第119話 炎の精霊イグニス
「ヴェルダ。村の周囲の結界出力を最大まで上げてください。特に、俺のトマトのビニールハウスと、収穫を待つレタス畑。あそこを重点的に守るように」
「なっ……ガイウス、あんたこの期に及んで野菜の話?」
ヴェルダが呆れたように声を上げたが、俺の怒りはすでに沸点に達していた。
「当たり前です。明日の朝、収穫したばかりの瑞々しいレタスをリナがサラダにする。その完璧な献立を、深夜の安眠妨害に加えて、この不快な熱気で台無しにしようとするなど……万死に値しますよ。精霊だろうが、神だろうが、俺の野菜の品質に喧嘩を売ったことを後悔させてやります」
俺は首に巻いていたタオルをきつく締め直し、軍手をはめて窓枠に足をかけた。
夜空を見上げれば、真紅のオーラを纏った巨大な「流星」が、周囲の空気を焼き焦がしながら一直線に飛来してくるのが視える。
「行ってきます。夕食の串焼きの残りは、絶対に死守しておいてください」
「……はいはい。分かったわよ、さっさと終わらせてきなさい!」
ヴェルダの叱咤を背に受け、俺は夜の闇へと飛び出した。
重力操作の術式を足元に展開し、空気抵抗を極限まで殺しながら、俺は真紅の脅威へと向かって加速する。
村から離れること遥か南の「死の砂漠」の上空で、俺はその『存在』と正面から対峙した。
ドォォォォォォンッ!!
空間が、物理的に爆ぜた。
天を衝くような火柱の中から姿を現したのは、体長五十メートルを超える、紅蓮のプラズマを纏った巨神。炎の精霊イグニス。
その全身は常に数千度の高熱を発しており、周囲の空気は歪み、視界は陽炎となってゆらめく。奴が一度羽ばたくたびに、足元の砂漠は一瞬で溶融し、ドロリとした溶岩の海へと変貌していった。
『……ケガレ……ヲ……焼き尽くせ……ッ!!』
言葉にならない絶叫が、空間そのものを震わせる。
理性を失った大精霊の瞳は、どす黒い狂信の光に染まっていた。
精霊王シルフィードに操られ、ただ俺という「異物」を消し去るための破壊の化身。
「はじめまして、イグニス。あるいは、さようなら、と言うべきでしょうか」
俺は中空に留まり、氷のような視線で炎の巨神を見据えた。
ローブの表面を撫でる熱風は、すでに鉄を気化させるレベルに達している。
通常の魔術師であれば、この距離に近づいただけで、肺の中から焼き焦がされて絶命していただろう。
「まずは、その行儀の悪い熱気を収めなさい。【流体制御】――『冷却障壁』」
俺は指先から魔力を放出し、自身の周囲の熱エネルギーを物理的に遮断した。
だが、その瞬間に違和感が走る。
障壁を維持するために放った俺の魔力が、イグニスの周囲に渦巻く「負の魔力収奪」によって、急速に吸い取られ始めたのだ。
(……なるほど。先日の異形と同じ、あるいはそれ以上の強制収奪。大気中の魔力を練り上げる魔法は、すべて奴の『ガソリン』にしかならないわけですか)
『……灰ニ……塵ニ還レ……ッ!!』
イグニスが巨大な炎の腕を振り上げた。
その腕には、太陽の表面温度に匹敵するほどの高密度なプラズマが集中し、振り下ろされると同時に、夜空を真っ二つに引き裂くような紅蓮の斬撃が放たれた。
「――っ!」
俺は【慣性中和】を最大にし、空中で物理的な軌道を無理やり曲げて回避する。
俺のいた空間を通り過ぎた斬撃は、数キロ先の大地に激突し、凄まじい水蒸気爆発と土砂の噴き上げを引き起こした。
「……危ないところでした。外部の術式を厚くすればするほど、それを吸って奴は強くなる。かといって、生身で戦えば一瞬で蒸発する」
俺は冷たい汗を拭い、脳内で演算を繰り返す。
この三柱との戦い。これは単なる力比べではない。
「環境」そのものを味方につける精霊に対し、一人の農家として、いかにしてこの圧倒的な「火力」を飼いならし、あるいは無力化するか。
「いいでしょう。俺の野菜にストレスを与えた代償、たっぷりと利息を付けて払ってもらいます」
イグニスの背後から、さらに二つの巨大な魔力の脈動が迫っている。水と土。
だが、まずは目の前のこの「巨大な火種」を、どうにかして消し止める必要がある。
俺は再び軍手をはめ直し、懐から一つ、エーデル村で手に入れた「あるもの」を取り出した。
「――害虫駆除の第1段階。まずは火元から断つとしましょう」
夜空を焦がす炎の巨神と、漆黒のローブを纏った農家。
世界の命運などより、明日の朝食のレタスの鮮度を賭けた、規格外の決闘が今、幕を開けた。




