい人だかりができた。
一時間後、あっという間に在庫が半分になった。
並んでいた冒険者の一人が、興奮気味に俺に言った。
「あ、あの! 本当にSランク魔術師なんですか!?」
「元、です。今はしがない農家です」
「見せてもらえませんか、その凄い術を!」
「見世物じゃないので」
「少しだけでいいんで!」
「ダメです」
隣にいた別の冒険者が身を乗り出してきた。
「あの、俺を弟子に——」
「取りません」
「なら、高額の依頼を——」
「この村の守り人の仕事以外は受けていません」
「じゃあ、俺の村の守り人に——」
「俺はこのエーデル村の守り人なので、他の場所は管轄外です」
ピシャリと撥ね付けると、冒険者たちは圧倒されたようにぞろぞろと引いていった。
騒ぎが少し落ち着いた頃、馴染みの行商人であるバルトがやってきた。
「またえらい騒ぎになってるな」
「そうみたいです」
「ポーション、二十本もらえるか」
「ちょうど二十本残っています」
「助かる。……それとな」
バルトが周囲を気にしながら、スッと声を落とした。
「王都で、もっとデカくて厄介な噂が立ってるぜ」
「どんな噂ですか」
「神託の件が貴族の間でも広まっていてな。中には、ガイウス、お前を神輿に担ごうとする動きを見せている連中がいるらしい」
「俺を担ぐ?」
「ああ。次の王の候補として、お前を頭に据えた派閥を作ろうとしている貴族がいるんだ。
まだ水面下の小さな動きだが、広まれば相当面倒なことになるな、こりゃ」
俺は少し考えた。
「……情報、ありがとうございます」
「余計なお世話かもしれないが、知っておいたほうがいいと思ってな」
「助かります」
バルトが代金を置き、ポーションの箱を大事そうに抱えて去っていった。
リナが心配そうに隣に来た。
「聞こえたわよ。……なんか、すごく面倒なことになりそうだね」
「なりそうですね」
「で、どうするの?」
俺は空になったポーションの箱を持ち直した。
「まず、在庫を補充します」
「……へ? そっちから!?」
「在庫がなければ、売れませんから」
リナが心底呆れたという顔をした。
「ガイウスさん、いくらなんでも危機感がなさすぎるよ……」
「危機感はありますよ。ただ、今すぐ俺にできる確実なことは在庫の補充なので」
「それを世間では危機感がないって言うのよ」
「そうですか」
リナが大きなため息をついた。
「……まあ、ガイウスさんが今更オロオロ焦っても変だけどさ」
「そうでしょう」
「でも、少しは心配してよ。王位継承とか派閥とか、冗談じゃないわよ」
「心配しています。だからこそ在庫を補充して、次に起こる事態に備えるんです」
リナが少し黙った。
「……なるほどね。それ、ガイウスさん流の心配の仕方なんだ」
「そうです」
「わかったわ」
リナが毒気を抜かれたように、少し笑った。
「じゃあ私は、食材の心配をする。これだけ人が増えると、お母さんの料理の材料が絶対に足りなくなるから」
「それがリナさん流の心配の仕方ですね」
「そういうこと」
二人で広場を見渡した。
人はまだ多いが、熱気は少し落ち着いてきた。
グラントが運ぶエールが飛ぶように売れ、マルクが嬉しそうに客の間を走り回っている。
エーデル村が、また一段と賑やかになっていた。
静かに暮らしたい身としては困るとは思う。
ただ、村がこうして活気づいている状況自体は、悪くない。
矛盾しているが、両方とも俺の偽らざる本音だった。
「夕方には落ち着きますかね」
「落ち着くといいね」
見上げた空は、今日も高く青かった。
俺のスローライフは、今日はかなり騒がしかったが——なんとか順調だ。
……たぶん。
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