第160話 宰相ハーヴェルの苦悩と、厄災の報せ
聖ガルディア王国の王都、宰相の執務室。
「国王は政に関与しない」というしきたりがあるこの国において、実質的な最高権力者である宰相ハーヴェル・クロスは、執務机に積み上げられた報告書の山を前に、深い溜め息を吐いた。
その顔は、たった数日で十歳は老け込んだかのようにやつれきっていた。
「……信じられん。これが、国を救うはずの『勇者』が行ったことだというのか」
報告書には、東方から召喚された勇者ケンヤたちが、西の領土を進軍する道中で引き起こした惨状が克明に記されている。
彼らは魔王討伐という大義名分を掲げながら、その実、私利私欲のままに街を破壊し、物資を強奪していた。
その被害は、かつての魔族との紛争を遥かに凌ぐ。
勇者たちに与えられた理外の力の前に、王国の騎士団など無力に等しい。
武力で彼らを止めることは不可能だった。
さらに最悪なのは、彼らの目的地である。
「奴らの標的は魔王軍……。そして魔王ヴァルドは今、あの男の村にいる」
ハーヴェルは窓の外、遥か北の空を絶望的な目で見据えた。
かつて、くだらない神託を理由に自らの手で王立魔術師団から追放した男――ガイウス・ノア。
「あの化け物じみた勇者たちが北の地に踏み込み、ガイウス殿や魔王軍と激突すれば、大陸そのものが消し飛びかねん……!」
もはや自身の保身やプライドなどと言っている場合ではなかった。
ハーヴェルは震える手で、懐から一つの魔石を取り出した。それは、かつて彼がガイウスに渡した、『緊急通信石』だった。
その頃、北の辺境エーデル村。
畑には、相変わらず穏やかで泥臭い時間が流れていた。
「……うおおおッ! できた、できたぞガイウス!!」
魔王ヴァルドが両手を震わせながら叫んだ。
その掌の上には、一粒の傷もない完璧なまでに輝く幻ガラス苺が鎮座していた。
「……魔力による空気の緩衝材を三層構造にし、接触面積を極限まで分散させましたか。見事です、魔王様。これでようやく一人前の『収穫手』ですね」
「おおお……! ついに……ついに我も農家として認められた……ッ!!」
魔王が感激のあまり大粒の涙を流したその時だった。
俺のポケットの中で、不意に強い熱量を持った魔石が光り始めた。
「おや、これは……以前ハーヴェル宰相から預かっていた緊急通信魔石ですか」
俺が魔石を取り出し、魔力を流して起動させると、かつて俺をクビにした宰相ハーヴェルの切迫した声が響き渡った。
『ガ、ガイウス殿! 聞こえるか! 緊急事態だ! 東方より召喚されし勇者たちが暴走している! 奴らは自国の領土を荒らし回りながらそちらへ向かった!』
「……」
『奴らの目的は魔王や黒龍の討伐だが、私利私欲にまみれた化け物だ! お前を追放した私が言う資格はないと分かっている……だがどうか、迎撃の準備を……あるいは、一刻も早く避難を……!』
「……ガイウス、どうした? 妙な顔をして」
ヴェルダが、苺をこっそりつまみ食いしながら顔を覗き込んできた。
「王都の宰相から連絡です。どうやら、俺たちの畑を荒らしに来る『害獣』が、東の方からやってくるようですよ」
俺の言葉に、苺の収穫に勤しんでいた魔王やカインたちの動きがピタリと止まった。
「あ? 害獣だと? この前の猪みたいなやつか?」
カインが、収穫した苺を傷つけないようそっとカゴに置き、怪訝そうに聞き返した。
「いえ、今回は人間のようです。それも『勇者』を自称する、力自慢の若者たちだとか。どうやら俺たちのことを倒すべき敵だと思っているようですね」
「ほう。……よほど、良い腕を持っているんだろうな。クワやスコップの代わりに、剣を振るうというのなら」
カインの瞳に、静かな怒りが宿った。
「ふざけるな!」
離れた畝で作業をしていた炎の大精霊イグニスが、泥だらけの手を広げて怒り狂った。
「俺たち大精霊が、今のこの『平和で美味しい生活』を邪魔されるなんて、断固拒否だ! その勇者とやら、俺が今すぐ東まで飛んで炭の塊にしてきてやろうか!?」
「私も手伝う。勇者の血で畑を汚す前に、海に沈めておこう」
水の大精霊ウンディーナも氷の微笑を浮かべた。
俺は、過激になりつつある仲間たちを宥めるように手を挙げた。
「まあ、落ち着いてください。彼らがここに辿り着くにはまだ時間がかかります。……それに、西の領土を荒らしているというのなら、相当な体力が余っているはずです」
俺は、収穫されたばかりの美しい苺を見つめながら、静かに笑みを深めた。
「力に溺れた若者には、『正しい力の使い方』を教えてあげるのが大人の責任というものです。
……ヴェルダ、一部の開拓地の石拾い、まだ終わっていませんでしたよね?」
「うん、あそこはまだ岩盤だらけで、カインたちの怪力でも苦戦しているわよ」
「丁度いいですね。……勇者の方々が来たら、彼らには『最高のトレーニングメニュー』を用意しておきましょう。……では皆さん、苺の収穫の続きですよ。日没までに終わらせますからね」
「「「「はいっ、ガイウス(様)!!」」」」
王都が震撼し、大陸中が恐怖する「勇者の脅威」。
しかし、エーデル村の住人たちにとって、それは「新しくやってくる労働力」の話でしかなかった。




