第140話 ガイウスの過去
俺の前世は、極東の島国である現代日本の、しがない農業研究員だった。
県の農業試験場に勤め、来る日も来る日も土壌の成分分析と、新しい品種の交配実験に明け暮れる日々。
土を愛し、植物の成長に一喜一憂し、休日は実家の畑でトラクターを乗り回す。
趣味も仕事も農業という、根っからの「農家脳」を拗らせた青年だった。
そんな俺の最期は、なんとも呆気ないものだった。
記録的な猛暑日となった真夏のある日。
俺は空調設備の壊れたビニールハウスの中で、開発中だった新品種のトマトの生育データに夢中になるあまり、重度の熱中症で倒れ、そのままあっさりと過労死してしまったのだ。
享年三十二。
恋愛も娯楽もそっちのけで、ただひたすらに美味い野菜を作るためだけに生きた、短いが生涯後悔のない人生だった。
――次に目を覚ました時、俺は木組みの粗末な天井を見上げていた。
剣と魔法が存在する、中世ヨーロッパのようなファンタジー世界。
その辺境にある小さな農村の赤ん坊として、俺は新たな生を受けたのだ。
名前はガイウスと言った。
物心がつく頃には、俺には前世の記憶がはっきりと備わっていた。
自分が異世界に転生したのだと理解した時、普通の人間であれば「魔法で無双して成り上がろう」だの「冒険者になってハーレムを作ろう」だのといった野心を抱くのかもしれない。
だが、俺の心を満たしたのは、そんなくだらない欲望ではなかった。
「……素晴らしい。空気が澄んでいるし、土が一切汚染されていない。化学肥料に頼り切っていない、極上の土壌だ」
よちよち歩きで自宅の裏庭に出た俺は、その手で黒々とした土を握りしめ、歓喜に打ち震えた。
現代日本では決して手に入らない、自然の魔力をたっぷりと含んだファンタジー世界特有の土。
ここで俺の前世の知識と技術を使えば、一体どれほど美味い野菜が育つだろうか。
俺の夢は決まっていた。
この美しく長閑な村で、前世の知識を活かし、最強の「スローライフ(農家)」を全うすることだ。
魔法などという非科学的な力は、せいぜい水やりや土の温度調整の補助に使えればそれでいい。
だが――神様というやつは、どこまでも意地が悪いらしい。
俺には、農業を営む上で「決定的な、そして致命的な欠陥」が存在した。
『この世界を滅ぼせるほどの、異常なまでの内包魔力』である。
異常に気づいたのは、五歳の頃だった。
両親が手作業で水汲みをしているのを見て、前世の知識で「水魔法」の概念を理解していた俺は、少し手伝ってやろうと、畑に向けて小さな水を出そうとした。
ジョウロで水を撒くような、ほんのささやかなイメージだ。
「【水よ(ウォーター)】」
俺が指先を向けた瞬間だった。
――ドバァァァァァァァァァァッッ!!
指先から、数万トンの濁流が文字通り「爆発」した。
それはまるでダムが決壊したかのような鉄砲水となり、我が家の畑を、丹精込めて育てられていた小麦や野菜もろとも、跡形もなく押し流してしまったのだ。
家の半分が半壊し、村中がパニックに陥った。俺はただ、泥まみれになった両手を見つめて呆然とするしかなかった。
またある時は、冬の寒さから苗を守ろうと、土を少しだけ温めようとした。
結果として、俺の足元から半径数十メートルの土壌が、超高温のプラズマに焼かれてドロドロのガラス状に融解した。
少しだけ土を耕そうと重力魔法を使えば、隕石が落ちたような巨大なクレーターができあがる。
害虫を追い払おうと風魔法を使えば、竜巻が発生して村の家屋の屋根が吹き飛ぶ。
俺の魔力は、あまりにも強大すぎた。
そして、その強大すぎる力を制御する「蛇口」が完全にぶっ壊れていたのだ。
コップ一杯の水を注ごうとすれば海が現れ、マッチで火をつけようとすれば太陽が顕現する。農業において最も重要な「繊細な環境コントロール」が、俺には絶対に不可能だった。
「……バケモノだ。あの子は、悪魔の子だ……」
七歳になる頃には、村人たちは皆、俺を遠巻きにして恐怖の眼差しを向けるようになっていた。
両親でさえ、俺がくしゃみをしただけで家が吹き飛ぶのではないかと、常に怯えて暮らしていた。
無理もない。
ただでさえ貧しい辺境の村で、俺が存在するだけで大切な畑が吹き飛び、作物が全滅するのだ。
彼らにとって、俺は歩く自然災害以外の何者でもなかった。
俺は、深く絶望した。
人間関係が崩れたからではない。「自分の存在が、愛する農地を破壊してしまう」という事実が、何よりも耐え難かったのだ。
「……父さん、母さん。今まで育ててくれてありがとうございました」
俺は七歳の誕生日を迎えた翌日、少しの荷物と野菜の種だけを麻袋に詰め込み、誰にも告げずに村を出た。
涙はなかった。
俺がここにいれば、この村の農業は死ぬ。農家として、それだけは絶対に避けたかったからだ。
向かった先は、村の大人たちが「絶対に近づいてはならない」と恐れていた、凶悪な魔物たちが棲むという『死霊の森』の奥深く。
ここなら、俺の魔力が暴走して地形が変わっても、誰にも迷惑はかからない。
だが、森での生活は、俺が夢見たスローライフとは程遠いものだった。
「よし。今度こそ、魔力を使わずに、手と木の枝だけで耕すぞ……」
森の奥の小さな開けた場所。
俺は手作りの木のクワを持ち、慎重に土を掘り返そうとした。
しかし、俺の体内から無意識に漏れ出す膨大な魔力に当てられ、周囲の土のバクテリアは死滅し、せっかく植えた種は過剰な魔力によって一瞬で巨大な食人植物へと突然変異を起こして襲いかかってくる。
ズドンッ! と、無意識に放った防衛魔法が、食人植物ごと周囲の森を数百メートルにわたって消し飛ばした。
ぽっかりと空いた巨大なクレーターの中心で、俺は木のクワを放り出し、地面に仰向けに倒れ込んだ。
「……なんでだ。俺はただ、美味いトマトを育てて、静かに暮らしたいだけなのに……」
森の魔物たちは、俺の漏れ出す異常な魔力に恐れをなし、半径数キロ以内には一切近づいてこない。
安全といえば安全だが、農業ができないのなら生きている意味がない。
前世の知識がどれほどあろうと、この制御不能な呪いのような力のせいで、俺は一生、土に触れることすら許されないのか。
幼い体で絶望に暮れ、空を見上げていたその時だった。
「――ほう。これほどの異常なマナの奔流、よほど凶悪な古竜でも現れたかと思えば……こんなちんちくりんの子供とはな」
ふいに、頭上から声が降ってきた。
俺が驚いて身を起こすと、クレーターの縁に、一人の人物が立っていた。
星空を切り取ったような、深く美しい群青色のローブ。
白銀の長い髪を風に揺らし、知性と魔力を宿した金色の瞳で俺を見下ろしている。
見た目は二十代半ばほどの美しい女性。
だが、俺の「農家としての本能」が、彼女の持つ異常性を即座に見抜いていた。
彼女が足をついている地面――そこの草花が、彼女の魔力によって一切のダメージを受けていない。
俺のように無駄に垂れ流すのではなく、広大な海のような魔力を、水滴一滴こぼさないほどの完璧な精度で「制御」しきっているのだ。
「お前、名は何という。なぜこのような辺境の森の奥で、世界を滅ぼすような魔力を撒き散らして泣いている?」
彼女はふわりと宙を浮き、俺の目の前へと降り立った。
「……ガイウス、です。泣いてなんかいません。ただ、俺の魔力が強すぎて、畑が耕せなくて困っているだけです」
「は……? 畑、だと?」
俺の予想外の答えに、その美しい女性は面食らったように目を丸くした。
「世界を焼き尽くすほどの内包魔力を持っておきながら、悩みは『畑が耕せないこと』だと? ……くくっ、アハハハハハッ! おかしな童だ! 長生きはするもんだな、これほどの逸材に出会えるとは!」
彼女は腹を抱えて大笑いした後、俺に向かってスッと白い手を差し伸べた。
「私はソフィア。世間の連中からは『隠匿の大賢者』などと呼ばれている、ただのしがない魔法使いだ」
それが、俺の狂った魔力に完璧な制御を与え、そして後に俺に「最大の呪縛」を託すことになる師匠――大賢者ソフィアとの、最初の出会いであった。




