第125話 精霊との戦い6
結界内の泥沼が、まるで自我を持った巨大なアメーバのように波打っていた。
ウンディーナの絶対零度の水と、イグニスの熱、そして俺が作り出した軽石層が混ざり合った「特製の土壌」。
その広大な泥の海から、直径数メートルはあろうかという巨大な「泥の腕」が何十本も立ち上がり、中空に浮かぶ俺に向かって襲いかかってきたのだ。
『……逃ガサンゾ、人間! コノ、ヌカルミ、ノ中ニ引キズリ込ミ、我ガ超重力デ水底ノ岩石ト共ニ圧シ潰シテクレル!』
土の大精霊ノームの重低音の咆哮と共に、結界内の重力場が完全に狂乱した。
上、下、左、右。デタラメな方向から襲い来る数倍の重力波が、俺の身体を泥沼へと引きずり込もうと強烈に引っ張る。
「――っ、これは少々、足元が悪いですね」
俺は【重力操作】の術式をミリ秒単位で調整し、空間の重力異常を相殺しながら、鞭のようにしなる泥の腕を紙一重で躱し続けた。
俺を外した泥の腕が結界の壁面に激突し、凄まじい泥飛沫を上げる。
ただの泥ではない。ノームの重力魔法によって極限まで圧縮されたその泥は、鋼鉄の質量に匹敵する物理的な破壊力を持っている。
かすっただけでも、骨が粉砕されるだろう。
『……チョコマカト! イグニス、ウンディーナノヨウニ、我ヲ温室ノ部品ニデキルト思ウナ! 我ハ大地! 我ハ重力! 貴様ノ足場ソノモノダァァッ!』
泥沼の底から、ノームの「本体」たる黒々とした岩盤の顔が浮かび上がった。
奴は結界の床面(地殻)とのアクセスを断たれた代わりに、結界内に閉じ込められたこの莫大な量の「泥と岩」を自らの新たな肉体とし、全方位からの圧殺を試みてきたのだ。
四方八方を泥の壁と腕に囲まれ、重力の嵐が吹き荒れる閉鎖空間。
だが、俺の瞳に焦りは微塵もなかった。
むしろ、深夜の農作業の手間を増やされたことに対する、静かな苛立ちだけが募っていた。
「……ノーム。あなたは、農業における『土』の役割を全く理解していないようです」
俺は空中で立ち止まり、迫り来る数十本の泥の腕から目を逸らさずに、静かに右腕を前に突き出した。
「土というのは、ただそこにあれば良いというものではない。ふかふかすぎれば風で飛び、泥だらけになれば流される。種を蒔き、命を育むためには、土壌そのものをガッチリと『固定』し、崩れない盤石な基礎を作らなければならないんです」
『……知ルカ! 貴様ノ御託ナド、コノ重力ノ泥ニ沈メェェッ!』
全方位から、泥の腕が俺という一点を目指して殺到する。
逃げ場はない。
「種を蒔いた後、土砂崩れを防ぎ、土をしっかりと抱き抱えて離さないもの。……それが『根』です」
俺が右手の指をスナップさせた瞬間。
俺の莫大な内包魔力が、物理的な形を伴って空中に顕現した。
「――【疑似魔力根系】ッ!」
パキィィィィィィンッ!!
俺の右手から、緑色に発光する無数の「光の糸」が爆発的に放射された。
それは、大樹の根のように複雑に枝分かれしながら、猛烈な速度で空間を駆け抜け、迫り来る泥の腕の先端に次々と突き刺さった。
『……ナッ!? ナンダ、コノ光ノ糸ハ……!?』
ノームが驚愕の声を上げた。
彼が操る鋼の質量を持った泥の腕が、光の糸――魔力で構築された「根」に突き刺された瞬間、ピタリとその動きを止めたのだ。
「植物の根の力を舐めてはいけませんよ、ノーム。アスファルトを突き破り、岩をも砕いて地中深くまで侵食する。それは、星の地殻すらも固定する『生命の楔』です」
俺が右手を強く握り込むと、泥の腕に突き刺さった根が、凄まじい勢いで「増殖」を開始した。
光の根は泥の腕の内部を食い破るようにして走り、ノームの重力魔力を養分として吸収しながら、さらに太く、強靭なネットワークを構築していく。
『……バカナッ! 我ガ魔力ガ……泥ノ肉体ガ、コノ糸ニ縛ラレテ動カヌ!? ヌォォォォォッ!』
ノームが残りの泥を操って根を引きちぎろうとするが、無駄だ。
【疑似魔力根系】は、切られればそこからさらに枝分かれして増殖し、土(泥)の粒子一つ一つをガチガチにホールドしていく。
農業において、急斜面の土砂崩れを防ぐために深く根を張る木を植えるのと同じ原理だ。
俺の魔力の根は、ノームが操る泥を「絶対に崩れない強固な地盤」へと強制的に作り変えていた。
「さあ、腕だけではありません。足元も、しっかりと固定させてもらいますよ」
俺は右手から放っている根のネットワークを、結界の底一面に広がる泥沼へと直接打ち込んだ。
ズズズズズズッ……!!
結界の底で、広大な泥の海が光の根に覆い尽くされ、激しく痙攣した。
『……アァァァァァァアアアッ!! 我ガ、大地ノ化身タル我ガ、タダノ植物ノ根ニ縛ラレルダトォォッ!?』
ノームの絶叫が結界内に響き渡る。
泥沼の底に潜んでいたノームの岩盤の本体にも、容赦なく根が巻き付き、亀裂から内部へと侵食していく。
ノームが放っていたデタラメな重力異常は、大地(泥)そのものが根によって物理的・魔力的に完全固定されたことで、完全に沈黙した。
「……ふぅ。これで、地震の心配もなくなりましたね」
俺は上空で腕を組み、眼下の光景を見下ろした。
先程まで荒れ狂っていた泥の海は、緑色に輝く魔力の根にガチガチに固められ、完璧に整地された「強固な畑の土台」へと変貌していた。
その中心で、土の大精霊ノームは全身を根に縛り上げられ、指先一つ動かせない状態で拘束されている。
ウンディーナの水分で土を潤し、イグニスの熱で結界内を適温に保ち、ノームの土と重力で強固な地盤を形成する。
相反し、世界を滅ぼすほどの力を持っていた三柱の大精霊は、俺の魔術と農業知識の前に、完全に「プランターの中の環境維持装置」として組み込まれてしまったのだ。
『……コ、ノ……悪魔メ……。星ノ理ヲ……土イジリノ道具ニ……ッ』
ノームが、根の隙間から恨みがましいノイズを漏らす。
「悪魔とは心外ですね。俺はただ、俺の育てた野菜の品質を守るために、最高の環境を作っただけです」
俺は冷ややかに言い放ち、ゆっくりと高度を下げて、完全に固定された土台――ノームの顔の真ん前に降り立った。
「さて、三柱とも無力化し、温室の環境も完璧に整いました。……あとは、あなたたちのその莫大なエネルギーを、俺の畑で使える『持ち運び可能な農業資材』として圧縮・収穫するだけですね」
俺は両手を広げ、結界そのものの制御式を書き換え始めた。
深夜の死の砂漠の上空に浮かぶ巨大な温室が、収穫の時を迎え、内側に向けて恐るべき圧力で収縮を開始する。
神話の精霊たちに対する、規格外の農家による「害虫駆除」の総仕上げ。
その最終段階が、静かに、しかし絶対的な暴力をもって執行されようとしていた。




