第120話 精霊との戦い
夜空を赤く染め上げる炎の巨神イグニス。
その圧倒的な熱量の前に、俺は中空に浮かびながら、懐から取り出した小さな袋を弄った。
袋の中に入っているのは、エーデル村の畑で使うために俺が独自に品種改良を重ねた『吸水圧縮土』のペレットだった。
魔力を込めると自重の数万倍の水分を保持し、同時に周囲の熱を奪って急激な冷却効果(気化熱)を生み出す、農業用の便利アイテムである。元々は、夏の厳しい日照りから繊細な野菜を守るために開発したものだ。
「さて、ただの氷や水では瞬時に蒸発させられ、お前の周囲の空間に魔力として吸収されるだけだ。ならば、魔力ではなく物理的な『土』と『気化熱』の合わせ技ならどうだ?」
俺はペレットを数粒、手のひらの上で転がした。
イグニスが再び咆哮を上げる。
奴の胸元で超高密度のプラズマが渦を巻き、巨大な火球となって俺に向けて放たれた。直径数十メートルに及ぶその火球は、周囲の空気を焼き尽くし、轟音を立てて迫り来る。
直下の砂漠は、熱線に当てられただけでドロドロのガラス状に融解していた。
俺は自身の『内包魔力』をペレットに叩き込み、全力で前方へと放り投げた。
放り投げられた数粒のペレットは、空中でイグニスの熱波に触れた瞬間、内包された俺の魔力に反応して爆発的に膨張した。
巨大な火球と激突したのは、瞬時に広範囲に展開された真っ黒な『泥の壁』だった。
単なる泥ではない。絶対零度に近い冷気を帯び、周囲の熱を貪欲に奪い取る特殊な土壌の塊だ。
イグニスの火球が泥の壁に触れた瞬間、凄まじい「ジュウウウウッ」という音と共に、莫大な水蒸気が発生した。
だが、その水蒸気すらも泥が即座に吸着し、炎のエネルギーを『気化熱』として強制的に奪い去っていく。
数千度の熱を持つ火球が、泥の壁を突破する前に急速に温度を失い、ただの温かい風となって霧散した。
『……オ……ォォ……!?』
イグニスが、初めて戸惑いのようなノイズを漏らした。
精霊の力は、大自然の理そのものだ。炎は水を蒸発させ、風を巻き込み、土を焼き焦がす。
だが、目の前の人間が放った泥は、炎の熱を奪うという『物理現象』を極限まで加速させた代物だった。
魔術による直接攻撃ではないため、イグニスの持つ『魔力強制収奪』の対象にならない。奴の炎は、ただ物理的に熱を奪われ、鎮火させられたのだ。
「どうした、イグニス。焚き火の火が消えかかっていますよ」
俺は冷笑を浮かべ、空を蹴って一気に距離を詰めた。
外部からの魔力供給を断たれ、自身の熱量を削られたイグニスの周囲は、先程までの致死的な熱波が嘘のように和らいでいる。
だが、大精霊の力はこんなものではなかった。
『……小癪ナ……! 塵芥ガァァァッ!!』
イグニスが激昂し、周囲の空間からさらに莫大な魔力を吸い上げようとした。
死の砂漠の奥深く、地脈の底から、赤黒い魔力の奔流がイグニスの足元へと吸い込まれていく。
奴の全身の炎が再び勢いを増し、今度は奴自身が巨大な『炎の竜巻』となって俺を飲み込もうと突進してきた。
(まずいな。このまま長期戦になれば、奴は地脈の魔力を吸い尽くすまで燃え続ける。おまけに……)
俺の『魔力解析』が、南の空から迫るもう二つの巨大な気配を捉えていた。
水の聖霊ウンディーナと、土の精霊ノーム。
あの二柱がここに到着し、イグニスと合流すれば、事態はさらに複雑になる。
特に、ウンディーナの絶対零度の水とイグニスの超高温がぶつかり合えば、発生する超高圧の水蒸気爆発は、防護結界を張っているとはいえエーデル村の気候に多大な悪影響を及ぼす。
俺のレタスとキャベツが、過剰な湿気と気圧変化で腐ってしまう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「合流される前に、お前だけは完全に『消火』させてもらう」
俺は向かってくる炎の竜巻に対し、逃げることなく真っ向から突っ込んだ。
狂信の炎に焼かれるがいい、というイグニスの思念が直接脳内に響く。
だが、俺は自身の体を覆うように、内包魔力を極限まで圧縮した『透明な膜』を張っていた。
「【絶対真空領域】」
俺とイグニスが激突する直前。
俺の周囲数十メートルの空間から、一切の『空気(酸素)』が消滅した。流体制御の魔術を極限まで応用し、特定の空間から気体を完全に排出したのだ。
炎が燃焼するためには、可燃物、温度、そして何よりも『酸素』が必要不可欠である。
どれほど強大な精霊の炎であろうと、この世界の物理法則を完全に無視することはできない。
俺の展開した真空領域に飛び込んだ瞬間、イグニスの巨大な炎の竜巻は、まるで酸欠に陥った獣のように急激に萎み始めた。
『……ガ……ァ……!? 息ガ……!』
精霊に呼吸という概念はないはずだが、自身を構成する炎が急速に力を失っていく感覚に、イグニスはパニックに陥ったように巨体をよじった。
酸素を求めて暴れ回るが、俺の魔力で作られた絶対真空の檻はビクともしない。
真空領域の中では、音すらも伝わらない。
無音の世界の中で、俺は完全に勢いを失い、ただの赤熱した岩の塊のようになったイグニスの『核』を見据えた。
「燃えるものがなければ、炎は死ぬ。……農業でも、野焼きの火の始末は基本中の基本だ」
俺は右腕に内包魔力を集中させ、超高質量の打撃を放つ態勢に入った。先日の異形を粉砕したのと同じ、純粋な物理的圧殺。
イグニスが絶望の眼差しでこちらを見る。
だが、その時だった。
真空領域の外側、俺の背後の空間が、凄まじい冷気によって突如として『凍結』した。
『……我ガ同胞ヲ……消サセハシナイ……ッ!!』
絶対零度の吹雪を纏った巨大な水竜――水の聖霊ウンディーナが、猛烈な速度で戦場に到達したのだ。
ウンディーナの放つ吹雪が俺の真空領域の外壁に激突し、凄まじい温度差によって空間そのものが悲鳴を上げてひび割れ始める。
「ッ……来るのが少し早かったですね」
俺は舌打ちをし、イグニスへのトドメを諦めて上空へと跳躍した。
直後、俺のいた空間を、ウンディーナの絶対零度のブレスが通り過ぎる。真空領域が物理的に破壊され、周囲から大気が勢いよく流れ込んだ。
新鮮な酸素を供給されたことで、イグニスは再び火種を取り戻し、荒い息を吐くように炎を大きく揺らめかせた。
『……助カタゾ、ウンディーナ……』
『……油断スルナ、イグニス。コノ人間ハ……理ヲ外レテイル……』
赤蓮の炎の巨神と、蒼氷の水竜。
相反するはずの二柱の大精霊が、俺という共通の敵を前にして、並び立った。
周囲の大気は、超高温と絶対零度が混ざり合い、凄まじい乱気流と雷雲を発生させている。空は真っ黒な雲に覆われ、鼓膜を破るような雷鳴が轟き始めた。
俺は上空からその光景を見下ろし、首のタオルで額の汗を拭った。
「……最悪の気象条件だ。これでは、村の野菜が本当に駄目になってしまう」
異常な気圧の低下と、肌を刺すような湿気。雷がもたらすオゾン臭が、俺の鼻腔を突く。
完璧なスローライフを脅かす、無神経な気象の暴力。
怒りが、静かに、しかし確実に俺の全身を支配していく。
これ以上、奴らの好きにさせるわけにはいかなかった。
俺は漆黒のローブを翻し、二柱の大精霊を同時に相手取るための、次なる『農作業』の準備を始めた。




