交渉その1
窓から漏れる陽の光が頬を叩いている。眠りの泉からゆっくりと浮上したシロウは薄目で時刻のあたりを付けるとのっそり起き上がった。鎖骨の辺りを掻きながら絞り出すように欠伸をする。
見慣れた下宿の自室。僅かばかりの家具の隙間と言う隙間が様々な様式の紙束で埋められている。そこに書かれている文言も格式張った文書から走り書きのようなもの、意味不明の落書きまでありとあらゆるものが取り揃っていた。それらを掻き分けて水差しを取り、清浄な水を一気に飲み干す。喉が潤い、眠っていた体がおずおずと起きだすのを感じた。
「……さあて」
シロウは手の甲で口元を拭くと呟いた。手早く身支度を整えて自室を出る。約束の時間にはまだ少しだけ早いが、他にする事もない。扉を開けると甘い匂いが漂って来た。この店の二階がシロウの根城になった時からいつも嗅いできた匂いだ。
「まあ、物騒ですのねぇ……」
シロウが一階に降りるとエマという名の女将さんが客と世間話をしていたようだった。客に商品を渡し、「またお越しくださいませ」と一礼したところでシロウに気づく。
「あら、おはようごさいますシロウさん」
まとめ上げた髪には幾筋か銀色の毛が混じり始めているが、それがかえって落ち着いた上品さを際立たせている人だった。
「お早うじゃないだろ、もう日も高いぜ」
横からご主人であるホイルが口を挟む。禿げ上がった頭に赤い三角巾を巻き、丸太のような太い腕に大きな手袋をはめて鉄板を抱えている。その上にはたった今焼き上がったばかりの様々な菓子類が並んでいた。シェリー酒を利かせた焼きたてのよい香りが辺りに振り撒かれる。
「いいのよ、昨日も遅くまでお仕事してらしてたみたいだし、ねえシロウさん」
「全く迷宮から戻ったと思ったら引き籠って書き仕事なんて、ちったあ陽の光を浴びねえとカビが生えちまうぞ」
「ハハ、こりゃあ、どうもすみません……」
頭を掻いて、シロウは恐縮してみせる。この親切な夫婦が営む小さな菓子屋にシロウは間借りしていた。 とかく収入の安定しないシロウにとって、まるでお情けの様な額で部屋を貸してくれるばかりか、温かい食事まで振る舞ってくれる二人にはシロウは頭が上がらない。
「何だったんです?物騒がどうのって」
気になった事をシロウは聞いた。
「いえね、最近ガラの悪いのがうろついてるんですって。ゆすりだ集りだ喧嘩だって、おちおち表も歩けやしないなんていう……」
「へぇ……」
旧鉱山の一画に迷宮が現れて以来、一攫千金を求めて大陸中から探索者が集まるようになって久しい。人が集まれば彼らの生活物資を賄う商売もまた大きくなり、さらに人を引き寄せる。要は迷宮を起点とする経済で回っているのがズズリなのだが、それだけに外部からの流入者が多く、どうしても地縁は希薄なものになってしまう。見知った顔ばかりの関係性ではいられないのがズズリという所で、場所によっては治安も良いとはいえない。ちなみに迷宮目当てに外から流れ込んだ者というのならばシロウも同類である。
「こう、腕に入れ墨が入ってるんですって、どっかの罪人が逃げて来たのかしらねぇ……」
「それは、怖いですねぇ」
シロウはエマに同調する。
「世の中魔獣みたいなやつはいつだっているさ、ほうら、いつものやつだぜ」
「あっ、ありがとうございます」
藤で編んだ小さな箱がシロウの前に差し出され、シロウは両手で丁重に受け取った。中身はこの店の名物の焼き菓子。卵白と砂糖と木の実を炒って粉にしたものを混ぜて丸めて焼き上げ、赤や青や緑に色付けした、甘くて見た目の可愛らしいものだ。シロウがこの店を下宿に選んだのもこれの存在が大きかった。あれやこれやと人と会って話すのが常であるシロウには、手ごろな手土産が欠かせない。その点に置いてこの店の菓子は先々に大変好評であった。ホイルエマ夫妻にとってもシロウが方々で商品の宣伝の真似事をしてくれるのは喜ばしいことであり、それがためにこの冴えないやもめを安価で店子にしている面もあった。”一流冒険者御用達の店”という看板を本気で出そうかと思案している程だ。
「それにこっちもね」
エマが別の包みをシロウに渡す。薄緑色の布に包まれたそれはまだ温かい。女将さんお手製の弁当だ。
「いつもいつも済みません」
シロウは藤の箱と弁当を恭しく抱えると店の扉に手を掛けた。
「出掛けてきます。あ、夕食は、たぶんいらないです」
「そう、いってらっしゃい」
「お天道様の下を歩けよ」
シロウの下宿先の菓子屋から路地を抜けると荒物屋街に出る。箒だとかざるだとか言った様々な生活雑貨が店先に並んで賑やかな様子だ。軒を連ねた店の切れ際に屋台が出ていて、シロウはそこで羊肉のスープを買った。たまたま銀貨しか持ち合わせがなく、屋台の親父に見せると親父は渋い顔をして銅貨8枚とスープをシロウに渡した。スープを急いで腹に流し込む。塩味が効いていて旨かった。
そこを出てさらにしばらく歩くと、木造の瀟洒な建物が見えて来た。あの迷宮の深部に掲げられたものと同じ意匠の旗がそよ風を受けて僅かに揺らめいている。他ならぬ、アルビオンのロッジであった。着いてみてシロウは驚いた。ロッジの前で人が列を成している。それが蛇がのたうつかの様に幾重にも折れ曲がって続いていた。考えてみればそれも当然の光景だろう。
迷宮探索で文字通り前人未踏の成果を残したアルビオンである。となれば例え僅かでもその知遇を得ようと街の内外を問わず人が詰めかけるのも、水が高きから低きに流れるのと同様に自明の理である。うっかり昼近くまで惰眠を貪っている場合ではなかった。いくら約束を決めているとはいえ、ラウズの体は1つだ。しつこい客に捕まって会談が遅れたり無くなったりするかもしれない。やまれぬ事情でそうなるのは仕方ないにしても、多忙にかこつけてシロウとの面会を回避するという事だって無いとは言えないのだ。人が仰ぎ見るような大クランともなれば、それも交渉の内である。シロウは己の迂闊さを呪いつつ、列を躱しながら前に進む。待たされている人々は一様に非難めいた目をシロウに向けた。この無礼な闖入者は何なのだと険しい表情が訴えている。横目を動かすと彼ら訪問客は皆、手に手に大仰な荷物を携えているのが見えた。自分で手にしない者は部下や使用人と思しき者に持たせている。急に自分が抱えている籐の箱が貧乏じみたものに見えてしまうが、首を振って悪い想念を思考から追い出して進む。列は確実にラウズの執務室に続いているはずだった。
「おお!ヘンリー卿!何となればこちらから出向きましたものを、いやあ何の何の、ははあ、奥方はご壮健で?うむ、それは何よりハハハ……」
執務室の方から快活な声がこちらまで聞こえて来る。確かにラウズのものだった。団長らしい事をしているのだな、とシロウは感心した。
その執務室の手前に受付があり、目を落として書き物をしている女性がいる。ラウズの秘書のような事をしている人で、シロウもよく知っている。美しい人だ。シロウは小声で話しかけた。
「ミランダさん」
「わっ、あわわ……」
ミランダと呼ばれた女性はひどく驚き、持っていたペンを取り落としそうになって、手で空気をかいている。シロウはオテダマという彼の故郷に伝わる子供の遊びみたいだなと思った。
「な、なんだ……シロウさんじゃありませんか」
「あの、よろしくお願いします……」
「あら?あら!まあまあ、もうそんな時間でしたの?今日は朝からお客さまがひっきりなしで、私ったらてっきり」
そのような事を一気にまくしたてながら書類をトントンと整えたミランダは立ち上がると、優雅な所作でシロウを奥に招いた。我々を堂々と追い越しただけでなく美人秘書の応対まで受けてやがる、あいつは何なんだ、という多数の嫉視を背中に受けつつ、シロウはミランダに従った。




