第117話 次なる刺客
その瞬間、巨大な異形の――かつてエルフの将軍ゼルギスであった者の内側で、世界が裏返るような崩壊が起きた。
『ガ……ァァァ……ッ!?』
胸の奥深く、星の地脈と自身を強制的に繋ぎ止めていた『呪いの核』に、人間の男の拳が深々と突き刺さる。
それは魔術による破壊ではなく、極限まで圧縮された純粋な「質量」と「重力」による、絶対的な圧殺だった。
緑色の瘴気が、絶叫を上げるように吹き荒れる。
だが、その暴風の中心で、ゼルギスの意識は奇妙なほど澄み渡っていった。
(……ああ。私は、何という醜悪な姿に……)
精霊王シルフィードから与えられた「狂気の加護」が砕け散っていくにつれ、塗り潰されていた彼本来の自我が、泥の底からふわりと浮かび上がってきた。
自分が歩いた跡に残された、死の砂漠。
腐り落ちた森、灰となった大地。
精霊王の神託に従い、世界を浄化する聖戦の刃となるはずだった自分が、ただ星の命を無差別に食い散らすだけの、理性のない「害獣」に成り果てていたという凄惨な事実。
(これが、救済……? 違う、これはただの、破滅の病だ……)
崩壊していく視界の先で、ゼルギスは己を打ち砕いた男を見た。
漆黒のローブを纏い、ボロボロになった軍手越しに、あり得ないほどの質量を叩き込んできたその人間を。
恐ろしいほどに冷たく、静かな瞳。
王国の騎士でも、神に仕える聖職者でもない。ただ「自分の畑と日常を荒らされた」という、極めて個人的でちっぽけな怒りだけで、星の理すらも素手でへし折った異常者。
(……勝てるはずが、なかったのだ……。我々エルフがどれほど狂信に身を委ねようとも、この男は……世界そのものの法則の外側にいる……)
「……み……ご、と……」
最後に残ったエルフとしての僅かな誇りを振り絞り、ゼルギスは音にならない声で呟いた。
直後、彼の巨大な肉体はブラックホールに飲み込まれるように内側から極小に圧縮され――パァンッ、と儚い光の粒子となって、死の砂漠の上へ霧散していった。
同じ頃。
アルヴヘイム帝国の最奥、『精霊樹の玉座』を包んでいた重苦しい空気が、不自然なほどピタリと静まり返った。
「……南の地脈からの魔力供給が……途絶えた?」
玉座に跪いていた若き皇帝カエルムが、信じられないものを見るように顔を上げた。
ゼルギスを苗床にして展開していた、王国全土を飲み込むはずの「強制収奪」の繋がりが、まるで太い鋼の糸を巨大な鋏で断ち切られたように、突如として消滅したのだ。
「……ええ。ゼルギスの核が、完全に砕かれました」
玉座の奥から、風の精霊王シルフィードが虚ろな瞳のまま静かに告げた。
その声には、同胞を失った悲しみも、計画が頓挫した焦りも微塵もない。
ただ、絶対的な虚無だけが漂っている。
「そ、そんな馬鹿な! 精霊王様の加護を直接与えたのですよ!? 万軍を以てしても傷一つつかないはずのあの御姿が、討たれたなどと……!」
「器が弱すぎたのです。人間の持つ脆弱な肉体では、星を削り直すほどの力に耐えきれなかった」
カエルムの悲痛な叫びを冷酷に切り捨て、シルフィードは透き通る緑の髪を揺らして立ち上がった。
彼女の視線は、玉座の間を通り抜け、遥か北の大地――異物を排除した「あの男」へと向けられている。
「大地の理から完全に独立し、星の循環すらも自らの質量で叩き潰す『特異点』。……あのようなバグが存在し続ける限り、この星に真の凪は訪れません。
もはや、エルフ(子ら)の手に負える次元ではないようです」
シルフィードが白く細い腕を天に掲げると、精霊樹の周囲の空間が、にわかに歪み始めた。
圧倒的な熱量、凍てつく冷気、そして万物を押し潰す重圧が、玉座の間に同時に顕現する。
「お、おおお……! これは……!」
カエルムが、そのあまりにも強大で神々しい気配に、床に額を擦りつけて震えた。
「出番ですよ。私の半身たる者たち」
シルフィードの呼びかけに応えるように、虚空から三つの巨大な影が姿を現した。
空間そのものを焼き尽くすような紅蓮の炎を纏う、炎の精霊イグニス。
絶対零度の冷気と、すべてを飲み込む水圧を操る、水の聖霊ウンディーナ。
そして、大地の底から隆起した鋼よりも硬い岩石で構成された、土の精霊ノーム。
神話の時代より、この世界のバランスを司ってきた四大精霊の残り三柱。
それが今、シルフィードの絶望と狂気に呼応し、世界を滅ぼす「災厄の化身」としてこの地に顕現したのだ。
『……風ヨ。我ラヲ喚ビ覚マシタカ……』
地鳴りのようなノイズ混じりの声で、土の精霊ノームが問う。
「ええ。星の理を脅かす、忌まわしき『異物』が北にいます。あれは、大気の魔力を奪う程度では殺せない。……あなたたちの力で、あの男の存在そのものを、原子の塵まで焼き尽くし、洗い流し、圧し潰しなさい」
シルフィードの神託を受け、三柱の大精霊たちは静かに、しかし明確な殺意を孕んで揺らめいた。
『……承知シタ……』
『……全テノ穢レヲ、灰ニ……』
ボワァァァッ!! と、炎と水と土の莫大な魔力が玉座の間から天へと吹き上がり、三つの流星となって北の空へと飛び去っていく。
軍隊でも、異形の怪物でもない。
世界を構成する「自然災害」そのものが、ただ一人の農家を殺すためだけに解き放たれた瞬間であった。




