第115話 異形との戦い
ズズンッ……ズズンッ……。
「……チッ、底なしですね」
俺は空中を蹴り、異形の振り下ろした巨腕を紙一重で回避した。
だが、回避した先も安全ではない。
空気に混じる緑色の瘴気が、俺の周囲に展開した【慣性中和】と【重力操作】の術式を、ヤスリで削るように磨耗させていく。
「【極大圧縮氷弾】ッ!」
俺は自身の内包魔力を極限まで固め、魔力そのものを「物理的な質量」へと変換して放った。熱を奪う魔術ではなく、絶対零度の冷気を封じ込めた「氷の弾丸」による物理打撃だ。
魔力吸収の影響を最小限に抑えるための策だったが、異形の周囲に渦巻く瘴気に触れた瞬間、その弾丸すらも表面からボロボロと崩れ、奴の胸元に届く頃には、ただの霧となって霧散した。
『……ォ……ォォォ……』
異形は止まらない。俺の攻撃など、微風を浴びた程度にしか思っていないようだ。
奴の歩幅は数キロに及び、一歩ごとに王国の豊かな領土が「死の砂漠」へと塗り替えられていく。
(……まずいですね。この速度で進まれれば、王都までは保って五日。そこを抜かれれば、エーデル村まで飲み込まれるのに二日はかからない)
脳内をよぎるのは、リナが笑って運んでくる串焼き。
グラントさんが無言で注いでくれる、完璧に冷えたエールの黄金色。
そして、今まさに収穫のピークを迎えている、俺のトマト。
(……それだけは、絶対に阻止しなければならない)
俺は再び首のタオルをきつく握り、焦燥を冷徹な計算で押さえ込んだ。
だが、状況は絶望的だ。
魔術を撃てば吸われて奴の糧になり、接近すれば俺自身の魔力が枯渇する。
物理的な干渉ですら、瘴気の壁に阻まれて中枢には届かない。
今の俺は、まるでアリが山を動かそうとしているようなものだ。
「ヴェルダ! 瘴気を完全に抑え込めませんか!」
『無理! 奴が地脈から直接魔力を汲み上げている以上、この瘴気は星が枯れるまで止まらない! 今は王都へ流れないように風を曲げるので精一杯よ!』
上空で巨大な翼を広げ、暴風を操るヴェルダの声にも余裕がない。
星の地脈と一体化した異形は、いわば「生きた自然災害」だ。個人の魔力で対抗できる領域を、とうに超えている。
異形が、再びその巨大な口を大きく開いた。
周囲の空間が歪むほどの魔力収奪。
俺の足元の地表からも、微かに残っていた生命力が吸い上げられ、さらに深い灰色の死へと沈んでいく。
(……追い詰められましたね。俺としたことが、これほど攻めあぐねるとは)
俺は漆黒のローブの袖を噛み、冷たい汗を拭った。
筆頭魔術師の誇りにかけて、負けるわけにはいかない。
だが、どうする?
奴の全てが「吸収」と「排出」で完結しているのなら、どこかにその「繋ぎ目」があるはずだ。
その時だった。
『……ォ……ォォ……ッ!?』
異形の動きが、一瞬だけ、本当に一瞬だけ硬直した。
奴が大きく足を踏み出し、地脈から膨大な魔力を吸い上げようとした、その瞬間だ。
奴の胸元、禍々しい樹皮の隙間から、ドロリとした緑色の体液が逆流するように噴き出した。
「……今のは?」
俺の「魔力解析」が、その一瞬のノイズを捉えた。
奴は地脈と繋がっているが、吸い上げる魔力の量が「許容量」を超えているのではないか?
あまりにも膨大なエネルギーを処理しきれず、周期的にその循環が「逆流」し、魔力収奪のフィールドが内側に反転している。
俺は目を凝らし、奴の歩調と魔力の脈動を測った。
ドクン……ドクン……。
地脈から吸い上げるタイミング。
処理しきれない余剰魔力が、瘴気となって排出されるタイミング。
その瞬間に、ほんのコンマ数秒だけ、奴の周囲の「絶対吸収領域」に穴が開く。
「……見つけましたよ、害獣」
俺は口元を歪め、指先で空中に複雑なルーンを描き始めた。
隙は、奴が次に「一歩」を踏み出す瞬間。
その一瞬に、俺の全内包魔力を超圧縮した「解答」を叩き込む。
「ヴェルダ! 次の奴のステップに合わせて、全風圧を奴の足元に集中させてください! 一瞬だけ、奴の姿勢を崩させます!」
『……!? 分かったわ、まかせて!』
俺は加速魔術を幾重にも自身に掛け、死の瘴気が渦巻く中へと、矢のような速度で突っ込んだ。
視界が緑色に染まり、肌が焼けるような痛みが襲う。魔力が凄まじい勢いで削られていく。
だが、俺の目は、奴の胸元の「逆流する繋ぎ目」だけを見据えていた。
トマトも、エールも、俺のスローライフも。
こんなところで終わらせてたまるものか。
「――害虫駆除の、最終段階です」
俺は軍手をはめた拳を固め、異形の懐、死の領域のその奥深くに、命懸けの跳躍を敢行した。




