第118話 一難去ってまた一難
南の空を覆っていた分厚い暗雲が割れ、夕陽のオレンジ色が死の砂漠を照らし始めていた。
瘴気の霧が完全に晴れたことを確認した俺は、上空で旋回していた黒龍ヴェルダに合流の合図を送った。
「お疲れ様、ガイウス。随分と無茶をしたみたいじゃない」
「ええ、少しばかり。ですが、これでようやく帰れます」
ボロボロになった右腕の軍手を外し、新しいものに取り替えながら俺は息を吐いた。
ヴェルダの背に乗り、俺たちはエリック殿下たちが展開している北の防衛線へと向かった。
王国の北側防衛線では、避難民を保護していたエリックとファレル、そして無数の騎士たちが、信じられないものを見るような目で南の空を仰いでいた。
押し寄せていた死の砂漠化がピタリと止まり、大気を汚染していた瘴気が嘘のように消え去ったからだ。
ズズンッ、とヴェルダが陣地の前に着地し、俺はその背から飛び降りた。
「お待たせしました、エリック殿下。ファレル殿。害虫の駆除、完了しました」
「ガ、ガイウス殿……!? ほ、本当にあの山のようなバケモノを、たった一人で……!?」
「一人ではありませんよ。ヴェルダの援護がなければ、少し危なかったかもしれません」
エリックは言葉を失い、ファレルは銀縁眼鏡を落としそうになりながら口をパクパクとさせている。
王国の軍勢が束になっても傷一つ付けられなかった、大地の魔力を吸い上げる理不尽な化け物。
それを、数時間出かけてきただけの農家が「害虫駆除」の一言で片付けてしまったのだから、無理もない。
「騎士団の皆さん、事後処理と避難民のケアをお願いします。俺たちは、夕食の時間が過ぎてしまったので、これで失礼します」
「あ、ああ……! 感謝する、ガイウス殿! この恩は王国として必ず……!」
「お気になさらず。俺の畑を守るついでだっただけですから」
呆然とした声援を背に受けながら、俺とヴェルダ達は再び空へと飛び立ち、一路、俺たちの帰るべき場所――エーデル村へと向かった。
すっかり日が落ち、星空が広がる頃。
俺たちはエーデル村の広場へと帰還した。
「おかえりなさい、ガイウスさん! ヴェルダも! 待ちくたびれたよー!」
宿屋の看板娘であるリナが、少し冷めかけた特大の串焼きを温め直しながら、満面の笑みで出迎えてくれた。
「ただいま戻りましたリナ、遅くなってすみません」
「フフッ、いい匂い。南までひとっ飛びして暴れてきたから、わらわお腹と背中がくっつきそう」
いつものエプロン姿に戻ったヴェルダと共に、俺は広場のテーブルについた。
ドンッ。
無言で、しかしどこか誇らしげな目をした酒屋の親父グラントさんが、俺たちの前に並々と注がれた特大ジョッキのエールを置く。
「……いただきます」
キンキンに冷えたエールを喉の奥へと流し込む。
爽やかな苦味と麦の香りが、酷使した魔力回路と疲労しきった体に染み渡っていく。
続いて、俺が育てた特製トマトと、リナの母親が焼いた野性味あふれる肉の串焼きを頬張った。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
結界で乾燥から守り抜いたトマトは、噛んだ瞬間に濃厚な甘みと酸味が弾け、肉の脂をさっぱりと洗い流してくれる。
この一口のために、俺は今日、星の理すらもぶん殴ってきたのだ。
「ふぅ……やはり、この村の飯と酒は最高ですね」
「でしょ? いっぱいあるから、どんどん食べてね!」
広場では、村の子供たちが駆け回り、大人たちが楽しそうに酒を酌み交わしている。
南の国境で世界を滅ぼすほどの戦いがあったことなど、この平和な村の住人たちは知る由もない。
これでいいのだ。俺の望んだスローライフは、この平穏な日常の中にある。
――だが、その「完璧な平穏」は、長くは続かなかった。
深夜。
宴会がお開きになり、俺が自室のベッドで微睡みにかけていた時のことだった。
「……ん?」
不意に、窓から吹き込んでくる風の温度が『異常に』跳ね上がった。
かと思えば、次の瞬間には真冬のような凍てつく冷気に変わり、さらにその直後、村全体を揺るがすような重く低い地鳴りが響き渡ったのだ。
熱帯夜のような異常な熱気。
凍傷を引き起こすほどの冷気。
そして、大地の底から突き上げるような、不規則で暴力的な震動。
俺はベッドから身を起こし、窓の外を見上げた。
南の夜空が、あり得ない色に染まっている。
燃え盛るような『真紅』、深海のような『蒼』、そして大地を隆起させる『黄褐色』の三つの巨大なオーラが、王国の国境線を越え、猛烈な速度でこちら――北へ向かって一直線に飛来してきているのが、俺の「魔力解析」にはっきりと視えた。
「……ガイウス、起きてる?」
コンコン、とドアがノックされ、寝間着姿のヴェルダが険しい顔で部屋に入ってきた。
「ええ。ヴェルダも気づきましたか」
「気づくも何も、あんなデタラメな気配、寝てても叩き起こされるわよ。……アレ、エルフどもが崇めてる『四大精霊』の残り三柱ね。
しかも、理性を完全に失って、純粋な破壊の権化として顕現してる」
ヴェルダの言葉に、俺は無言で立ち上がり、窓辺の温度計と湿度計を確認した。
針が異常な数値を叩き出し、上下に激しくブレている。
「炎、水、土の大精霊……ですか。星の法則そのものを操るような存在が、三体同時」
「ええ。目標は間違いなく、この村……というより、あんた自身ね。星の理をへし折ったあんたを、異物として本気で消しにかかってるわ」
ヴェルダが深刻な声で警告する。
だが、俺の意識は、大精霊の脅威などよりも、もっと『致命的で身近な問題』に向けられていた。
「……気温の急激な上昇と低下。極端な乾燥と、過剰な湿気。おまけに断続的な地震」
俺はギリッと奥歯を噛み締め、クローゼットから再び漆黒のローブを引きずり出した。
「な、なによガイウス。随分と怖い顔してるじゃない」
「分かりますか、ヴェルダ。今のこの異常気象……『気温と湿度の急激な変化』は、明日の朝に収穫を控えている俺の特製レタスとキャベツにとって、致命的なストレス(ひび割れと味の劣化)を引き起こすんです」
俺はローブを羽織り、窓枠に足をかけた。
かつてないほどの、静かで、しかし絶対零度の怒りが俺の内側で渦巻いている。
「深夜の安眠を妨害した上に、俺の野菜の品質管理にまで喧嘩を売るとは……。精霊だろうが神だろうが、絶対に許しません」
完璧なスローライフを守るため、規格外の農家は再び夜の闇へと飛び出した。




