【5-1】
近くにあるクリスティアの提携病院に搬送される間も、とにかく頭がパニックで救急隊員の方に指摘されるまで自分が過呼吸になっているのすら気づかなかった。
救急車が来てからたったの五分で、何度も目の前を通ったことがある十階建て以上の大きな病院に到着した。降り始めた雨が屋根を打ち付ける中、救急専用入口から入る。
呼吸はあるが意識のないメアはストレッチャーに乗せられたまま処置室に運ばれていった。診療が終わるまでの間、僕は近くの待合室で待機となった。
傍にあった深緑の座席に腰掛ける。……こんなにも落ち着かないシートは初めてだ。
襲い来る不安と戦いながら座って待っているだけの時間が焦燥感を募らせる。緊張しっぱなしだったからか、虚脱感に見舞われ自然と前屈みになり、顔面を両手で覆う。
「…………」
どうしてこんなことになったんだ……。想像では今頃お互いに目標を達成できたことを喜び合い祝賀会でも開いていたはずなのに……。盛り上がって良い雰囲気になったところでメアに告白するつもりが……もうそれどころのムードじゃない。
「退学って何だよ……」
気づけばぽつりと、そう口走っていた。
本当なら状況的に退学しててもおかしくなかったのは僕であって決してメアじゃなかった。あんなにいつも早期卒業を目標にして勉強に専念していたのに……どこで道を踏み外してしまったんだろう。
言われてみれば少し前から調子が悪そうな予兆はあったけど、二週間前まではまだここまでひどくなかった。僕の勉強を手伝うのが彼女の負担になってここまで病んでしまったのなら、責任は僕にある。なんとかしなきゃ……。彼女が目を覚ましたらもう一度ちゃんと話を聞こう。
顔を覆ったまま、モヤモヤとこれからどうするべきかを何十分もの間考えている内に――。
「君が……メアを助けてくれたのかい?」と、
上から張り詰めた様子の声が聞こえてきた。
見上げてみれば――考えに耽るあまり全然気づかなかったが、黒縁眼鏡をかけた栗毛色の短髪オールバックの、中年よりは若く見える男性がすぐ傍に立っていた。慌ててすっ飛んで来たのか髪も若干乱れており、普段はくっきりとした目が印象的な端正な顔立ちが、見る影もなく焦燥感に満ちた表情でこちらを見ていた。
黒のセーターと紺のジャケット、セーターの襟元にはYシャツとネクタイが覗いている。下はグレーのチェック柄のスラックスと革靴、外套としてダークブラウンのトレンチコートを羽織っている。
「……クレールさん……」
考えることに疲れて……漠然と、ただ目の前に映った人物を見上げ、その名を呼んだ。
メアの父親でもある人が不思議そうに顔を顰める。
「おや……? どうして僕の名を?」
顎を擦りながら怪訝そうに僕の顔を覗き込み……ハッとした顔になる。
「あれ――? ひょっとして、君…………クゥちゃんかい?」
正体がバレたのに焦る気持ちが砂粒一つもない。自分の心がそれどころじゃないと訴えている。
嘘を突き通す余力もなく白状する。
「……はい、お久しぶりです。あのときはその……、騙してすいませんでした……」
立って謝罪するべきだったかもしれないが、立ち上がる意欲も湧かずその場でうなだれるように頭を下げた。
何を言われても仕方ないと思ったが……切羽詰まった様子のクレールさんも焦る気持ちは同様みたいで、しかと僕の目を見て言う。
「……とりあえず、その件は一旦後にしてくれるかい。先にメアの容体を教えて欲しい」
と言われても……。現時点で分かっているのは一つだけだ。
「今も意識がなくて脈拍が安定していないみたいです。それ以上のことはまだ何も……」
聞いた傍から。
「…………っ。そうかい……」
クレールさんの表情がより暗澹としたものに変わる。両手の拳を握り締める仕草に……動揺の色が見て取れる。
ちょうどそこへ――診療を終えたらしく処置室側の扉から男性の医師が出てきた。オペ着姿の医師がこちらに向かってくるのが見え、僕が立ち上がるよりも素早く、真っ先にクレールさんが駆け寄っていく。
「すいません、メアの父親です。――あの子は……大丈夫なんでしょうか?」
緊迫したクレールさんの表情を見て。医師は少しばかり決まりが悪そうに説明する。
「お父様ですか……。確かなことは言えないのですが、おそらく倒れた原因は頻脈性不整脈の可能性が高いかと。一時的に脈拍が速くなりすぎて気を失ったんだと思います。薬を投与したので今は心拍、脈拍ともに安定しています」
その言葉に。ひとまず、命の危険はないと分かり僕は一安心したけれど、
「不整脈、ですか……」
クレールさんの表情はむしろ強張った。
その表情から医師も何かを感じ取ったのか、質問をする。
「メアさんは元々持病か何かお持ちで?」
思い当たる節があるのか――少し考える間を空けてから、クレールさんは答える。
「あの子は生まれつき心臓が弱かったんですが……それも随分昔に完治したので特に持病と呼べるものは今はありません」
「その完治したというのはいつ頃の話ですか?」と、再度質問する医師に、
「メアが五歳のときなので――十五年くらい前です」と、クレールさんが受け答える。
「うーん……」と何やら思量する様子で医師は唸ってから続ける。
「その線も一応視野に入れておいた方がいいかもしれませんね。実を言うと、メアさんの意識がまだ回復していないんです。いつ目が覚めてもおかしくないんですが、原因不明の昏睡状態が続いています」
動転したクレールさんの声が戦慄く。
「いつ回復するか……分からないってことですか……?」
事態の雲行きが怪しくなってきて……ショックで僕も閉口する。
空気が重くなり、申し訳なさそうに医師が口を開く。
「ええ……。ここではこれ以上の検査を行えないので、より詳しい検査をするためにもメアさんを設備がある別の部屋に移動させたいのですが――よろしいでしょうか?」
「もちろん! お願いします!」
間髪を入れずのクレールさんの返事に。医師は軽く会釈し、
「分かりました。では準備ができ次第お呼びしますので少々お待ち頂けますか」
と処置室側の扉に引き返して行った。
片手で額を押さえうなだれるクレールさんを目の当たりにして……。正直に話すにはかなり勇気がいるが、その沈んだ背に打ち明ける。
「メアが倒れたのは……僕のせいです…………」
クレールさんがこちらに振り向く。憂いを帯びた視線を僕に当てる。
「……何か、知ってるのかい?」
緊張で強張る口をこじ開け……カラカラになった喉から声を絞り出す。
「僕と会うのはこれで最後だって言われて……。立ち去ろうとするメアの……彼女の体を無理矢理抱きしめて引き止めたら…………急に苦しそうにメアが倒れ込んで……。メアからクリスティアを退学したことを聞かされて、意地でも引き止めなきゃって僕が思わなければ、こんなことには…………」
僕の話を聞き――慌てて手を突き出したクレールさんは眉根を寄せる。
「ちょっと待ってくれ……。あの子がクリスティアを退学したと、本当にそう言ってたのかい?」
「え? はい……。期末テストもそれで受けなかったって言ってました」
クレールさんは顔を顰め一考する間を置く。けれど……答えは変わらなかったみたいで、首を横に振る。
「……ここにはクリスティアから連絡をもらって駆けつけたが、僕もカノンも退学したなんて話は聞かされなかったよ。メアがテストを受けなかった話も一週間ほど前にクリスティアから連絡があって知ったけど、そのときもそんな話は出なかったよ。テストを受けなかったことで退学になったしても、あの子が自ら退学するとは僕は思えないよ」
今度は僕が慌てる番だった。
「えっ、でも……ホントにそう言ってたんです! 退学届も二週間前に出したって言ってて……!」
すると。クレールさんは肩を竦めながらも真摯な態度で向き合う。
「僕もカノンも退学届に署名した覚えはないよ。少なくとも、僕が教えてるカレッジでは生徒が退学届を持ってきたら必ず保護者にも連絡がいくようになってるから、退学するのを一人で勝手に決められないはずだよ」
異なる話に仰天する。クレールさんが事実を述べているのなら考えられるのは、
「じゃあ……、あれは、嘘……?」
メアが嘘を吐いている。
……何のために? もう頭の中がひっちゃかめっちゃかで何がなんだか……何を信じればいいんだ…………。
愕然とうな垂れる僕に。クレールさんが声をかける。
「君のせいじゃない。これは……家族の問題だ」
「そう、なんですかね……」
励ますためにそう言ってくれているのは分かるけど……本当に僕とは関係のない問題なのかとやきもきする。自分のせいじゃないのかと負い目を感じる一方で、それだけメアにとって僕が大きな存在であって欲しいと思う僻んだ心が邪魔をする。
思い悩む僕の顔色を窺い、クレールさんは尋ねる。
「君はメアとは仲が良いんだよね?」
今の僕のメンタルには少し……、いや、かなり刺さる質問だった。
「そう思ってましたけど……今は分かりません」
それでも。縋るような眼差しで、クレールさんは僕を見る。
「少しでも何か知っているのなら教えて欲しい。最近のあの子の様子に変わったことはなかったかい?」
いつからなんだろう……? メアに異変が起き始めたのは……ここ一ヶ月以内の話だと思うけれど……。あれだけ長いこと一緒にいて少しも見抜けなかった自分に何が原因か分かるわけもなく、
「……すいません」と、不甲斐ない気持ちで俯き、首を横に振った。
クレールさんの表情に陰りが増す。悲嘆に暮れる様子に、今日の出来事だけにフォーカスしているわけではなさそうだ。
「そうか……。最近のあの子の様子がおかしかったのはカノンも僕も感じていたんだ。何か思い悩んでいるみたいだったからセラピーに連れて行こうとカノンと相談していた矢先だったのに……」
クレールさんは眼鏡を押し上げ眉間を指で摘み、真下を向く。
「こんなになるまで思い詰めていた娘を助けてやれず…………父親として失格だ」
見るのもやるせない姿に……自分も涙腺が緩み、思わず俯く。
「……僕も、友達として失格です」
顔を上げたクレールさんは、ふと思い出したかのように言う。
「そういえば……まだ君の本当の名前を聞いていなかったね」
自己紹介するのに大分時間がかかってしまったが、
「リックスです」
やっと名前を言えた。
クレールさんは――きっと受け持つ生徒からも慕われているのであろう――人好きのする笑みを浮かべて言う。
「――リックス君、救急車を呼んでくれてありがとう。直にカノンも到着する頃だから後は私たちに任せてくれ。君は帰った方がいい」
…………。人の厄介事に首を突っ込みたがるのは昔っからの性分だ。それに……。ここですっぱりと引き下がれるほど、僕は聞き分けの良い人間じゃない。
「何もできないかもしれませんけど……僕もメアが心配なのでここにいさせてください」
一瞬。クレールさんは目を丸くしたが――すぐに柔和な眼差しを僕に向ける。
「君はいい友達だな」
……見知った安心感がある。メアが微笑むときの目元はこの人に似たのかもしれない。
その後。検査着に着替えさせられたメアはまたストレッチャーに乗せられ上の階に移動した後、設備のある部屋に運ばれた。クレールさんと僕もその部屋がある扉の前まで付き添うと、座れるところを探して同じ階の自販機の傍にあった休憩所らしきスペースにやって来た。
缶コーヒーを片手に。自販機の前でこちらを見てクレールさんは言う。
「リックス君は何にするかい?」
「いや……悪いんで結構です」
ちょっと疲れが見える笑みをクレールさんは浮かべる。
「遠慮しないで。メアを助けてくれたお礼も兼ねてるんだ」
むしろ僕のせいでメアが倒れたんだとしたら感謝の気も失せるんじゃないかと苛まれたが、
「……すいません。じゃあ、同じものを」
訊きたいこともあったので円滑なコミュニケーションを図るために好意を受け取っておく。
二人してシートに腰掛ける。缶コーヒーを開け、一口飲んでは一息吐く。
いつの間にか外は本格的な土砂降りになってきたようで窓に当たる雨粒がバチバチと激しい音を立てている。さっき帰らなくて良かったな、と改めて思った。
お互い無言の時間が流れる。おそらくセンシティブな問題になるであろう話にずかずかと踏み入れていいものか、という迷いもあり……安息も束の間、また少し緊張が高まってきたが――意を決して訊く。
「メア……さんは、元々心臓に持病があったんですか?」
苦笑してから、クレールさんは横目に僕を一度見ては言う。
「今更さん付けかい? 友達なんだろ? 僕の前だからって変に気を遣わなくていいさ」
少し気まずくて首の後ろに手を当てる。
「すいません……。軽くはない話だと思うので、訊いていいものか悩みまして……」
クレールさんは少し前屈みになり両手を組む。その横顔から見える瞳に暗い陰が差し込む。
「君の想像を絶する暗い話になる。それに生半可な気持ちで首を突っ込めばメアも……おそらく、君も傷つく。僕は娘がこれ以上苦しむ姿は見たくないんだ」
思い出すだけで陰鬱だと言わんばかりの表情をこちらに向け、まっすぐに僕の目を見る。
「この話を知ってもなお、君はあの子を傷つけない、と誓えるかい?」
ずしりと胸の淵に落ちてくる射るような重たい視線に――自分の中の覚悟を奮い立たせる。
「……はい」
頷いた僕をじっと見てから。クレールさんは前を向き、「ふぅぅぅ……」と深く息を吐く。
そして。悄然とした空気になる中……鉄槌で殴られたかの衝撃的な真実を聞く。
「あの子は五歳のときに、一度は死亡したことになってるんだ」
「え……っ」
言葉に詰まる。『死亡』という二文字が脳内で反響する。
「それって…………どういう意味ですか?」
死亡って……。じゃあ、今のメアは……? だって、現に生きているじゃないか。もしかして、比喩的な意味なのかな……?
「言葉通りの意味だよ」と、クレールさんは答え、
「僕とカノンは一度、医師から娘の死亡宣告を受けたことがあるんだ」
と、そう続けた。
その刹那。突如として窓の外が一瞬光り――雷鳴が轟く。
「忘れもしないさ。――十五年前のあの日。あの日も……今みたいな雷が鳴り響いてた」
クレールさんの口からしみじみと語られる娘の死に纏わる重大な話が、運命の悪戯に手招きされるように僕の心をより翻弄させていく。
「あの子は産まれてすぐに先天性心疾患があるのが分かってね。手術や移植も難しく医師からは以て五歳までしか生きられないだろうと言われたよ。僕もショックだったけど、カノンの方がより大きかったみたいで心労で寝込んでしまって……当時はそれはもう大変だったよ」
「でも……。それでも……僕たちは産まれてきてくれたこの子の一生を見守ろうと決めた。メアという名前は、この子にせめてもの救いが訪れることを祈り、メシアからあやかって名付けたんだ。メアを病院の外には中々連れていってあげられなかったけど、あの子はすくすくと育ってくれた。あの子の誕生日を迎える度に、今日まで生きてくれた喜びと……来年の誕生日を迎えられるかどうかという先の見えない不安とせめぎ合いながらも、次もまた『お誕生日おめでとう』と言える日が来るのを信じて毎年盛大にお祝いをしたよ」
「とうとう宣告されていた五歳の誕生日を迎えてもあの子は頑張って生きててくれたんだ。僕もカノンもそれが嬉しくて、ひょっとしたらこのまま来年の誕生日も迎えられるんじゃないかって密かに期待していた。けど……その年の夏に容体が急変してね。心肺停止状態になって医師の方たちも必死に延命させようとしてくれたけど……二十分以上経っても回復しなくて…………その場で死亡宣告を言い渡されたよ」
…………。確かに想像を絶する話だった。――でも、話はまだ完結していない。
「そこから何がどうなって……復活したんですか?」
復活という表現が合っているかは謎だが……蘇りでもしない限りは今メアがこの世に存在している事実と辻褄が合わない。そこから残機が増えでもしない限り話が成立しない。
クレールさんは眉を顰めると、首を横に振る。
「それがさっぱり分からないんだ……。その後、何でか急にあの子の心臓が再び動き始めたんだ。心肺停止してから既に四、五十分は経過していたのに脳に深刻な障害を負うこともなく、突然目を覚ましたんだよ。死亡宣告を伝えた医師も驚愕のあまり腰を抜かしていたね」
すぐには信じられなくて、
「そんなこと……、あり得ない…………」
つい本音を口走ってしまった。
脳への血流が止まった状態が約十分以上も続けば回復する見込みは限りなくゼロに近くなる。仮にそこから目覚めたとしても脳に致命的な後遺症が残るのは免れない。そうなれば通常は喋ることも動くこともままならず、ベッドで寝たきり状態でもおかしくないのに……メアにそんな影は一切感じられなかった。脳の限界を超えて蘇生したのに後遺症すらないなんて……。明らかに人の原理からかけ離れている。
少なからず僕も、死亡宣告を告げた医師とおそらく近しい畏怖するような感覚を覚えた。
だが。理由なんてどうだっていい、とそう思わせる一摘みの仄かな笑みを零し、クレールさんは言う。
「だからあの子は僕とカノンにとっては奇跡の子なんだ。心疾患があったのも嘘みたく綺麗さっぱりなくなってね。それまでは走るのさえままならなかったのに、同い年くらいの子たちと外で遊べるくらいに元気になって、一緒になって駆け回るあの子の姿を見たときは……もう感動で、前が見えなくて…………」
今にも零れそうなほどに瞳を潤ませて……クレールさんは続ける。
「僕にとって、メアが正にメシアになった瞬間だったよ」
「…………」
この親子が歩んできた過酷な道のりを知った。自分と負けず劣らずの壮絶な人生をメアも生きてきたのだと知った。天性だと思っていたメアの明るさは、それだけの困難を乗り越え生きているありがたみを知っていたから……だからあんなによく笑う子に育ったのかもしれない。
「……早く、元気になったメシアの笑顔を僕も見たいです」
クレールさんは照れ笑いを浮かべた。
「ハハ……。そうやって言われると、なんだか臭いことを言ってしまったかな」
そこへ。着信音が鳴る。自分のポケットを探るが……どうやら僕のじゃない。隣のクレールさんがスマホを取り出す。
「――カノンからだ」と言い、電話に出る。
「ああ、もしもし。着いたのかい?」
直後に。クレールさんの表情が一変する。
「えっ!? 本当かい!? ――すぐに戻るよ!」
すぱっと立ち上がりながらそう言ったクレールさんは電話を切ると、驚き冷めやらぬ表情をこちらに向ける。
「メアが目覚めたらしい……! 行こう!」




