【1-6】
本当にどこに連れてかれるのかと思いきや、辿り着いた先は距離的にはすぐ近くの――レンガビルを二棟通り過ぎた先の――細い裏路地に入ったところにある壁面が蔦に覆われたいかにも寂れた二階建ての建物で、入り口の錆びたドアベルが上にかかったアンティーク調の木製ドアを、ガランガランとメア先輩は激しく鳴らして開け、無理矢理引っ張られつつも一緒に入る。
中を見てからようやく喫茶店だと気づいたが、店内は左にカウンター五席と右にテーブル二席しかない狭さで、テーブル側の窓から差し込む夕陽以外は薄暗くて明かりも点いていない。本当に営業しているのかと目を疑うレベルだ。
ルトロヴァイユとは違ってレトロ……というか、ボロいというか…………、とにかくそんな感じで客は一人もいない。なんなら肝心の店主や店員と呼べる人物も存在せず、店内はもぬけの殻で静まり返っている。
なのに。メア先輩は特に気にする様子はなく、僕の手首から手を放すと入り口傍の右手側のテーブル席に向かい、手前側の臙脂色のソファに腰を落とす。
いきなり営業しているのかも分からないお店に連れて来られてどうしたもんか、と僕が入り口で立ち往生していると、メア先輩は、キッとこっちを睨み、
「何してるの?」と、とっとと着席するよう目配せしてくる。
「先輩……、この店入って大丈夫なんですか?」
「大丈夫だから早く座って」
ちょっと強めの語尾に背中を押され言われるがままに対面のソファに着席する。
まさか……こんな形でメア先輩と二人っきりで話せる機会が来るとは夢にも思わなんだ。
ノスタルジックな面影に包まれた店内で向き合って座る僕らを、窓から差す淡い斜陽だけが歓迎してくれる。
「…………」と、僕。
「…………」と、メア先輩。
「………………」と、僕。
「…………………………」と、メア先輩。
…………空気おっもっ。ようやく話せるチャンスが来たっていうのにいざこうして向かい合うと話したかったことがなんも出てこないっ。と、とりあえず! 何か喋らなければ……!
「え~っとぉ~……、本日はお日柄も良く~……このような席を設けていただき~……え~っと、そのぅ~…………」
「…………」
メア先輩から放たれる獲物を見据えた獅子が如くの鋭い視線の重圧に負け、敗者たる僕は口を噤み顔を斜め下に向け、床の一点のみを見つめることしか許されなかった。
息苦しい沈黙に振り子時計の刻む針の音だけが呼応する。
「――で、いつから私の後をつけてたの?」と、冷気を帯びた口調で先に切り出したのはメア先輩。
「はい?」
「あの日は、確か二十日だったから少なくとも八日前からだよね? それとも、もっと前からつけてたの? あの胡桃を持ち歩いてたってことは、前々から私に接触する機会を窺ってたんでしょ? 下手に説明してシラを切られるより証拠として見せつけた方がよっぽど効果的ですもんね。――それで、一体何が目的なの?」
よく正確に日付を覚えていられるな、という感心が一割で、残りの九割は真顔で矢継ぎ早にまくし立てるメア先輩に面食らってしまいたじたじだったが、僕は正直にこれまでの経緯を一から説明した。
全て話し終えると、メア先輩はショックを受けた様子で両手で口を塞ぐ。
「じゃあ…………三日も連続で、偶然あの場にいたって言うの……?」
疑う素振りもなく目を見張り愕然とするメア先輩。その様子から、こんな嘘みたいな話を信じてもらえるだろうか、という一番の懸念材料がどうやら杞憂に終わりそうで、僕は首の後ろを擦りながら苦笑して補足する。
「偶然って言っても一日目と二日目だけで、三日目はまた同じ場所で待ってたら何かあるんじゃないかなって、そんな気がして気になって見に行ったら、まさか本当にメア先輩が来るとは思わなくて……勝手に覗き見してすいませんでした」
頭を下げ謝罪すると。メア先輩は眉一つ動かさず偏に僕の目を直視していたが、
「…………でも、私が下着の中に入れた胡桃一度は見てるんだよね? ホントに持って帰ったりしてないんだよね?」
不意に圧の強いジト目に急変し、淡々と問い詰めてくる。
どうやらまだ僕をド変態じゃないかと疑っているらしい……。僕よりメア先輩のがよっぽどド変態的行為かつ酔狂な発想をしていらっしゃると思うんだが、それを言ったら……たぶんまたぶたれるな。やっぱ、先輩が使用した胡桃だと気づく前に一度拾ってしまったことは伏せておいて正解だった。
「信じてください、としか言いようがないです……」
しばらく。メア先輩はじーっと神妙な面持ちで僕の顔を見つめていたが、やがて、真一文字に結んだ口を緩めて言う。
「…………分かりました。今回だけは、特別にその言葉を信じます」
疑いが晴れた安堵でつい吐息がもれる。
「ふぅぅ……。ありがとうございます」
それを見ていたメア先輩は急にしおらしげに俯き、言う。
「あと私も……早とちりで叩いちゃったの今さらながら後悔してるから謝りたい。――痛かったよね? ごめんなさい」
深々とお詫びのお辞儀をするメア先輩。
「全然大丈夫ですよ。今思えばあれは叩かれてもしょうがないことをしてしまったんで気にしないでください。誤解も解けたし、すっきりできてホント良かったですよ」
ひとまず胸を撫で下ろす僕をよそに。メア先輩はテーブルに頬杖をつき、カウンター席の方に顔を向ける。
「私も一つすっきりできたし、良かったのかな……」と、とてもそうは見えない合点がいかぬ横顔を見せつつ、ぽつりと言う。
「え? 何かあったんですか?」
「ううん。こっちの話」と、顔を背けたまま先輩が口にした。
「あー……。教えてはくれないんですね」
「ねえ。それより――君が持ってるその胡桃、ちょっと見せて」
さらっと話を流し、メア先輩はこっちを見ながら片手を差し出す。
「へ? あ、はい」
一旦ズボンのポケットにしまっていた胡桃を取り出し、メア先輩の手の平に乗せる。先輩は胡桃を摘み取り、様々な角度から隈なく観察する。
「うーん……。確かに、あのとき私が拾った胡桃はコレよりもうちょっと小粒で丸かったし、色も黒くなってるとこがあったかなあ」
「全然信じてないじゃん……!」
誰だよこの人のこと人格者だって言った奴? 出てこいや。
「――で。結局、何が目的なの?」
本題に戻り。メア先輩は神妙な面持ちで再度同じ質問をぶつけてくる。
「目的っていうより、なんか気になっちゃって……。だってしょうがなくないですか? 流石に三日も連続であんな衝撃的な断り方を目撃したら気にしない方が無理ってもんですよ」
数秒の沈黙の後。メア先輩はテーブルに肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せる。そして。挑発的な笑みを僕に差し向ける。
「そっか――。君も、シーゼル王子とおんなじなんだね」
「? 同じって……?」
「私のこと、嘘吐きだと思ってるんでしょ?」
「……はい」
口角を意地悪な角度に保ったまま、メア先輩はけろっと一言「そっ」と、言葉を吐く。
「……もしかして、違うんですか?」
「違わないよ? 君が思ってる通り――私、嘘吐きだもん」
終始変わらぬ笑顔が逆に怖い……。
「なんて言うか……あんな嘘まで吐いて断る必要あったんですかね? きっと、チャラゴールドもオサレオサゲも、ラスボスだって、皆本気でメア先輩のこと――」
「ちょっと待って」言い終わらぬうちにメア先輩が困惑気味に手の平を突き出し、話を遮る。
「誰なの、その人たち? ――サーカス団か何かの人?」
不思議そうな顔をしてメア先輩は首を右に傾ける。
あっ、しまった。ついマイネーミングで呼んじゃった。
「ああ、いや……。あんな性別までも偽って断る必要あったのかなってちょっと思って」
「そう、だよね……」と、メア先輩は浮かない顔で返し、続けて言う。
「他に思いつかなかったとはいえ、もしアレを君以外の誰かに見られてたら、今頃確実に噂になってただろうし、そうなったら私の沽券が疑われる問題になってたかもね」
「そうっすね。沽券っていうか、メア先輩の股間が疑われる問題になってましたね」
「……何か言いましたか?」と、ジロリとメア先輩。
「いえ、なんでもございません……」と、引き攣って笑う僕。
ちなみに。ラスボスことポピーさんが気絶した後どうなったのか気になって尋ねたところ、あの後、目を覚ましたポピーさんはあまりのショックで自分が告白した後のことは全て覚えていなかったそうだ。なので『メア先輩の股間に二個玉事件』を知っている関係者は僕しかいないらしい。んなアホな……。
顔を曇らせたメア先輩は少し俯き、先ほどの疑問に答える。
「別に私だって、吐きたくて嘘吐いてるわけじゃないんだよ? でも普通に断っても皆推しが強くて全然諦めてくれないし……友情が壊れちゃうのはもう嫌だから…………。だから、その……気持ちが冷めるようなことを言えば諦めてくれるんじゃないかなって思って、思わず勢いで口から出ちゃって…………」
勢いで咄嗟にあれだけの量の嘘をペラペラと思いつけるってある意味すごい才能なのでは。
「だからってわざわざあんな大っきな嘘吐かなくても良かったんじゃ……? 後が大変っていうか、現に今、大変な目に遭ってるじゃないですか」
メア先輩はしょんぼりとして不平をもらす。
「じゃあどうすれば良かったって言うの?」
「うーん……。とりあえず、今からでも全部嘘でしたって正直に告白して謝ってみるのはどうですか?」
メア先輩はまた頬杖をつき、そっぽを向く。素っ気ない横顔を見せ、ぽつりと言う。
「……それなら嘘吐きのまま嫌われてた方がいい」
「先輩、子供っすか……」
メア先輩は流し目でチラッと一瞬だけ僕を見ると、若干ふて腐れた調子で弁明する。
「それに全部が全部嘘ってわけじゃないもん……。昔は男の子に声を掛けられるだけで怖かったから避けてたし、女子校に通ってたのもそれが理由だし、女の子といる方が今だって楽しいし、筋肉が好きなのは本当のことだもん」
「…………」
見たことがないメア先輩のいじけたような表情と喋り方が新鮮で、この人もこんな顔をするんだなって、天と地だと思っていた距離感が少し縮まったように思えた瞬間だった。
「まじで筋肉好きだったんですね」
メア先輩はこっちを向き、表情を明るく和らげて言う。
「うん。美しい筋肉を見るとね、どういうつき方をしているのかなって気になって、つい解剖してみたくなるんだよね」
「発想がサイコパスのそれ……ッ」
この人には何があってもメスを持たせてはいけない。ダメ。ゼッタイ。
「え? 変かな……?」眉を八の字にしてメア先輩が訊いてくる。
「それは他の人には絶対言わない方が良いですよ」
「う、うん……。もちろん、思うだけで本気でするつもりはないよ?」
メア先輩は少し気を落としたようで、恥ずかしそうに下を向いて言う。
「…………」
その様子に。何かフォローした方が良いのかな、なんて考えを巡らせていた最中、
「いらっしゃい」
「うわっ!?」
不意に。背後から嗄れた声で呼びかけられ、びっくりして振り返る。薄暗い背後から登場してきた白髪で小柄な糸目のおじいさんに僕が一人当惑していると、横からメア先輩が、
「マスター! お久しぶりです!」と、にこやかに挨拶する。
白いYシャツに黒のエプロン姿の、おそらくこの店のマスターであろうご老人は、まるで孫が会いに来てくれたかのように、朗らかに微笑み返す。
「来てくれたんだねぇメアちゃん。元気にしてたかい?」
メア先輩ははきはきと受け答えする。
「はい、もちろん。最近は来られなくてすいません。いつも通りにお邪魔させてもらってますけど、腰の調子はどうですか?」
「相変わらずだねぇ――はい、これサービスだよ」
マスターは両手で持っていたトレイの上からティーカップをそっと自分の前のテーブルに置く。すかさずにメア先輩がニコニコとして付け足す。
「ここ、初めて来た人にはコーヒー一杯無料で出してくれるの」
「あ……ありがとうございます」
「メアちゃんの分もあるからね」と、マスターはトレイに載っていたもう一つのティーカップをメア先輩の方に置く。
「え? 私も良いんですか?」と、メア先輩が嬉々として訊ねる。
「今日は特別サービスだよ」
「すいませんマスター。ありがたくいただきます」
人の良さそうな顔をしたマスターは綻んで頷く。次いで僕を見るなり申し訳なさげに言う。
「ろくにおもてなしもできなくてすまないねぇ。年々腰が悪くなってく一方で、ずっと立ってられなくてねぇ。お客さんがいないときは裏で休ませてもらってるんだよ」
「それは大変ですね……」
当たり障りのない僕の感想は秒で流れ、マスターはメア先輩をしみじみと見る。
「ここんとこ顔を見てなかったから寂しかったよメアちゃん。どうしてたんだい?」
苦笑をもらし、メア先輩は言う。
「あはは……ごめんなさい。最近は大通りにできたルトロヴァイユってカフェに通ってたんですけど、訳あってそのカフェにはもう二度と、金輪際、未来永劫に行けなくなったので今日からまたここに通うことにしますね」
「おや? 何かあったのかい?」
メア先輩はすこぶる笑顔でやけに誇張的に答える。
「ううん。ぜーっんぜんっ、これっぽっちも大したことじゃないんで大丈夫です」
…………。これ、絶対根に持ってるよね?
「大したことを仕出かしてしまい大変申し訳ありませんでした……」
僕の謝罪に。メア先輩がニッコニコでわざとらしく微笑みかけてくる。
「どうして謝るの? 別に、ぜええんっぜんっ、怒ってなんてないんだから」
「なぜだろう……全然に込められた怨嗟の声が聞こえてくる……」
実際問題。メア先輩がシーゼル先輩と舌戦で火花を散らしていた辺りから既に結構注目されてた気がするんだけどな……。
久しぶりの再会に二人の会話が弾む。
「メアちゃんが誰かを連れてくるのは初めてだねぇ。――もしかして、彼氏かい?」
「彼氏なんていないですよ。今日知り合ったばかりの後輩です」と、簡潔に答えるメア先輩。
「ほうほう。――その割には随分と仲良さげだねぇ」
「そうですか? たぶん色々あり過ぎて気を遣う方が馬鹿馬鹿しいだけです」と、メア先輩。
「はっはっは。それはさぞかし出会い方が悪かったんだろうねぇ。――イタタタ……ッ」
どうやら笑った拍子に腰を痛めたらしく、マスターは顔を歪め屈めた腰に手を当てる。
「大丈夫? マスター」と、メア先輩が瞬時に立ち上がりマスターの傍に寄り添う。
マスターの背中に手を回し労りつつも優しく声を掛ける。
「私たちのことはいいから裏で安静にしててください」
マスターが苦痛を忍ばせた表情でメア先輩を見上げる。
「すまないねぇ……。そうさせてもらうとするよ」
メア先輩の行動に感化され、僕もできることを探す。
「なんなら裏まで付き添いましょうか?」
マスターはにんまりと笑う。
「そこまでしてもらわなくても大丈夫じゃよ。何かあったら裏にいるから呼んでおくれ」
「私たちももう少しだけお話ししたら帰りますんで気に掛けなくて大丈夫ですよ」
「そうかい……。お構いできず申し訳ないねぇ。それじゃ、二人ともゆっくり寛いでってね」
「「ありがとうございます」」と、メア先輩と僕が同時にハモる。
腰を擦りながらよちよちと裏へ引き返すマスターの背中を、メア先輩と一緒に見送る。
「マスター、いい人ですね」と、僕が言うと、横で手を振っていたメア先輩が「でしょ」と、嬉しそうに答える。
メア先輩が席に戻るのを見計らって、幾分緊張も解けてきた僕は、他に客もいない静かな喫茶店で先輩とじっくり話ができる、という神が与えたもうたこの恩恵の一時に舞い上がって、つい質問ばかりしてしまう。
「メア先輩はどうして早期卒業がしたいんですか? そんなに早く医術技師になりたいんですか?」
メア先輩が目指している医術技師とは、エーテルリアクターなどエーテルを媒介するための医療器具の研究や開発を行う専門職だ。エーテル学、医学、生理学、工学、材料学、そして薬機法に関する理解等……様々な分野の幅広い知識が必要とされる謂わばエーテル関連職の業界におけるエリートコースと言ってもいい。
医術技師になるには医術工学の学士課程を修了し国家試験の受験資格を得た後に合格する必要がある。ただ、学士課程修了後にストレートで国家試験に合格するのは難しいとされているレベルなので、さらに二年間学び修士号を取得してから国家試験に臨む方が一般的だ。
つまりは、多くの人が六年かけるところをメア先輩は半分の三年でやろうとしている、ということになる。
メア先輩は少し照れくさそうに頬を掻く。
「んぅー……言うのちょこっと恥ずかしいんだけど……」
と、前振りを置いてから続ける。
「私ね、小さい頃、勇者に憧れてたの」
「へ?」
何を言い出すかと思えば……勇者? 確かに、先輩は数多の恋心を……ってその話はもういっか。
要領を得ず首を捻る僕に。メア先輩は滔々《とうとう》と語る。
「まあ勇者じゃなくてもいいんだけど、何か一つ偉業を成し遂げてみたいなって思ったのがきっかけかな。立派に成長した自分の姿をお父さんとお母さんに見せてあげたくて。子供の頃から医療に携わる仕事がしたいって思ってたのもあるんだけど、業界トップの医術技師になれたら両親も自慢の娘だって誇ってもらえるかなって」
唖然とした感想が僕の口を衝いて出る。
「……それだけのために?」
「そっ。それだけのため。――それじゃダメ?」
そう言って。メア先輩はティーカップを手に取り、垂れた横髪を耳に掛けながら優雅にコーヒーに口を付ける。
「いや……」
早期卒業するからにはすぐにでも医術技師としてその先に何かやりたい目標があるのかと思ってたけど、あくまで両親を喜ばせるためのものだったとは……。たったそれだけのためにメア先輩のように全てを勉強に捧げるような努力ができるだろうか。……僕には到底無理だ。
「――両親のことが好きなんですね」
ティーカップを置き、メア先輩は満面の笑みで言う。
「うん、二人とも大好き。――君は? 好きじゃないの?」
「……好き、でした」
メア先輩はきょとんとした顔を浮かべる。
「でした? 今は?」
「もちろん、今でも。うちは子供の頃に母が病気で亡くなって、それ以来父と二人っきりでなんとか乗り越えてきたんで、その分よその家族よりも結束は強い気がします」
すぐに申し訳なさそうに表情を曇らせ、メア先輩は俯きがちに口を開く。
「ごめんなさい……。嫌なこと訊いちゃったね、私……」
僕は首を横に振って答える。
「いえ。もう十年以上も昔のことなんで今さらどうってことないですよ」
メア先輩は、まるで免罪符でも得たかのように少し身を乗り出してテーブルの上に両腕を組んで置き、頬を緩め興味ありげな顔をして訊いてくる。
「ねえ――嫌じゃなければ、君のお母さんってどんな人だったのか、教えてほしいな」
「うーん、五歳までの想い出しかないですけど……。のんびりっていうか、ちょっとマイペースな人で、記憶の中の母はいつもどんなときも笑顔を絶やさない人でした。『大丈夫、大丈夫』が口癖で、僕が落ち込んでるときもいつもそう言って頭を撫でてくれて、それが嬉しかった記憶があります」
「――ふふっ」
僕の話を真面目に聞いていたメア先輩が不意に笑みを零す。
「な、何ですか……?」
メア先輩は、ううん、と首を横に振りながら、にんまりと言う。
「君の表情を見てたら自然と分かっちゃうなあ。私の勝手なイメージなんだけど、きっとのどかで、でも少し抜けてるところもあって、愛嬌のある明るい素敵なお母さんだったんだろうなって。――愛されてたんだね」
見透かされたようで妙に小っ恥ずかしい思いをしたからか、それとも、そんな賛辞をほぼ初対面の相手に恥ずかしげもなく真っ直ぐに言えるメア先輩が眩しかったのか。なんだか照れ臭くて僕は後頭部を擦る。
「そんなに顔に出てましたかね……? あんまり見ないでやってください」
「何で? 良い顔してたよ?」
「もう……勘弁してくださいよ」
堪らず視界に入ったティーカップに逃げて口をつける。……まあ、コーヒーの味なんてさっぱり分からないけれど。
…………。コーヒーを一口啜りながら『こんなに会話が弾むとは思わなかったな』と、ふと思う。
この人とは会話のリズムというか、ペースが合っててなんだか話しやすい。会話していると自然と引き込まれて二つの空気が一つに混ざり合ったかの一体感が不思議と芽生えてくる。とても今日知り合ったばかりとは思えない。昔から知っているような……元から知っていたような……妙に心地良くて落ち着く、そんな距離感の空気に満たされていく。……ちょっと得した気分。
カップをテーブルに戻したタイミングで、
「――なんだか不思議な感じだね」と、メア先輩がしみじみと言う。
またも見透かされた気がして口からポロッと「え?」と零れた。
「君とこうやって話すのは今日が初めてなのに、なんでか初めてじゃない気がする。――もしかして、前にどこかで会ってたりして?」
「……僕も、まったく同じこと考えてました」
それを聞いて。くだけた調子でメア先輩が悪戯っぽく微笑む。
「えー、ホント? テレパシーってやつ?」
すっかり打ち解けた雰囲気に。触れていいものか考えあぐねていた話題を切り出すことにした。
「そういえば先輩――」
「ん? 何?」
「シーゼル先輩にデートに誘われてましたよね。あんまり乗り気じゃなさそうでしたけど、行くの嫌なんですか?」
メア先輩は顎杖をつき、少し両目を細め訝る視線を僕に送る。
「やっぱり聞いてたんだ? ふーん……、何? ひょっとして気になっちゃう?」
碧い瞳が、僕を試すかのような眼差しで、じっと見つめてくる。
「あ、いや。別にそういうつもりじゃ……」
「そういうってどういうつもり?」
「それはなんていうか、その……先輩に気が――」
あるとかじゃないんで、と言い切る前に。メア先輩が機先を制して声を上げる。
「あ! 分かった! そういうことかぁ~」
ハテナ顔を浮かべる僕に。なるほど、といったにやけ顔で、メア先輩が言う。
「あれでしょ? ――シーゼル王子のこと狙ってるんでしょ?」
なにやら急激に体感温度が下がった僕はすぐには答えずに、ティーカップを手に取りゆっくりとコーヒーを一口味わう。体が温まるのを感じてから、一言もの申す。
「あの、今すぐ吐いてもいいですか?」
「お客様、お手洗いはあちらでございまーす」
僕の後方、店の奥手側を手の平で示しながら、ニコニコなメア先輩に声高に接客される。
「言っとくけどそっちの気はないっすよ。ってかそうじゃなくて……。ルトロヴァイユで声掛けたときに暗い顔してたじゃないですか」
「んー? そうだっけ?」
視線を斜め上に逸らしながら立てた人差し指を頬に当て冗談っぽく首を傾げるメア先輩に、一々、そうでしたよ、と肯定させるのもなんだかめんどくさかったので、流して話を進める。「だからそれほどまでに行きたくないんだなって思って。王子とひそひそと話してたし何か嫌なことでも言われたりしたんじゃないかって、ちょっと心配になっただけで他意はないです。もちろん困ってることがあるなら、僕で良ければ協力しますけど」
そう言うと。僕の顔に何かついてるのかと疑うくらいに、メア先輩から凝視される。その表情は何やら思慮しているような顔つきだったが、やがて、口を開く。
「…………。君ってよく、お人好し、とか、余計なお節介だ、って言われない?」
「まあ……こっちに出てきてからは何回か」
「こっち?」
「あ、自分モルデンとの国境沿いの山奥にあるラズリンドっていう片田舎の出身なんで、クリスティアに通うために上京してきたんですよ」
「へぇー。あんな遠くのモルダ山岳地帯の方から来たんだ? この辺じゃ秘境って呼ばれてる場所だけど人が住んでる地域もあるんだね」
「南西の外れの方にあるんですけど、人口三百人ぽっちの何にもない辺鄙な村なんで知らなくても無理はないですね」
メア先輩は目元を和らげ、ぽつりと「なるほどね……」と呟いた後、朗らかに言う。
「きっと君は、そうやって幼い頃から周りの少ない人たちと協力して助け合って生きてきたんだね。その経験が今の君の優しさに繋がってるのかな」
「――――ッ」
たびたび。先輩が発揮する本心かあざとさか分からない魔性の魅力に不意打ちをくらい、やけに鼓動が忙しくなる。――わざとか? わざとやってんのか!? これも全部演技で嘘とかじゃないよな……?
「……困ってる人がいたら助けるのは普通のことだと思うんですけど」
「そうするのが当然だと思っても行動に移せない人の方が案外多いと思うけどなあ」
「そう……ですかね? でも先輩だって、ポピーさんの男性恐怖症の克服に協力しようとしてたじゃないですか」
「そりゃ誰だってあんな話聞いたらなんとかしてあげたい気持ちになるよ。私も……昔のこと思い出しちゃったし尚更ね」
昔のこと……。――心に古傷がある身としては気になるワードだ。
「訊いてもいいことだったらでいいんですけど、昔に何かあったんですか?」
嫌な記憶を想起して物憂げな気分になったのか、メア先輩の表情が陰鬱としたものへと変わる。重い調子で話し始める。
「……女学院時代にちょっとね。二年に上がったばかりの頃だったんだけど、あの頃はまだ男の子にしつこく迫られたり、求められたりするのが怖くて、ずっと男の人を避けて生活してたの。でも、その頃から登下校のときに誰かに跡を付けられているような違和感があって……所謂ストーカーだったんだけどね。最初は気のせいかなって思い過ごしてたんだけど、ある日の夜、そのストーカーだった中年の男が人気のない路地で待ち伏せしてて、ハサミを取り出して『君の髪の毛が欲しい』って言って走って追いかけてきたの。怖くて必死に逃げたんだけど行き止まりに追い込まれちゃって……ストーカーが目の前まで来て、髪の毛掴まれて……もうダメだって思ったんだけど…………そしたらクラスメイトの子が助けに来てくれてさ、そのストーカーを華麗に蹴り飛ばして追い払ってくれたんだ」
そこまで話すと。メア先輩は明るく努めて笑顔を繕う。
「――とまあ、大体そんな感じで、その後助けてくれた子から言われた一言がきっかけで男性に対する恐怖を克服できたんだけど、きっとあの言葉がなかったら今でも私は男性恐怖症のままだったと思う」
「…………」
野暮なことかもしれないけど……でもなんとなく、訊いてほしいと言われている気がした。
「何て、言われたんですか?」
「それは……」
メア先輩は懐かしむように口元を緩め、立てた人差し指を唇に当てて答える。
「その子との大切な想い出だから二人だけの秘密にしておきたいんだ」
「えぇ……。いやまあ、無理にとは訊けないんで別にいいんですけど……」
訊いたのは僕だけど話が脱線して空気が少ししんみりとしてしまったからか、
「――で、何の話してたんだっけ?」と、メア先輩は考える素振りをした後、「あーそうそう、君がお人好しかどうかって話ね」と、陽気な声にシフトチェンジして話題を戻す。
「んー、そうするのが当たり前の環境だったんで都会の人からはズレて見えるかもですね」
僕がそう言うと、「ふむ……」とメア先輩は品定めするかのような目つきで僕を凝視する。
「……ねぇ。君って一人暮らし? それともシェアとかしてるの?」
「いえ一人ですけど」
「家からクリスティアまでどれくらい?」
「自転車で三十分ぐらいですかね」
「間取りは? スタジオ?」
「はい。そうです」
「エアコンあるよね?」
「もちろん、ありますけど……」
「身長は――百七十ぐらいだよね。体重は?」
「えっと、こないだ量ったときは五十八ぐらいだったような」
「んー、結構細身だなぁ……。そのTシャツのサイズいくつ?」
「え? Mかな。――てかどうしたんですか? 急に質問攻めじゃないですか」
「…………」
再度。黙って僕を見つめるメア先輩。クリスティア随一の秀才である彼女が何を考えているのかはその真剣な表情からは読み取れないが、無言でじっと見つめられるのはそれなりに怖い。
「メア先輩……?」
沈黙の間。チクタクと響く時計の歯車が心音とともに進む。その内、段々と心音が歯車の周期より早くなってきた辺りで。メア先輩は「じゃあ」と口を開き、テーブルに少し身を乗り出して顎杖をつく。首を傾け、斜め上、上目遣い気味に僕を見て、続けて言う。
「それが当たり前だって言うなら――君に助けてもらっちゃおっかな?」
それは……。天使の破顔か、はたまた悪魔の戯笑か。どちらにせよ、無邪気に満面の作り笑顔を浮かべるメア先輩が、淡い斜陽に包まれ透明感の増した肌と髪から煌めく粒子を振り撒くさまに目が焼き付いて、思考回路が焼き切れた僕はろくに考えもせずに、
「ああ……はい」
と、恍然と頷いてしまった。……このときの判断を後で悔やむことになるとは露程も思いもせずに。
空返事もいいところだったが、メア先輩は嬉しそうに両手を合わせる。
「ホント? ありがと!」
「え……。あ、えっと……具体的には何を協力すれば?」
何やら妖艶な笑みを見せつけ、メア先輩が答える。
「ふふっ。それはまだ内緒。でも協力してくれるなら、お礼に私のできる範囲で君のお願い一つだけ聞いてあげる」
そう言った直後に、「あ、エロ方面は禁止だからね」と、人差し指を立ててキリっと真顔で忠告される。
「え!? いやっ、そんなつもりは……っ」
危うく想像しかけて焦ったのを見抜かれたのか、メア先輩は自信たっぷりと勝ち気な笑みを浮かべる。男心を擽る刺激が強すぎるその国宝級の微笑みを引っ提げ小悪魔的に首を傾げた彼女が、僕を籠絡せんと誘惑する。
「――どう? 私と契約してみない?」
「契、やく……」
突然の申し出だったが……正直、願ってもない機会に心が躍った。勉強漬けの灰色の夏休みになるもんだと思っていた予定が、一転して夏っぽい青春を満喫できる輝かしいものに変わるやもしれない。……かなり魅力的な申し出だ。
メア先輩がしてくれそうな範囲で夢のような体験ができるお願いは何か、ここぞとばかりに煩悩をフル回転させ真剣に思案すること数秒――、答えが出る。
「だったら…………一つ、メア先輩に頼みたいことがあります」
反対側に小首を傾げ、メア先輩が笑顔で応えてくれる。
「ん? 何? 何でも言って」
「……実は――」
僕がお願いを告げると、メア先輩はきょとんとして言う。
「え? そんなことでいいの?」
「はい。これがメア先輩にお願いできる範囲で最も有効な使い方だと思うので」
メア先輩もまたその類い稀なる頭脳を用いてこの契約の利害を打算していそうな思案顔を浮かべていたが、すぐに、
「――うん。君がそれでいいならもちろん構わないよ」
そう言って。小指だけ立てた手を、僕の方に差し伸べる。
「じゃあ契約成立だね」
「――はい。よろしくお願いします」
僕も微笑んで。差し出されたメア先輩の小指に、自分の小指を絡ませる。
こうして。夏休みを目前にしてチェチャで連絡先を交換し合ったメア先輩と僕の間に、奇妙な同盟関係が結ばれることになった。




