閑話 死の大精霊の誕生
アルヴヘイム帝国、最奥の聖域『精霊樹の玉座』。
かつては清浄な魔力に満ち、眩いほどの緑の輝きを放っていたその場所は今、ひどく淀んだ空気に包まれていた。
「……これが、『理外の力』……」
風の精霊王シルフィードは、玉座の前で、目の前の男――ヤマトが差し出した「それ」を震える手で見つめていた。
ヤマトの手のひらの上に浮かんでいるのは、泥のように黒く、脈打つ心臓のように蠢く「闇の球体」だった。見ているだけで精神が侵食されそうになる、この星の理には絶対に存在してはならない不気味なエネルギーの塊。
「ああ。星の循環だの、自然の調和だの……そんなお行儀のいいルールに縛られている限り、あのデタラメな農家には絶対に勝てない。
奴を殺すには、奴と同じ『理の外』から物理的に捻り潰すしかない」
ヤマトは、蠱惑的な笑みを深めた。
「さあ、受け取れ。お前のその清らかな精霊としての器を捨て、泥を啜り、魔に堕ちる覚悟があるのなら……あの男に復讐するための絶対的な力を与えてやろう」
シルフィードは躊躇った。
精霊王としての誇り、何千年も守り続けてきた星の管理者としての使命。
これを自らに取り込めば、二度と元の清浄な存在には戻れない。
だが、脳裏に焼き付いているのは、炎、水、土の同胞たちが、ただの肥料として農家風情の手のひらに圧縮されていった、あの絶望的な光景だった。
「……許さない」
シルフィードの瞳に、暗く濁った憎悪の炎が宿る。
「あの忌まわしき人間だけは……星の理を愚弄したあの男だけは、決して許しておけないッ!」
シルフィードは、ヤマトの手から黒い球体を鷲掴みにし、そのまま自身の胸――精霊の核へと深々と突き立てた。
「ガ、アァァァァァァァァァァァァァッッ!!」
鼓膜を破るような、凄惨な絶叫が玉座の間に響き渡った。
シルフィードの透き通るような緑色の髪が、根本からどす黒い灰へと変色していく。
白く輝いていた肌には禍々しい黒い文様が浮かび上がり、背中に生えていた美しい妖精の羽はボロボロに崩れ落ちて、コウモリのような漆黒の翼へと変貌した。
凄まじい「魔」の波動が爆発的に広がる。
シルフィードの足元から、聖域を構成していた精霊樹が、悲鳴を上げるように一瞬で枯れ果て、どろどろの腐葉土すら通り越して「死の灰」へと変わっていく。
生命を育む風は、生命を奪い、万物を腐敗させる「死の瘴気」へと完全に反転した。
「……あァ……素晴らしい……。力が、満ちてくる……」
黒い瘴気を纏い、ゆっくりと立ち上がったその存在は、もはや風の精霊王シルフィードではなかった。
圧倒的な破壊衝動と全能感に酔いしれ、口元を三日月のように歪ませて笑う堕ちた神。
すべての存在を腐敗させ、死に至らしめる――『死の大精霊タナトス』が、ここに誕生したのだ。
「フフ……アハハハハハッ!! 待っていろ、人間! 貴様の育てた命ごと、この星のすべてを腐らせて、死の灰に変えてやる……ッ!」
タナトスは狂気に満ちた笑い声を上げながら、背中の漆黒の翼を羽ばたかせ、崩壊する玉座の天井をぶち破って夜空へと飛び去っていった。
向かう先は当然、あの規格外の農家がいる北の地だろう。
玉座の間に残されたのは、崩れ落ちた枯れ木と、死の灰だけ。
その中心で、ヤマトは一人、空を見上げて肩をすくめた。
「……やれやれ。力が手に入った途端に、チュートリアルも聞かずに突撃か。まあいい、あのタナトスはただの『テスト用の駒』だ。あのデタラメな農家の実力を測るには、ちょうどいい噛ませ犬だろう」
ヤマトは薄暗い玉座の間で、一人ごちた。
その瞳の奥には、先程タナトスに与えたのと同じ、いや、それよりもさらに深く悍ましい「魔」の力が渦巻いている。
ヤマト。
彼が東方からやってきたというのは嘘ではない。
だが、彼の真の正体は、神話の時代にエルフたちの大魔法によって東の果てに封印された、世界を滅ぼす災厄――『魔神』そのものであった。
だが、彼にはもう一つ、誰にも語っていない「最大の秘密」があった。
「まったく……前世の世界じゃ、毎日終電までパソコンと睨めっこして、上司にこき使われるしがないプログラマー(社畜)だったっていうのに。過労死して目が覚めたら、封印されし魔神様ときたもんだ」
ヤマトは、この世界の住人には絶対に理解できない言葉で、楽しげに独り言をこぼした。
そう、ヤマトは「前世の記憶」を持った転生者だった。
現代日本で過酷な労働環境にすり潰されて死んだ彼は、神話の時代に魔神として転生し、暴れ回った末に封印され、そしてつい先日、エルフたちが三大精霊の力を南に向けたことで結界が緩み、数千年の眠りから復活を果たしたのだ。
「魔法で星の法則を書き換えるなんて、プログラムのコードをいじるよりよっぽど簡単だ。『転生チート』と『魔神の力』……この二つが揃えば、この世界は俺の思い通りに動かせる最高のオープンワールド・ゲームになる」
ヤマトはニヤリと笑い、タナトスが飛び去った北の空を見据えた。
「精霊を農業資材にした『ガイウス』とかいう人間……。物理法則を無視する力、魔法の異常な応用力。……間違いない、あいつも俺と同じ『同郷の転生者』だ」
ヤマトの口元に、冷酷で好戦的な笑みが浮かぶ。
「チート能力をもらってまで、農作業シミュレーションゲーム(スローライフ)とは、とんだおめでたい野郎だぜ。……だが、同じ様なプレイヤーが二人もいれば、バグが起きる。この世界の主人公は、俺一人で十分だ。なぁ?ガイウス」
東方から復活した魔神は、漆黒の闇に溶けるようにその姿を消した。
理外の力で狂った死の大精霊タナトス、そして、前世の記憶と魔神の力を持つ最凶のプレイヤー、ヤマト。
ガイウスの愛する平和なスローライフに、かつてない最大の危機が迫っていた。
――時は少しだけ遡り、ガイウスの過去。
彼がいかにしてその規格外の力と農業の知識を持ち、そして何故「スローライフ」に異常なまでに執着するようになったのか。
そのルーツの物語の幕が、静かに開こうとしていた。




