第14話 さあ、行こうか
翌朝。
俺は、エリアが届けてくれた重みのある書類一式を抱え、宿屋の食堂の扉を開いた。
そこには、既に出発の準備を終え、傲慢な笑みを浮かべたドレクがいた。
部屋の隅に立つリナの顔は、昨夜の決意とは裏腹に、幽霊のように青白い。
「ドレク殿。出発の前に、少し話をしましょう」
「……準備はできたのか。手間をかけさせるな、話など無用だ」
男が鼻で笑い、リナの腕を取ろうとした瞬間。
「座ってください」
俺の声が、食堂の空気をピシャリと叩いた。
ドレクの動きが止まる。
彼は俺の瞳の奥にある「何か」に当てられたように、毒気を抜かれた顔で椅子に腰を下ろした。
俺は書類を一枚ずつ、獲物を追い詰めるようにテーブルへ並べた。
「まず、この借財証文。……ヴェイン・カルロ氏の署名の日付が、本人の死亡日から数えて十四ヶ月後になっています。幽霊にでもサインさせたのですか?」
「それは……転記のミスだ。些細な——」
「王都筆跡鑑定ギルドによる公式証明書です。署名は精巧な偽造である、と結論づけられました」
ドレクの顔から、余裕の笑みが剥がれ落ちる。俺は追撃の手を緩めない。
「次に利息ですが、王国商業法第十二条。個人貸付の上限は年利15%です。この証文の38%という数字は、法定上限の二倍を優に超えています。……法を無視した契約は、その時点で無効。これが王都法務局の見解です」
「貴様……ただの農夫が、なぜ王都の法を……!」
「さらに、ルードマン商会が過去十年間に手がけた『奉公斡旋』の全記録です。被害者は二十三名。……王都騎士団の団長、セルジオ閣下の署名入りの調査資料ですよ」
沈黙が食堂を支配した。御者たちが顔を見合わせ、出口へと後退り始める。
「……脅しのつもりか」
「いいえ、事実を提示しているだけです。このまま騎士団に通報すれば、貴殿はここを出る前に拘束されることになる。……分かりますか?」
ドレクの喉が、ひきつったように動いた。
彼は俺の手元にある「騎士団の紋章」が入った書面を凝視し、やがて力なく立ち上がった。
「……今日のところは、引き下がろう」
「『今日のところ』ではありません。ヴェイン家への請求、すべてを正式に取り下げていただきます。今、この場で」
俺は真っ白な書面を突き出した。
ドレクは震える手でペンを走らせ、屈辱に顔を歪めながら署名した。
「……これで、満足か」
「ええ。お気をつけて、二度とこの村の土を踏まないように」
三頭の馬が街道の彼方へ消えていく。俺はその砂埃が収まるまで、無言で見送った。
食堂に戻ると、リナが椅子に座ったまま石のように固まっていた。
その瞳は、まだ現実を捉えきれていないように彷徨っている。
「……リナさん。終わりましたよ」
俺の声に、彼女がゆっくりと顔を上げた。
「……終わったの? 本当に?」
「ええ。もう誰も貴女を連れて行くことはできません。借金も、署名も、すべて消えました」
リナは、深いため息を吐いた。
肺の中にある毒をすべて吐き出すような、長く、深い息だった。
「……終わったんだ……。私、ここにいてもいいんだ……」
リナが両手で顔を覆い、肩を小さく震わせ始めた。
俺はかける言葉が見つからず、ただ隣に立っていた。
朝の陽光が、静かに彼女の背中を照らしている。
しばらくして、彼女が顔を上げた。赤くなった瞳で、俺を見て少しだけ笑った。
「ありがとう。……本当に、ありがとう、ガイウスさん」
「どういたしまして。エリア達にも礼を言ってやってください。実際に走り回ったのは彼女らですから」
「ガイウスさんもだよ! ……本当に、変な人」
「……そうですか?」
「そうだよ。こんなに凄いことができるのに、なんでこんな村で畑を耕してるのさ」
俺は少し考え、窓の外の青空を見上げた。
「……静かだからですよ。俺は、今の生活が気に入っているんです」
外から、騒がしい声が聞こえてきた。
ゴードンやグラント、それにマルクたちが心配して集まってきたようだ。
ふと見ると、村の入り口ではエリアが「あっちに川があるはずなのに……」と逆方向へ歩き出そうとしている。リナが窓から身を乗り出し、「エリアさん! そっちは森だよ!」と叫んだ。
村に、いつもの賑やかさが戻ってきた。
俺は椅子から立ち上がり、埃を払った。
「さて、俺は失礼します。薬草の水やりが遅れていますから」
「えっ、今から!? こんな時に?」
「薬草は待ってくれません。朝の露が乾ききる前に済ませたいので」
「……あはは! 本当に、ブレないんだから」
リナが可笑しそうに笑った。
その顔は、俺がこの村で初めて見た時の、屈託のない笑顔に戻っていた。
「わかった。終わったら、ちゃんとお祝いしようね。宿屋の最高のご馳走、用意しとくから!」
「……まあ、楽しみにしておきます」
食堂を出ると、春の柔らかな風が頬を撫でた。
空は、どこまでも高く、澄み渡っている。
何も心配することのない、ただの美しい一日だ。
俺のスローライフは、今日から、また少し賑やかに、そして順調に続いていく。




