【5-4】
――そこで。メアの回想は途切れた。
ただ唖然として。自分の口が無意識に開閉する。
「八月、九日……、…………」
僕の誕生日かつ、デッドロータスシンドロームを発症した日で……、母の命日でもあって……、そこに新たに……メアが一度死亡した日が加わった…………。
……単なる偶然じゃない。もう……頭では分かりきってはいるが、心が……まだ真実を認めるのを拒絶している。
「デッドロータスシンドロームなんて病は初めからこの世に存在しなかったの……。全ては、あの悪魔の仕業だったの…………」
答え合わせをするかのように。メアは結論付けた。
病死ではなく、他殺――。心臓が破裂したのではなく…………悪魔によって奪われた。
根底から覆される歴史的発見――のはずだが……、こんな非科学的な結論誰も信じないし、僕だって……信じたくない。
僕の背に回されたメアの手が、いつもの仕草で彼女の胸元を伝っていき……心臓の位置に置かれる。お互いの胸の狭間で――幾度も見てきた、彼女が不安なときにやる手癖――固く拳を握り締める動きをする。
「分かるでしょ? 今もね……、ずっと、心臓が内側から私の胸を叩いて叫んでるの……。ここだよって、ここから出してって……。……君のもとに……っ、帰りたいって…………っ」
僕は、その手癖の意味を…………ようやくもって理解した。
彼女が嬉しそうにしているとき僕も胸が躍るのは……、彼女が悲しそうにしているとき僕も胸が痛むのは…………、僕らの心臓が、繋がっている、せい…………。
言葉も出ない衝撃で黙り込む僕を……メアの魂から決壊した激情が濁流となって呑み込んでいく。
「クリスティアで君を初めて見た瞬間からずっと、この子が君に気づいて欲しくて何度も何度も、私の胸を叩いてSOSを出してたのに……。私はそれを……恋してるんじゃないかって勘違いして、一喜一憂してたの…………。ひどい奴だよね……」
ドキドキの正体は――メアの……元は僕のものだった心臓が発していた悲鳴。メアという肉体の檻に閉じ込められた、もう一方の心臓が助けて欲しくて叫んでいた呼び声――。恋かどうかなんて……そんな甘っちょろいもんじゃなかったんだ。
「恋じゃなかった。恋なんかじゃなかった……。私のせいで君の人生はめちゃくちゃで、私の幸福は君の不幸の上に成り立ってる」
「…………」
そんなことはない、と言ってあげるべきだろうか。……そんなことは……あるのに……。
「……ッ。ここのところね……。毎晩決まって同じ夢を見るの……」
と息を詰まらせながら、メアは言った。
「たぶん、この子が覚えてる幼い頃の……君の想い出の夢。君の母さんがいた頃の、二人が幸せだったときの夢……。一緒に野原で虫取りしたり、追いかけっこしたり、ピクニックしたり……笑ってない時間なんてないくらいの幸せそうな時間。でも……。いつもその夢の途中で……急に胸が締め付けられるように痛くなって、夜中に目が覚めるの…………」
声を殺しつつ――喉奥に詰まっていた感情を僕に吐き出す。
「ああ……。私が全部、壊しちゃったんだって…………」
――記憶転移……。ドナー(臓器提供者)の記憶がレシピエント(移植患者)に引き継がれる、という時たま起こる世にも不可思議な現象を話には聞いたことがある。確かに……。大分色褪せてしまったが、僕の記憶にも残っている母との数少ない思い出だ……。
今なお、彼女の目の下に残るクマが物語っている。……二日、三日の話じゃない。少なくても二週間以上も前から悪夢に苛まれていたんだ。あのとき、もっと寄り添ってあげられてたら……何かが変わっていたのだろうか。
「今年に入ってから……お医者さんから睡眠薬や精神安定剤も処方してもらってたんだけど、あんまり効かなくてさ……。あはは……」
乾いた笑いを織り交ぜ……壊れていく。いや……とっくに壊れていたんだ。メアも、僕も……もう、元には戻らない。
「せめてもの罪滅ぼしで……君を進級させるって約束だけは果たしたかった。それが終わったら……全部、終わりにしようって…………」
……終わりってなんだよ。勝手に一人で全部背負い込んで、僕に黙ったまま……秘密にしたまま…………死ぬつもりだったのかよ。
「君を殺したのは私」と、言葉のナイフで僕の胸を刺す。
「……やめろ」
「君のお母さんを死なせたのも私」と、容赦なくまた突き立てる。
「やめろ……っ」
「だからもう……こんなこと早く終わりにしなくちゃ……。私はこの世にいちゃいけない、異分子なんだから」
「やめろって言ってんだろ……!!」
何で……、そんなこと言うんだ……? 僕には深い想い出だったのに……。異境の地で辛かった母の死の記憶を唯一話せて受け止めてくれた相手なのに…………。
これまで辛酸しか生み出さなかった記憶から芽生えた、魂の片割れを見つけられたような……絆を感じられたあの尊い時間が…………。
せっかく、大切に胸にしまっておいたのに……。これ以上……壊さないでくれよ…………。
「もう、うんざりだ……」と、僕の口を衝いて出る。
「…………」
短い沈黙の後。メアは面を上げ、切々たる眼差しでこちらを見つめる。
「ねえ――君は私のこと、好き?」
最も訊かれたくない最悪なタイミングで、悪魔な彼女が僕に問う。
「………………」
自分でも不思議に思うくらい何も感情が湧いてこない。……心の古傷をナイフで抉り取られているのに、だ。……何も感じない。感じられない…………。
『メアが悪魔と契約しなければ』という憤りも、『僕の心臓と母さんを返せ』という復讐心も、『加害者のくせによく僕の前で平然と笑っていられたな』という憎悪も、『お前の所為で母さんは死んだのにどうしてまだのうのうと生きてるんだ』という天罰を請う気持ちも……悲しいほどに、何も…………。生まれてくるはずの激情のうねりを遥か遠くに置き去りにしてきてしまった。
彼女を憎むには……僕はメアという一個人に過度に深入りしすぎてしまった。僕に刻み込まれた彼女とともに過ごした一年にも満たない日々はどれも七色の煌めきに満ちていて……僕が自ら刻みつけた母を失ってからの約十五年分のモノクロな人生を優に超えている。
だからか。こんな絶望的状況でも嫌になるくらい心は冷静で……。初めからこの答えの選択肢が一択しか用意されていないことに否応なく気づかされる。突き付けてくる無慈悲な現実を黙らせるかの如く胸のビートが荒ぶる。
もし……。もしここで。本当の気持ちを彼女に伝えたら……恋の呪いを課せられた彼女の魂は一体どうなってしまうんだろう。…………。
笑って気持ちに応えてくれるのだろうか。照れ臭そうに俯いて『……私も好きだよ』と言ってくれるのだろうか。嬉しさのあまりオーバーに涙を流してくれたりして…………。
――ああ、良いなあ……。そうだったら……、そうだったら良かったのに…………。
「好きになるわけ……なれるわけ、ないだろ…………」
面と向かってそう言い放った直後に、急激に訪れるズキズキとした胸の痛み。……思わず、心臓を押さえたくなった手で虚空を握り締める。
この疼痛はどこからやって来るのか……。諦念せざるを得ない僕のやるせなさがそうさせるのか、それともただ懺悔するしかできない彼女の無念がそうさせるのか……。この痛みが僕のものなのか、彼女のものなのか、最早……判別すらつかない。
僕の返事に。メアは『だよね』といった、くたびれた笑顔を浮かべた。予め分かりきっていたかの答えを予定調和に返す。
「……うん。知ってた」
自分に言い聞かせるかのように、「もう……いいよね?」と、か細い声で言い零すと、
「これまでずっと、一人で頑張ってきたんだもん。もう……どうなってもいいや」
心臓に手を宛てがった彼女は……胸の内を言葉にする。
「――ごめんね、やっぱり自分の気持ちに嘘は吐けないよ……。私は君が好き。もう自分じゃどうにもできないくらいに……。この子が壊れちゃうくらいに…………君が好きなんだよ」
生涯初めての――、最期の――告白をする。
全てを手放したかのように、死を受け入れたかのように……哀愁緩やかにやんわりと、僕に微笑みかける。
「…………ッ」
――言葉にならない感情が押し寄せてくる。直視なんてとてもできず……俯きながら、首を横に振りながら……そっと、彼女の両肩を掴み遠ざける。ただギリギリと奥歯を噛み締めることしかできない。声を殺すことしか…………僕にはできない。
でも。それも長くは続かず……。
「――ゴホッ、ゴホゴホ……ッ」
急にメアが咳き込み出したので思わずそちらを見る。背を丸め口元を両手で押さえていたメアが口から手を離すと――その手の平が真っ赤に染まっていた。
唖然とした表情をこちらに向けた彼女の――口の端から、つぅーっと血が滴り落ちる。
「……っ、そんな……」
言葉を失う。これが……恋の呪い。輪廻から外れた魂が世の理を騙し続けてきた代償、なのか……。魂を取られぬように恋心を偽り続けてきた嘘吐きの成れの果て、とでも言うのか…………。
「しょうが……ゴホッゴホ……ッ。ない、よ……」と、
メアは血を吐き出しながら……病衣に血痕を飛び散らせながら…………力なく笑った。
そのままぐったりと横向きに、僕の胸にもたれ掛かった。なんとかメアの体を支えるも、彼女を抱きしめるだけで、ドンッドンッドンッ、と異常な強さで心臓がノックする。とても
心臓が発していい音じゃないその振動で、全身が波打つくらいに、張り裂けてしまいそうな勢いで内側から蹴飛ばしてくる。……どうしようもなく、痛い…………。
「もうね……、ダメなんだ……。これが今の……私の気持ち…………」
早鐘を打つ僕の胸に耳を当て――心音が警報を鳴動させるのを聞きながら、虚ろげに言う。
合わせ鏡の鼓動に嘘偽りもなく……左右の心音はどこまでいってもモノラル音源。
でも……。その一方が今――尽きようとしている。
「これは……。私が、自ぶんに、下した……。天ばつ、なんだから……。みがわり、なんて……バカなマネは……やめて、よね……?」
段々と掠れていく声で――忠告される。
「…………ッ」
メアの肩に回した手が……自然と力む。
どうして……、どうしてメアなんだ……? メアが悪魔と契約したからか? ――だが、そもそもその契約がなければ僕らは出会えてすらいない。メアじゃなければ……彼女が普通の、同じカレッジに通う同い年の、面倒見の良い上級生だったらどんなに良かったことか。
メアも、僕も……普通に生きられたら、きっと未来は違っていた。普通に出会って、普通に恋をして……普通に映画館デートしたり、普通にお互いの家を行き来したり……、普通にお泊まりしたり、普通に愛し合ったり…………。そんな青春に満ちたカレッジライフだったら、こんなに苦しまずに済んだのに――。
せめて……。せめて彼女だけでもいい。――普通に生きて欲しい。
メアは……この決断を恨むだろうか。
普通じゃない僕にできることは一つ。
彼女が死ななくていい方法は――一つだけ。
――あなたも、いつか……じぶんよりも、たいせつなものと……であう、ひがくる……。そのときが、きたら……そのきもちを……まもれる、こに…………なって……ね…………――
母さん――。やっとその意味が僕にも分かったよ。ついに母さんとの約束を果たすときが来たんだ。あのとき、母さんもきっとこんな気持ちだったんだな……。
僕に何があっても――メアを助ける。
ぐったりと首をもたげたメアの頬に手を添え――顔をこちらに向けさせる。
「…………」
僅かに見開かれた虚ろな目が……今にも光りを閉ざそうとしている。
――これからする方法をメアは知らない。
彼女の唇に――ゆっくりと自分の唇を重ねる。彼女の唇を染める血を――体内に取り込む。
その瞬間。
「――――ッ」
アーシュのときと同じく。全身が自分のものじゃないみたいに燃え上がる感覚。
……間違いない、あのときと一緒だ。僕の全身を灰色のオーラが包み込んでいる。そして。僕の胸の中心からロープみたいに伸びた一筋の光が、メアの胸の中心に繋がっていく。
ちょうどその繋がっている部分で黒炎が……奇妙な記号の羅列とともに渦巻いている。
……おそらく、これがメアに課せられた恋の呪いだという、魂の契約。
僕の手から溢れ出る灰色の炎のオーラを、その渦巻く黒炎に当てる。オーラと黒炎がせめぎ合う――が、やがて黒炎を呑み込んで吸収していく。
手を離すとたちまち。メアの胸の中心から、オーロラのような淡いエーテルの光、ルミナスが溢れ出すも――ものの数秒で光は消え去った。
重く閉じたメアの瞼が――ゆっくりと一度、はっきりと二度三度、瞬いた。
「え……?」と、驚きの声をもらす。
自身の胸に手を宛てがい――がばっと起き上がる。
「なんとも…………ない?」
すかさず。メアが僕を見た途端――僕の胸の内がみるみると熱くなっていく。込み上げてくるものを必死に押し込めようとしている彼女の心の葛藤が……手に取るように分かる。
事の成り行きを察して。目に涙を溜め下唇を噛みしめるメアに、
「……そんな顔するなよ」
微笑んでは気丈に振る舞う。
――これは僕が望んでやったことだから。君が死なずにいてくれたら……もうそれでいい。
「――ゴハ……ッ」
食道から溢れてきた血を吐き出す。……反動が来たみたいだ。
意識と体の制御を失い、だらりとメアの肩にもたれ掛かる。狭まっていく視界の中で――最期に伝えられる言葉を探す。
「ごめん……。メアの誕生日お祝いするって約束……守れそうにないや……。ちょっと早いけど……これが僕からの誕生日プレゼントってことに……しといてくれないか……」
僕の体に押されながら、抱き止めたメアが嗚咽交じりに首を横に振る。
「やだよ……。こんな……、こんなの……っ、受け取れないよ……っ」
メアを縛る枷は……もうどこにもない。僕が……全部持っていく。これが、僕を落第させずに進級まで導いてくれた恩人への――恩返しってことで……。
「これからは……自由に生きていいんだ。勉強だけしなくても……いいんだ……。やりたいことやって……無駄に時間使ったって、いいんだ……。好きに恋したって、いいんだ……。もし、いいあい手が、できたら…………ぼくにも、紹かい、してくれ……、…………」
思考が奪われていく……。もう……限界だ――――。
「――――!? ――――!!」
…………。メアが何か言ってるけど……もう、分かんないや…………。
「ああ……、よか……った…………」
君を憎まずに済めて――。好きに――なれ――て――。――――。




