【1-7】
翌日。七月二十二日。――夏休み初日、時刻は十五時頃。
メア先輩から「目は閉じてて」って言われてから何分経っただろうか。少なくともこの時間でカップラーメンが三個以上はできあがっているはずだ。……あとどれくらいかかるんだろう? 協力するとは言ったが、いい加減閉じた瞼と僕のツッコミ精神がピクピクと限界を迎えつつある。
「あの……。メア先輩?」
ガチャガチャと物と物が擦れ合うような雑音に紛れ、返事が聞こえてくる。
「んぅー? なぁーに?」
作業の片手間なのか、妙に間延びした返答だ。
「もっかい聞きたいんですけど……。これ、どういう状況すか?」
「どうって、君をマッスルレディに変身させるためにミラクルメイクアップしてるんでしょ」
メア先輩が僕の瞼の上から何かを塗りながら言う。
「…………。何で?」
「何でって、説明したじゃん。君には恋人のフリをしてもらうって」
「……なるほど。何度聞いても分からんということだけは理解しました」
「えー……。また言わせる気?」
嫌々そうに言うが、メア先輩がノリノリなシーゼル王子の声マネを再現する。
「『そんなに恋愛するのが嫌なら俺が彼氏のフリして男避けになってやるよ。ただし、週末の日曜に俺とデートするのが条件だ。キラーン☆』って、昨日あの王子様に押し切られちゃったからね。前々からちょっとしつこくて困ってたんだけど、一応一国の王子だし無下に断るわけにもいかなくてさー。そこで君に協力してもらおうと思ったの」
先輩の話を要約すると。変装させた僕をデートの待ち合わせ場所に連れて行き恋人として紹介する計画だそうだ。恋人ならもう間に合ってるので必要ないです、と理由をつけて、シーゼル先輩に諦めてもらうつもりでいるらしい。王子様を振る気でいるなんてメア先輩も豪胆な人だ。
それに今度こそ嘘だとバレたら炎上を跳び越えて世間から存在ごと焼滅しそうな勢いなのに、先輩ときたら「そうなったら自分に告白しようと思う人もいなくなるしちょうどいい」ときたもんだ。まったく……この人が何を考えてるのか僕にはさっぱり分からん。
女装に関しては僕自身も顔の作りは中性的な方だと思うし、案外バレなくて上手くいくかもしれない――しれないのだが……。
「だからって……何でマッスルレディに変装しなきゃなんないんですか?」
「私の好みがそういう設定になっちゃったんだからしょうがないでしょ。嘘を実にするために協力してよね」
「二周回ってなるほど……。でも……別にウチでやらなくても良かったんじゃ?」
「人目を気にせず、コストもかからず、適度な広さと夏場の長時間作業に耐えうる空調設備、飲食が可能でトイレがある室内環境、加えて使用するに至って第三者の許可がいらない利便性――、これ以上の好条件が整ってる場所が他にあるって言うの?」
…………。安易に協力すると言った僕がいけなかったのかもしれない。それでも、ここは声を大にして言わせてくれ。
「……どうしてホントにこうなったんだ…………」
本来なら約四十平米ほどのワンルームのリビングという閉ざされた空間に美少女と二人っきりでいられる最高のシチュエーションに加え、目を開けば向かい合ってベッドの上に座っているという奇跡の光景に、天井を突き破る勢いで舞い上がっていてもおかしくはないのに。『マッスルレディの女装を強制され、さらに人前でその役を演じきらなければならない』というクソわけ分からんこの非日常的な現実のせいでまったくもって気分が上がってこない。
そこからさらにカップラーメンがもう五個くらいできそうなほど時間が経過した頃。ようやく、メア先輩からお許しの声がかかる。
「よし、これでほぼ完成っと。――目、開けていいよ」
やっと解放されたと思い両目を開けると、いつものサイドテールに、お馴染みのオフホワイトの半袖ブラウスと、ライトグリーンのフレアスカートを着たメア先輩が視界に映る。
女の子座りでちょうどティントリップ(グロスに似てるけど別物らしい)を片手に、満足げに拍手しているところだった。
「さあ、見てみて」
手渡された手鏡を恐る恐る覗き込む。
「――どうかな?」ワクワクした様子でメア先輩が訊いてくる。
地毛の灰色ショートマッシュをすっぽりと覆い隠す赤毛のもじゃもじゃウィッグ、目の上にはどぎつい紫のアイシャドウ、眉毛に届くほど盛られたフサフサの睫毛、ほんのりと染まったピンクの頬、やたら主張が強く分厚くなった青黒い唇。
…………。まあなんというか……これはもう…………。
「どっからどう見てもオネェじゃねえか……!」
手鏡をベッドに投げつけ半泣きで床に四つん這いで崩れ落ちる僕。それだけでは気持ちが収まりきらず床をバンバンと叩く。
「やー、やっぱこっち路線のが撃退率上がるんじゃないかなって思ってさー」と、ヘアメイク担当がヘラヘラとお気楽な感じで言ってくる。
……撃退率って何? 僕は何と闘わされる運命なん? あとオネェを撃退の道具に使うな!
僕の心境に反してメア先輩が意気揚々と言う。
「あとはカラコンをつければ完璧ね。明日また来るときには持ってくるから」
「逃げなければ……どこか遠くへ……!」
どこかに即日入居できる物件はないだろうか……? ないか……。
落胆した気持ちを切り替え、メア先輩を見上げる。
「てかマッスルの要素どこいったんですか? メイクだけじゃマッスル感ゼロじゃないすか」
「ふふっ。そう言うと思ってー」
メア先輩はベッドの脇に置いた(何でか知らんが持ってきた)キャリーバッグを開けてあるものを取り出してくる。
「じゃじゃーん! アマゾゾで見つけたコスプレ用の筋肉スーツを持ってきましたー!」
おそらくシリコン素材でできた男性の上半身裸を模した長袖サイズのスーツを手に持って、僕に表裏交互に見せびらかす。
前面は胸や腕周りがムッキムキの偽筋肉で膨らんでおり腹はシックスパックになっている。背面も同様に背筋が盛り上がっていて、中央の縦軸の上半分にはファスナーがついている。
「これ凄くない? こんなの売ってるんだね」とか「注文した翌日に届くなんて配達してくれた人たちには感謝しかないよね」とか、先輩一人で勝手に盛り上がっている。……どうしよ。テンションについていけん。
リアクションに困窮していたところに。すこぶる良い笑顔でメア先輩が僕に微笑みかける。
「じゃあこれ着てブラも合わせてみよっか」
「へ?」
ニコニコとメア先輩が筋肉スーツを両手に、じりじりと迫り寄ってくる。
「さぁー、ぬぎぬぎしまちょうねー」
猫撫で声で言う先輩を前にして、
「ひぃぃ……っ」
咄嗟に跳び上がり胸元を両腕で隠して部屋の隅へと後退る僕。
「いやん! ヤダ! こっち来ないでぇ!」
メイクの効果が出たのかなぜかオネェ口調になってしまった。
しかし。抵抗虚しく……。着ていたTシャツを剥ぎ取られ筋肉スーツを着させられた挙げ句、パッド入りのブラトップまで無理矢理着させられてしまった。……なんだろうこの敗北感は。もう男心がズタズタです…………。
自分のお願いを叶えるためとはいえ、こんなことになるならばもっと事前に話し合っておけば良かったと後悔の念が先に立つ。
悔やむ僕とは対照的に。やけに上機嫌なメア先輩はあられもない哀れな姿で床に這いつくばる僕をじっくりと観察してから、満足そうに言う。
「流石に一緒にブラを買い行くのはハードルが高そうだったからネットで選んじゃったけど、サイズも問題なさそうだし大丈夫そうだね」
「サイズは大丈夫でも僕のハートが大丈夫じゃないです……」
ハートもネットで買えればいいのに……。ないか……。
ここまでやってもなお、クオリティに納得がいかないご様子のメア先輩は、顎に手を当て思案を巡らせている。
「んー、思ってた通り肌との微妙な色の差が出ちゃうから後でスーツを改良してみるか。スポンジでファンデ塗って……上から保護スプレーか何かで定着できないかな……」
……もう好きにしてください。
諦観した僕の心中など気にも留めずに。ベッドから降りて僕に振り向いたメア先輩は、さも簡単だというご様子で次のステップに進もうとする。
「じゃあ次はその上から着れる服を買いに行こっか。もちろんお金は私が出すから」
「……このメイクで外に出ろと?」
どうか間違いであってくれ、と神に縋る気持ちで床からメア先輩を切実に見上げる。
「うん。明日に備えてちょっとでも慣れておこうよ」
…………。この世に神はいないのか……。
「明日……っ。明日頑張りますからっ。それだけは……っ。それだけは、どうかご勘弁をっ」
この危機を回避するために僕に残された手段は一つだけ。ただただ土下座で頼み込む……もはやそれだけだった。
「んー……ならしょうがないかー。協力してもらってるわけだし、無理強いはできないしね」
なんとかメア先輩に譲歩してもらったところで、メイクを落としTシャツとハーフパンツ姿の元の自分に戻ることができた。……鏡に映った普段の自分に妙な安心感がある。
そこから。出かける準備を整えた僕らは、メア先輩を自転車の後ろに乗せ、約十分ほどの距離にあるファストファッションのブランド、F&M(Female and Male)が入っているショッピングモールに到着した。
店に入るなりメア先輩が手早く選んだレディースの上下を持たされ試着室に連行された。
試着中。
「どう? 着れた?」と、カーテン越しにメア先輩。
「一応着れましたけど……」
「サイズは? 問題ない?」
「これ、上が短くてお腹が見えちゃってます」
「それはそういうファッションだから。――見せてみて」
カーテンが開く。姿見に映る、上はハイネックにノースリーブでヘソ出しスタイルの白のニットトップスに、下はタイトなハイウエストの黒のスキニーパンツとスニーカー、というあまりにも不釣り合いな格好で不貞腐れたツラをした僕とご対面したメア先輩は、一目見て、すぐさま顔を後ろに背け震える声で言う。
「ふふ……、に、似合ってるよ」
この人、笑ってやがる……!
「……誰のせいでこんな格好させられてると思ってるんすか」
「ご、ごめ……ふふっ。か、可愛いヨ? カワイイ……スゴク…………」
「……こっち見て言ってくれません?」
肩を震わせながらこっちを振り返るメア先輩。何やら口をぎゅっと結んで耐えている様子。
「…………ぶふっ」
だが。またすぐに噴き出して後ろを振り返る。
「うぉい。こっち見ろい」
何はともあれ。無事に購入。
選んでもらった衣装が入った紙袋を持って店を後にした僕らは、小腹が空いたというメア先輩の意向でショッピングモール内にあるフードコートに来ていた。広いスペースに様々なジャンルの飲食点が十店舗ほどが出店していて座席数も余裕がありそうなほど数はあったが、祝日故か時刻は十六時を回っていて混む時間帯ではなかったものの、空いている席はまばらだ。
メア先輩はドーナッテルー店のチュロスドーナッツとコーヒー、一方自分は先輩が家に来るという一大イベントが発生し部屋の大掃除に追われて昼飯を食べずじまいだったので、がっつりめにストライクバーガー店のジャックバーガー(通称ダブル)とレモネードをチョイスし、テーブル席に着く。
食事をしながら明日の作戦や設定などの案を練るためにアイディアを出し合う。
「実は私たち、生き別れた双子の姉妹で前世では敵国同士で愛し合った恋仲でしたってのはどうかな?」と、メア先輩。
「これ以上キャラ渋滞させてどうするんすか……。詰め込み過ぎて頭ん中のイメージ像がパンクしてますよ」
何でか急に軽快なリズムで頭を左右に振ってメア先輩が歌い出す。
「頭パ~ン♪ パンパパン♪ 頭パ~ン♪ パンパパン♪」
クリスティアきっての秀才がおどける姿に。自分の知り得る限りの語彙から最適なツッコミを探すも何も出てこず困惑する僕。
「……それ何の歌すか。真面目にやってくださいよ」
幸せそうにドーナッツを噛み締め、飲み込んでからメア先輩は言う。
「もっちりちゃんと考えてるって」
もっちりじゃなくてしっかり考えてくれよ。ふわっふわっの案になっちゃうだろうが。
「なんすか? そのドーナッツそんなにもちもちなんですか?」
「うん。もっちりぃー♪」
両頬に手を添えニコニコと微笑む先輩を冷めた目つきで見つめる。
「……もう帰っていいですか?」
その後。メリハリがついたのか順調に作戦会議が進展して一段落した頃。
気づけばがやがやと賑わっていた周囲の客も少なくなって幾分静かになり、そこへ重なるようにお互い喋ることがなくなって隙間の時間が流れる。静寂のひと時。でも、昨日いきなり知らない喫茶店に連れ込まれ、何を喋ればいいか分からなかったあのときの沈黙とは打って変わって気まずい感じはない。
「…………」
女装用の衣装を買いに来たって言わなければ、僕らも傍から見ればデートしているように見えるのかな? ――とか、漠然とそんなことを考えていた折に。
先ほどまでは明るく喋っていたメア先輩が徐に神妙な面持ちで口を開き、
「ねぇ――君は、誰かに恋したことある?」
唐突に。歳相応の、恋に悩める少女のように、そう言った。
先輩の過去に婚約者(嘘だったけど)以外の恋人がいたという話は聞いたことがない。けど、多感な時期と言われている僕らぐらいの年頃なら、大抵少なくとも一度ぐらいは恋をした経験はあるだろう。それに、なんせ先輩は引く手数多の美人なうえに話は上手いわ、そもそも行動原理が奇想天外でぶっ飛んでるので見ていて飽きないし、何より一緒にいると面白くて楽して時間が瞬く間に溶けていく。これだけの好条件がそろっていればそういう相手を探すのだって苦労しないはずだ。
だからか。先輩の発言がとてもちぐはぐに思えて、つい笑ってしまった。
「ははっ。なんだか恋をしたことがない人の台詞みたいですね」
メア先輩はちょっとムッとして言い返す。
「私じゃなくて、君に訊いてるの」
「うーん……」顎を擦りながら記憶を辿る。
「ありますよ当然。――小学生の頃かな、近所に八歳離れた年上のお姉さんが住んでて、母親がいなかった自分の面倒をよく見てくれてたんですよ。優しくておっとりしてるところが、ちょっと母に似てて……お姉さんの家に遊びに行って、宿題見てもらったり一緒にテレビ見てゲームやったり、家族の人にも夕飯とかご馳走してもらって、泊まらせてもらったこともあったな。楽しくてしょっちゅう遊び行ってたっけ。自分一人っ子だったし、本当のお姉ちゃんができたみたいですごく嬉しかったんですよ」
僕が郷愁に浸っていると、メア先輩はこちらの顔色を窺い、
「分かる。私も一人っ子だから兄弟や姉妹に憧れてたなあ」
と言い、続けて、
「それで?」
と合いの手を入れてくれる。
「……中学校に上がる年にそのお姉さんが結婚することになって。相手はお姉さんと割かし歳が近くてより年上だった村のお兄さんで、結婚を機に二人とも村を出て遠くに移り住んじ
ゃったんで、それ以来めっきり会う機会もなくなっちゃって……。気づいたのは、その後一度、お姉さんが住んでた家に再びお邪魔したときだったかな。家族の人はこれまで通り歓迎してくれてそれは嬉しかったんですけど、なんだか余計に寂しくって…………しばらく立ち直れませんでした。――今思えば、あれが初恋だったんだと思います」
熱心に聞いていたメア先輩の眉尻が途中から段々と下がっていった。
「それは切ないね……。どうすることもできなくなってから恋に気づくパターン、か……。きっと私だったら、耐えられない……」
そう言って。握り締めた拳を胸元に添える。幾度か見た不安げなときにやるその手癖に、おそらく気分を落ち着かせたいときにやる先輩式のスージングタッチなのだろう、と彼女の胸中を推し量る。
僕は苦笑して返す。
「先に気づいてたとしても流石に小学生の僕じゃ恋愛対象として見てもらえなかったですよ」
顔色を曇らせてメア先輩が静かに呟く。
「……初恋って叶わないものなのかな?」
「んー。レアですけど、中には初恋を成就させて結婚した人たちもいるんじゃないですかね」
それを聞いたメア先輩は、少しだけ和らげた表情にえも言えぬ侘しさの色を残して笑った。
「それこそ嘘みたいな話だね」
「…………」
何やら寂しげな空気を変えたくて、話を振ってみる。
「ところで――、メア先輩の初恋はいつですか?」
「え?」
「僕のを教えたんですから、当然先輩のも話してくれますよね」
「それは……」
メア先輩は戸惑った様子で後に続く言葉を引き延ばすと、マグカップに入ったコーヒーを口元に運び、目を瞑って澄まし顔で答える。
「機密事項です」
機密って……国家レベルの秘密なのか?
「ええ……。僕だけ言い損じゃないですか」
コーヒーを一口味わってからテーブルに置き、メア先輩は平然と言う。
「私も教えるなんて一言も言ってないもん」
「今のは話的にそういう流れでしょ」
「ナガレ? 何それ? 聞いたことないけどなんだかおいしそうな響きね」
「メア先輩の初恋の話なんて皆食いつくほどおいしいに決まってますよ」
「――私、五歳くらいの頃までは大きくなったらパパと結婚するもんだと思ってたの。だから私の初恋の相手はお父さん、以上」
「それ多くの人が経験してきてるやつじゃないですか。そういうありきたりな話じゃなくて、もっとこう――」
と、僕が言い切る前に。「あーはいはい」とさらっと話を遮ったメア先輩は、そっぽを向き顎肘をついて肩を竦める。次いで溜め息混じりに投げやりな感じで言われる。
「はあ……。じゃあもう私の初恋は君ってことでいいや。以上」
「それ絶対嘘じゃないですかー……」
最初から期待はしてないけど、まるで人ごとのように言われたら僕だってちょっと傷つく。
メア先輩はまたマグカップを手に取り、先ほど見た澄まし顔で目を瞑りながら言う。
「かもね。私、嘘吐きらしいし」
そんなこんなで。その後は設定通りのキャラになりきるための演技指導を受けたが、結局最後までメア先輩の初恋の相手が誰なのかは教えてもらえずじまいで、この日は解散した。




