第116話 異形との戦い 決着
緑色の泥沼に、真っ逆さまに飛び込むような感覚だった。
死の瘴気が渦巻く領域へ踏み入った瞬間、肌を焼くような激痛が全身の神経を駆け抜けた。
呼吸をするだけで肺胞が腐り落ちそうなほどの、濃密な腐肉の臭い。
俺の周囲に展開したわずかな防護結界すらも、ヤスリにかけられた氷のようにゴリゴリと削られ、体内の魔力回路が悲鳴を上げて軋む。
「……ッ、これは……想像以上に、キツいですね」
視界は完全に緑色に染まり、方向感覚すら奪われそうになる。
王立魔術師団の筆頭として数多の戦場を駆け抜けてきた俺でさえ、本能が「これ以上進めば死ぬ」と警鐘を鳴らし続けていた。
一歩進むごとに、数年分の寿命が削り取られていくような圧倒的な死の気圧。
だが、俺の心は氷のように冷え切り、同時に、ひどく静かに燃えていた。
(ここで退けば、俺の畑の土壌は死ぬ)
脳裏をよぎるのは、世界の滅亡などという大層なものではない。
エーデル村の広場で、エプロン姿のリナが笑って運んできた熱々の串焼き。
無口なグラントさんがドンと置いてくれる、黄金色に冷えた最高のエール。
そして、俺が手塩にかけて育てた、今まさに収穫の時を待っている真っ赤なトマトや薬草たち。
あの完璧なスローライフを、こんな得体の知れないバケモノの吐瀉物で台無しにされてたまるものか。
『……ォォォォォォッ!!』
俺の接近に気づいた異形が、山のような巨体を揺らし、丸太の腕を振り下ろしてくる。
避ける余裕はない。防御魔術を張れば吸われるだけだ。
俺は全身の魔力を「内側」に留めたまま、物理的な空中機動のみで、その巨大な質量を紙一重で躱し続けた。
ドゴォォォォンッ!!
腕が通り過ぎた風圧だけで、眼下の死の砂漠が爆発したように抉れ飛ぶ。
だが、その大振りの一撃こそが、怪物が次に「大きく足を踏み出す」ための予備動作だった。
「――ヴェルダ、今だッ!」
俺が念話で叫んだその瞬間。
上空を覆っていた分厚い暗雲を突き破り、天を圧するような黒龍の咆哮が轟いた。
『吹き飛びなさい、害獣ッ!!』
ヴェルダの巨大な翼から放たれたのは、広域の暴風ではない。
一点に極限まで圧縮された、目に見えない「空気の断層」――超高密度のダウンバーストが、一歩を踏み出そうと浮いた異形の『右足の裏』に直撃した。
ズガァァァァァンッ!!
『……ギ……ェ……ェェェェッ!?』
悲鳴のようなノイズが弾けた。
星の地脈から無尽蔵の魔力を吸い上げるために、大地に深く根を下ろそうとしていた怪物の体勢が、ヴェルダの理不尽な風圧によって完全に崩れた。
踏みとどまろうと地脈からさらに魔力を吸い上げた結果――俺の計算通り、奴の処理能力が完全に限界を迎えた。
ドクンッ!!
怪物の胸元で、心臓の鼓動のような巨大な脈動が鳴った。
黒曜石のような禍々しい樹皮が内側からの圧力でひび割れ、そこから緑色の体液が逆流して噴き出す。
「絶対吸収領域」が、自らの魔力暴走によって、ほんのコンマ数秒だけ完全に霧散した。
「――捕まえましたよ」
俺は空気を蹴り、その『一瞬の空白』の懐へと飛び込んだ。
狙うは、ひび割れた樹皮の奥で脈打つ、地脈との繋がりを強制している『核』。
外部への魔術行使は一切行わない。
俺は己の莫大な内包魔力をすべて、自身の右腕という『器』の中だけで極限まで圧縮した。
魔力を放出するのではなく、右腕そのものの物理的な「質量」と「重力」を、恒星の核レベルにまで引き上げる捨て身の神技。
「俺の畑の肥料にすらならないゴミは――」
右腕が、黒い光を帯びて空間を歪ませる。
「――【グラビティ・ストライク】ッ!!」
俺の拳が、異形の胸元、逆流して露わになった緑色の核へと深々と突き刺さった。
瞬間、音すらも置き去りにするような、絶対的な沈黙が戦場を支配した。
バキィッ……! と、何か決定的なものが砕ける嫌な感触が右腕を伝う。
直後、俺の拳から解放された超圧縮された物理質量が、怪物の内側でビッグバンのように炸裂した。
『ァ……ァァァァァァァ…………ッッ!?』
怪物の巨大な体が、内側からブラックホールに吸い込まれるようにひしゃげ、捩れ、そして――
耐えきれずに、大音響と共に四散した。
空を覆っていた緑色の瘴気が、核を失ったことで行き場をなくし、強風に煽られた霧のように急速に晴れていく。
星の地脈との強制的な同化が絶たれ、南の大地を蝕んでいた「死の収奪」が、ついに止まったのだ。
「……ふぅ」
俺は空中で姿勢を制御し、静かに大地――いや、死の砂漠へと着地した。
右腕の軍手はボロボロに弾け飛び、腕全体がオーバーヒートしたように熱を持ち、微かに痙攣している。
「どうやら、害虫駆除は完了したようですね」
見上げれば、ヴェルダが巻き起こした風が、最後の瘴気の残滓を空の彼方へと吹き飛ばし、分厚い雲の隙間から、夕陽のオレンジ色の光が差し込み始めていた。
冷たい汗が頬を伝う。
全身の筋肉が疲労で悲鳴を上げているが、俺の胸の内にあった焦燥感は、嘘のように消え去っていた。
「……帰ったら、グラントさんにエールの特大ジョッキを頼まないといけませんね」
夕陽に照らされた死の砂漠の中で、俺は一人、安堵の息を長く吐き出した。
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