第114話 異形との対峙
王都から南へ。
黒龍ヴェルダの背に乗って飛翔する俺の眼下には、かつて豊かな実りを約束していたはずの南の大地が無惨な姿となって広がっていた。
青々としていた森や畑は跡形もなく、ただ一面に灰色の「死の砂」が波打っている。
かつての町や村は、怪物の足跡によって粉砕され、砂に埋もれていた。
大気は鼻を突く腐肉のような臭いと、冷たい死の気配を帯びた「緑色の瘴気の霧」に覆われている。
その死の世界の中心に、視界を塞ぐほどの巨大な影が、呻き声を上げながら歩を進めていた。
『……ォ……ォォォ……ォォ……』
山のように巨大な、正体不明の異形。
その禍々しい樹皮の隙間から、緑色の瘴気を間欠泉のように噴き出しながら、ただ北へ、北へと進軍している。その進軍ルートのさらに先には、王都がある。
「ヴェルダ、俺はここから行きます。あなたは上空で、この瘴気の霧がさらに北へ広がらないように風を制御してください」
『分かったわ。……ガイウスこそ、死なないようにね。夕食抜きは許さないんだから』
俺は漆黒の『王立魔術師団・筆頭のローブ』を翻し、ヴェルダの背からヒラリと飛び降りた。
中空に留まり、足元に【重力操作】の魔法陣を展開して姿勢を安定させる。氷のような視線で、目の前の動く死神を見据えた。
「まずは、小手調べといきましょうか。あなたの中に、まだ話が通じる理性があるのかどうか」
俺は両手を前にかざし、己の内包魔力を練り上げる。
最上位の広域殲滅呪文。
【爆裂炎破】
【雷帝降臨】
中空に浮かぶ俺の周囲に、巨大な魔法陣が何十層にも展開された。
次の瞬間、異形の頭上から数千の雷の矢が降り注ぎ、その足元からは大地を溶かす炎の奔流が巻き起こった。
通常の軍勢であれば、一瞬で蒸発させるだけの、魔術の複合質量。
――だが。
『……ォォォォォォオオオオオッ!!』
異形の喉の奥から、不快なノイズのような咆哮が轟いた。
怪物の周囲を覆っていた緑色の瘴気の雲が、まるで生き物のように蠢き、炎と雷のすべての術式を「プツン」と音を立てて掻き消した。
いや、掻き消したのではない。
俺が放った魔術そのものを、奴の周囲の空間が瞬時に分解し、奴を動かすための「エネルギー」に変換してしまったのだ。
術式が霧散した跡には、怪物の樹皮が、先程よりも瑞々しく、緑色に輝いていた。
「……なるほど。外部から放つ魔術は、すべて奴の『肥料』にしかなりませんか」
俺は冷ややかに眉をひそめた。
怪物が、俺の存在に気づいた。
虚無のような巨大な口から濃密な瘴気を吐き出し、丸太のような異形の腕を、俺に向かって振り抜いてくる。
「――っ!」
俺は空中で体勢を崩し、物理的に飛来したその腕を躱す。
だが、腕が纏っていた「瘴気の暴風」の端が、俺の防御呪文に触れた瞬間――ぞくり、と背筋が凍った。
防御のために展開していた魔力が、まるで水がスポンジに吸われるように、強制的に奪い取られたのだ。
「……厄介ですね。魔術による防壁を張れば張るほど、それを食い破って奴が強くなる。これでは結界を張って強引に懐へ潜り込むこともできない」
接近すればするほど、俺自身の内包魔力すらも吸い尽くされ、ミイラのように干からびてしまうだろう。
作戦通り「奴の周囲の空間を切り離す」には、もっと中枢に近づく必要があるというのに、そのための道筋が完全に塞がれている。
(困りましたね。このままでは、トマトが……毎日のエールが……)
俺の胸の中に、これまでのスローライフでは感じたことのない焦燥がへばりつき始めた。
その時だった。
『……助けて……! だ、誰か……!』
眼下の死の砂漠、崩落した岩の陰から、微かな悲鳴が聞こえた。
俺は瘴気の霧を一時的に視線から外し、地上を見下ろした。
そこには、逃げ遅れた数名の王国騎士と、彼らが庇うように守っている国民――老若男女が十数名、身を寄せ合って震えていた。
彼らの体力はすでに限界に近く、顔色は土気色になっている。
そして最悪なことに、怪物が先程振り回した腕から零れ落ちた「超高密度の瘴気の塊」が、まるで巨大なスライムのように、彼らの頭上へとゆっくりと降り注ごうとしていた。
「――っ!」
(俺の苦戦どころではありませんね。野菜を守る前に、まずは消費者を生かさなければ)
俺は【重力操作】を最大にし、地上へ向けて急降下した。
魔術の防壁が通用しないのなら、物理的な質量で防ぐしかない。
「【地殻隆起】ッ!」
俺が大地に手を突くと同時に、騎士たちの頭上に、厚さ数メートルにも及ぶ巨大な『岩盤』が斜めにせり出した。魔力ではなく、純粋な大地の土砂と岩の塊だ。
ズゴォォォォンッ!!
岩盤の上に瘴気の塊が激突する。
岩盤は魔力を持たない単なる物理の塊だが、それでも瘴気の恐るべき腐敗作用によって、触れた端からジュウジュウと音を立てて灰色の砂へと変えられていく。
このままでは数秒と保たない。
「ひ、ひぃぃぃっ! だ、誰だ!?」
「ガイウス・ノア、農家です。死にたくなければ、絶対にその岩の上から動かないでください」
俺は絶望する騎士たちを一瞥し、彼らが乗っている大地のブロックそのものに、俺の魔力を叩き込んだ。
「エリック殿下たちが、はるか北で避難誘導をしています。転移魔法は奴に吸われるので使えません。ですから――少々荒っぽいですが、そこまで『物理的に飛ばし』ます」
「え、飛ばす……? うわぁぁぁぁっ!?」
俺は【慣性中和】で彼らへの衝撃を殺した上で、【重力操作】のベクトルを真上と北へ向け、彼らが乗る巨大な岩盤ごと、大砲のように空の彼方へ向けて射出した。
悲鳴を上げながら、岩のサーフボードに乗った一団が、瘴気の及ばない北の空へとカッ飛んでいく。
「……ふぅ。これで、背後の心配はなくなりました」
ドシャァァッ……!
彼らを守っていた岩盤の残骸が、完全に瘴気に腐らされて崩れ落ちた。
俺は再び、首のタオルをキュッと引き締め直し、立ち込める瘴気の向こうにいる巨大な怪物を見上げた。
助け出せたのはごく一部。
まだこの死の砂漠のどこかに、逃げ遅れた民がいるかもしれない。
「問題は、あの魔術を食らう理不尽な死神を……どうやって俺の畑の肥料に変えるか、です」
結界も、転移も、攻撃魔術も通じない。
近づけば魔力を吸われ、遠距離攻撃は餌になる。
死の瘴気が渦巻く戦場の中で、俺は最強の害獣を見据え、冷たい頭で打開策を練り始めた。




