第147話 死の風と、農家の逆鱗
南の死の砂漠を緑の大地に変えるという、国家規模の「寄り道」を終え、俺たちエーデル村の面々は黒龍ヴェルダの背に乗って我が家へと帰還した。
「ああ……やはり、自分の畑の土の匂いが一番落ち着きますね」
翌朝。
俺は麦わら帽子を深く被り、朝霧に包まれた自宅の裏庭――完璧に手入れされた家庭菜園の真ん中で、深く、深く深呼吸をした。
しばらく家を空けていたが、出発前に組み込んでおいた【自動水やり魔術陣】と【土壌温度最適化結界】のおかげで、愛しのトマトたちは見事なまでに真っ赤に熟し、キャベツははち切れんばかりに結球している。(後薬草も)
「ガイウスさーん! 朝ごはんできたよー! 今日は採れたて野菜のスープだって!」
宿屋の看板娘であるリナが、エプロン姿で庭の柵越しに手を振ってきた。その後ろでは、魔族のエルが洗濯物を干すのを手伝ってくれている。
王宮で迷子猫を探し、貴族の機嫌を取るためにすり減っていたあの十年間を思えば、ここはまさに天国だ。
美味い野菜があり、共に食卓を囲む隣人がいる。師匠のソフィアが望んだ「世界を助ける」という面倒なノルマはすでに終わっているのだから、俺はこれからの人生のすべてを、この小さな畑に捧げる権利がある。
「今行きます。ちょうど、極上のトマトが収穫できたところで――」
俺が真っ赤なトマトに手を伸ばそうとした、その時だった。
『――ッ!? ガイウス! 上空から、とんでもないものが来るわよ!!』
普段はのんびりしている黒龍ヴェルダが、庭の隅から悲鳴のような思念を飛ばしてきた。
彼女の巨大な爬虫類の瞳が、極限の恐怖で針のように細くなっている。
直後。
空から、エーデル村を覆い隠すように「漆黒の風」が吹き下ろした。
「な、なんだ……!? 息が、苦し……ッ」
庭先にいたリナが喉を押さえてうずくまり、魔族であるエルでさえも「これは、尋常の瘴気ではない……ッ!」と膝をついた。
俺の麦わら帽子が吹き飛び、視界がどす黒い灰色の霧に包まれる。
だが、俺が最も驚愕し、そして絶望したのは、人間の体調不良などではなかった。
シュゥゥゥゥ……ッ。
「あ……」
俺の目の前で。
数ヶ月かけて土を耕し、毎日魔力で微細な温度調整を行い、つい先ほどまで生命力に満ち溢れて真っ赤に輝いていた俺のトマトたちが。
黒い風に触れた瞬間、水分を完全に奪われ、ドロドロの腐った液体へと変わり、最後には一握りの「死の灰」となって土に崩れ落ちたのだ。
トマトだけではない。キャベツも、大根も、薬草も。
俺がこの村に来てからのすべてを注ぎ込んだ愛する農作物が、次々と灰に変わっていく。
さらに、極上の微生物を培養していたフカフカの黒土までもが、急激に酸化してひび割れ、生命の存在を許さない死の土壌へと変質していく。
「……」
「……あ、アハハハハハッ!! 脆弱! あまりにも脆弱! これが貴様の愛した命か、人間!!」
上空の黒い雲が割れ、そこから「それ」がゆっくりと降下してきた。
どす黒い灰色の肌。
背中に生えたコウモリのような漆黒の翼。狂気に満ちた瞳で笑う、堕ちた大精霊。
「私は死の大精霊タナトス……! 星の理を愚弄した悪魔の農家よ、南の砂漠での同胞たちの恨み、ここで晴らさせてもらうぞ! 貴様の育てた命ごと、この村のすべてを腐らせて死の灰に変えてやる……ッ!」
かつて風の精霊王シルフィードと呼ばれた存在が、魔神ヤマトから与えられた理外の力によって反転し、すべての生命を腐敗させる死の権化となって現れたのだ。
彼女が羽ばたくたびに、強烈な死の瘴気が村中に撒き散らされる。
「ひぃぃっ……! な、なんだあの化け物……!」
「草が、木が、一瞬で枯れていく……!」
村人たちがパニックに陥り、家の中から悲鳴を上げる。
『ガ、ガイウス! あれは不味いわ! 完全に理から外れた「魔」の塊よ! 私のブレスでも浄化しきれない……!』
ヴェルダが震える声で叫ぶ。
タナトスは恍惚とした表情で、自らの放つ死の風が村を蹂躙していく様を見下ろしていた。
「さあ、絶望しろ人間! 泣き叫び、自身の無力さを呪いながら腐り果てるが――」
「【絶対無菌空間】」
俺の低く冷たい声が、タナトスの狂笑を遮った。
直後、エーデル村全体を、半透明の緑色の結界がドーム状に覆い尽くした。
タナトスが放っていた死の瘴気が、結界の表面で「ジュワァァァッ!」という激しい音を立てて弾き返され、村の中への侵入を完全に阻まれる。
「な……ッ!? 私の『死の風』が、弾かれただと!?」
タナトスが驚愕に目を見開く。
俺は、崩れ落ちたトマトの灰の前に静かにしゃがみ込み、ひび割れた土を素手で掬い上げた。
その感触を確かめ、俺の全身の血が、怒りで沸騰していくのを感じた。
「……pH値が、異常に酸性に傾いている。土壌内の硝化細菌も、根粒菌も、完全に死滅……」
「フ、フン! 土の心配をしている場合か! 次の風でその無駄な結界ごと、貴様ら全員を灰にして――」
「黙れ、害虫」
俺が立ち上がり、タナトスを真っ直ぐに睨みつけた瞬間。
かつて王宮の人間たちを震え上がらせていた『黒衣の死神』としての……いや、それすらも凌駕する、底知れぬ怒りに満ちた超高密度の魔力が、俺の体から陽炎のように立ち上った。
「ヒッ……!?」
大精霊であるはずのタナトスが、俺から放たれたプレッシャーに本能的な恐怖を感じ、思わず上空へと後ずさる。
「……俺が、どれだけの手間をかけてこの土を作ったか、お前なんかに分かるか」
俺はギリッと奥歯を噛み鳴らした。
王宮での地獄のような十年間を耐え抜き、やっとの思いで手に入れた平穏なスローライフ。その結晶である俺の野菜を、そして極上の土壌を、こいつは「八つ当たり」という極めて下らない理由で台無しにしたのだ。
「世界を滅ぼすとか、同胞の復讐とか、そんな御託はどうでもいい。お前が俺の畑にやったことは、農家にとって万死に値する重罪だ」
俺は空間収納から、使い慣れた一本の『クワ』を取り出し、肩に担いだ。
「農業における最大の敵は、天候でも獣でもない。作物を根絶やしにする『病原菌』だ。……これ以上俺の村の土を汚染させないよう、お前という存在を、物理的かつ魔術的に『完全殺菌』してやる」
理外の力で狂った死の大精霊タナトス。
彼女は、絶対に怒らせてはいけない「農業ガチ勢」の逆鱗に、最悪の形で触れてしまったのである。




