第148話 死の風の鎮圧と、規格外の「殺菌消毒」
「死の大精霊」と名乗るタナトスが放つ瘴気は、確かにこの世界の常識から逸脱した、禍々しい「魔」のエネルギーだった。
だが、そんなものは俺にとって何の言い訳にもならない。それが神の力だろうが理外の力だろうが、俺のトマトを枯らした時点で、ただの駆除対象(病原菌)でしかないのだ。
「……身の程を弁えろ、下等な人間が! 貴様のその結界ごと、腐れ落ちるがいい!」
空中に浮かぶタナトスが激高し、漆黒の翼を大きく羽ばたかせた。
彼女の頭上に、どす黒い雨雲が急速に形成されていく。
「【死の驟雨】!」
タナトスの叫びと共に、空から真っ黒な「雨」が結界に向かって降り注いだ。
それはただの水ではない。
一滴でも触れれば鉄すらもドロドロに溶かし、生物の肉体を骨まで腐らせる、極めて高濃度の呪いと酸性を帯びた『腐敗の雨』だ。
ジュゥゥゥゥゥゥッ!!
緑色の結界の表面に黒い雨が着弾し、凄まじい白煙を上げて削り取ろうとする。
「アハハハハッ! 無駄だ! 私の死の雨は、あらゆる防御魔術の術式そのものを腐らせ、貫通する! そのまま溶けて消え――」
「【広域散布】――『アルカリ性中和石灰』」
俺が指先を軽く振ると、結界の表面に真っ白な光の粉末がコーティングされた。
直後。結界を溶かそうとしていた黒い雨は、白い粉末と接触した瞬間に「シュン……」と音を立てて無害な透明の液体へと変わり、ただの冷たい水となって地面に滑り落ちていった。
「な、なんだとォォォッ!?」
タナトスが目を剥いて絶叫する。
「お前が『死の雨』と呼んでいるものの正体は、マナの配列を極端に酸性に傾けただけの物理現象だ。
ならば、アルカリ性の『苦土石灰』の魔力概念をぶつけて中和(pH調整)してやれば、ただの雨水に変わる。農業の土作りの基本中の基本だぞ」
「き、基本だと……!? ふざけるな! これはあの方から授かった、星の理を越えた力だぞ!」
タナトスは狂乱したように両手を掲げた。
「ならば、これでどうだ! 貴様ごと、この空間のすべてを削り取ってやる! 【終焉の死滅竜巻】!」
ゴォォォォォォォォッ!!
タナトスの周囲の空間が大きく歪み、天と地を繋ぐほどの巨大な「漆黒の竜巻」が発生した。
その威力は先ほどの雨の比ではない。空間そのものを削り取り、吸い込んだものを文字通り分子レベルまで分解して「無」に帰す、防御不能の絶対破壊魔法。
「死ねェェェッ! 悪魔の農家ァァァッ!」
「……本当に、うるさい害虫ですね」
迫り来る巨大な死の竜巻を前にしても、俺は一歩も引かず、肩に担いだクワを強く握り直した。
そして、前世の農業知識の中でも、特に凶悪な病害虫が発生した時にのみ使用する「最終手段」の術式を構築する。
「風には風を。そして、病原菌には――【密閉・真空ガス燻蒸】」
俺がクワの柄で地面をドンッ! と突いた瞬間。
タナトスと巨大な黒い竜巻の周囲に、巨大な『透明の立方体』が出現した。
それは対象を完全に世界から切り離す、俺がかつて師匠から教わった神話級の防御魔術【時空間絶界】の応用だった。
「な、なんだこの箱は!? 出られない! 私の竜巻が、箱の壁に阻まれて……ッ!」
「ビニールハウスでの『燻蒸消毒』だ。密閉空間を作り出し、内部の酸素を完全に奪い、代わりに超高温の殺菌魔力を充満させる。……これで、どんなに厄介なカビやウイルスも一網打尽です」
俺が拳を握り締めると、透明の立方体の内部が一瞬にして真っ赤に染まった。
酸素を失い、竜巻は自壊する。
そして内部の温度が摂氏数千度まで急上昇し、タナトスが纏っていた『死の瘴気』そのものを、根こそぎ物理的に焼却・殺菌し始めた。
「アッ、ガァァァァァァァァァッ!! あ、熱いッ! 息が、息ができないィィッ!!」
立方体の中で、タナトスが全身から黒い煙を上げながら、もがき苦しみ、壁をバンバンと叩いている。
星の理から外れた「魔」の力であろうと、酸素がなければ燃焼できず、絶対的な熱量の前にはタンパク質(構成要素)が破壊される。
俺の農薬(魔術)の前に、彼女の力は完全に無力化されていた。
「さて。表面の殺菌は終わりましたね」
タナトスを覆っていた真っ黒な瘴気が完全に焼き尽くされ、彼女の動きが鈍くなったのを確認し、俺は指を弾いて立方体の結界を解除した。
ドサァッ……!
瘴気を失い、黒焦げになったタナトス(シルフィード)が、地面に力なく墜落する。
「ガハッ、ゲホッ……! ぐ、あぁ……」
這いつくばりながら、それでも彼女の瞳の奥には、まだ泥のような憎悪が渦巻いていた。
「まだだ……! まだ、私の核には、無限の死の魔力が……!」
彼女が胸元を押さえ、再び黒い瘴気を生み出そうとした。
しかし、俺はすでに彼女の目の前に立っていた。
「農業において、表面の消毒だけで安心してはいけない。一番厄介な病原菌は、土の奥深く……根の張る場所に潜んでいる」
俺は、タナトスの胸ぐらを掴んで強引に引き起こした。
そして、彼女の胸の奥――精霊の心臓とも言える「核」に、どす黒く脈打つ不気味なエネルギーの塊が寄生しているのを、正確に捉えていた。
(……なんでしょうか、この悪趣味な魔力は。大精霊の清浄なマナを、強制的に『魔』へと反転させるウイルスの塊のような……)
これが、彼女を狂わせた元凶。俺の畑をめちゃくちゃにした主犯だ。
「……天地返し(てんちがえし)、という農法を知っていますか?」
俺は、右手に持ったクワを高く振り上げた。
「土の表面と、奥深くの土を、クワを使って完全にひっくり返す。そうすることで、奥に潜んだ病原菌や害虫を寒風と日光にさらし、完全に根絶やしにするんです」
「ヒッ……!? や、やめろ……ッ!!」
タナトスの悲鳴を無視し、俺はクワの刃に『超重力』と『浄化』の魔力を限界まで圧縮した。
そして、彼女の胸の奥、黒いウイルスの塊が寄生しているポイントに向けて、全力でクワを振り下ろした。
「【深層破砕・天地返し(グランド・リバーサル)】!!」
ズドォォォォォォォォォォォォォンッッ!!!
クワの刃がタナトスの胸の中心に直撃した瞬間。
エーデル村全体を揺るがすほどの激しい衝撃波が弾け飛び、彼女の体内に巣食っていた「漆黒のウイルスの塊」が、凄まじい重力反発によって背中からスポーンッ! と物理的に弾き飛ばされた。
「ア……ガァァァァァッ!?」
ウイルス(魔神の力)を強制的に引っこ抜かれた彼女の体から、みるみるうちに黒ずみが消えていく。漆黒のコウモリの翼は光の粒子となって砕け散り、元の美しい透き通るような緑色の髪と、白い肌が戻っていく。
カラン、と。
背中から弾き出された黒い球体が、地面に転がった。
それは激しく脈打ち、黒い泥を吐き出しながら空へ逃げようとしたが、俺はすかさずその球体を長靴で踏みつけ、容赦なくグリグリとすり潰した。
「させませんよ。病原菌は残さず駆除する主義なので」
パチンッ、という音と共に、黒い球体は完全に砕け散り、浄化されて消滅した。
静寂が戻った村の広場。
そこには、大の字になって気絶している、元の姿に戻った風の精霊王シルフィードと。
その傍らで、クワを片手に「ふう」と額の汗を拭う、麦わら帽子の農家の姿があった。
「……さて。害虫駆除は終わりましたが」
俺は、死の灰と化してしまった愛しのトマトの残骸を振り返り、深い、深いため息をついた。
「この荒れた土壌を元のフカフカの黒土に戻すには、また一から堆肥を作り直さないといけませんね。……本当に、余計な手間をかけさせてくれましたよ」
死の大精霊の襲来という、世界を滅ぼしかねない未曾有の危機。
それは一人の規格外の農家による「ちょっと大掛かりな畑の殺菌消毒」によって、あっけなく、そしてあまりにも理不尽に鎮圧されたのである。




