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【4-4】

 二月十九日。夕方のポロにて。

 いつも通り店内は貸し切り状態。今日も今日とて定位置のテーブル席に隣り合って座るメアと僕。いよいよ二週間後に迫った期末試験に向け、黙々と勉強に励む。普段よりも集中しているせいかお互いに口数も少ない。

 マナが自然界に与える影響を物理的に表した難解な計算式に頭を悩ませていると、

「リックス、簡単な方法教えてあげる。――この簡略式を使えばより少ない手順で解けるよ」

 隣で黙って見ていたメアが、僕のノートの端に見たこともない公式を書きアドバイスをくれる。

「え? でもこんな公式習ってないんだけど?」

「これは裏技的なやつだからね」

 さらっと言ってくれるけど……普通じゃ知り得ないこういう高度な知識をいつもどこで仕入れてくるんだろうか。

「何でそんなの知ってんの? 三年次の専門科目で習うの?」

「知ってるっていうか……」

 メアは顎に手を置き、視線を斜め上に持っていきながら首を傾げる。

「これは独自に編み出した式だから。私以外に使ってる人はいないんじゃないかな?」

「え……。それってオリジナルの公式ってこと?」

 メアがたまに出してくる規格外の回答にも大分慣れてきたもんだと自負していたけれど、どうやらまだまだサプライズさせてくれるらしい。

「うん。もっと計算を簡単にできたら楽なのになって思って工程を省けるようにしたの。一応、お父さんにも確認してもらって計算上に誤りはないってお墨付きももらってるよ」

 いくら計算を楽したいからって公式を改造しようという発想には至らないと思うんだが。

「流石は数学者の娘……」

 驚嘆以外の感想が出てこない僕の言葉を。さらりと流すようにメアは言う。

「でもこの形式の問題でしか使えないから注意してね」

 その後も。僕と同じ科目を受けていたときに使っていた当時のメアのノートを参照にさせてもらい、彼女からも手厚いサポートを受ける。

「グンター先生は毎年高確率でこの引っかけ問題を出すからここは必ず押さえといて」

「オッケー」

 これまでメアが培ってきた各科目の試験対策のレクチャーを存分に受けられるのはまじで役得が過ぎるんだが……やっぱりちょっと心配になってきて、前にも聞いたことを再度訊く。

「……メア、そろそろ自分の勉強しなくて大丈夫?」

 三学期に入ってからというものの、ポロで勉強するときはほとんど自分の勉強そっちのけでつきっきりで僕の勉強の面倒を見てくれている。嬉しい反面、却って申し訳ない気持ちもあり、メアの邪魔になってるんじゃないかと心苦しくなってくる。

 だが。そんな窮屈な想いを軽く吹き飛ばすほど、メアはあっけらかんとして朗らかに笑う。

「心配しなくても大丈夫だって。今回も完璧に仕上げてきたから正直あとはテストを受けるだけって感じ」

「期末テストは大丈夫だとしても、医術技師試験の方はいいの? ストレートで受かるの難しいんだろ?」

 毎年三月の末日付近で医術技師試験が行われる。期末が終わって約三週間後には本命の試験が控えているわけだ。試験続きで休む暇もない。

「家に帰ってからも毎日遅くまで勉強してますから。それにまだクリスティアに入学してない頃から、将来医術技師になるって決意してたくさん準備はしてきたからね。年季が違うのですよ」

 プレッシャーなんて皆無な様子のメアに感嘆の声がもれる。

「ふはぁ~、その自信が羨ましいよ……」

 人の心配なんてね除けると、メアはジト目で僕を見る。

「どっちかって言えばリックスの方が心配だよ」

 僕とは度胸が違う。こっちは正直、二週間後のことを考えると緊張してきてお腹の調子が悪くなるってのに。

「最後の期末も当然狙うは全科目オール満点なんだろ?」

 今更訊くまでもない愚問に。メアは分かりやすく勝ち気な笑みを貼り付け、きっぱりと言い切る。

「もちろん。やるからには有終の美を飾って心置きなく卒業しないとね」

 少し誇張気味に聞こえなくもないのは、私のことは大丈夫、と僕を勉強に専念させるための方便が多少なり混ざっているからかもしれない。確かに、人の心配をしている余裕はない。これまで八回連続でオール満点を叩き出してきたメアには余計な心配だっただろう。

「いいなあ。僕も一度くらいオール満点取ってみたいもんだ」

「取ろうよ、満点。全科目じゃなくてもいいからさ」

 メアは明るくそう言った。その自信に満ちた真っ直ぐな翡翠ひすいの瞳には、その気になれば何でもできる、という熱意がまざまざと表れている。……彼女から真に見習うべきは、目標に一歩でも近づこうとする行動力、なのかもな。

「――ああ。取ろう」

 返事に決意を込めると、メアはえくぼを深くし固く頷いた。



 二月二十八日。夕方のポロにて。

 最早言うまでもなく定位置にて隣り合う僕ら。残り一週間を切った期末に向け、メアからオススメされた参考書に載っている問題を黙々と解いていく。もう何周もしたが、過去に間違えたところを時間を空けてから再度やり直す。

 やり始めてから何十問目かというところで、これどっちだったっけ、という疑問点が出てきて行き詰まる。こういうとき隣にいるメアにすぐ訊けるのはとても助かる。

 見開いた参考書のページをメアの方へ寄せつつ、レクチャーを求める。

「――メア、ちょっとここ教えて欲しいんだけど」

「…………」

 俯いたまま反応がないメアの、顔の前で手を振る。

「おーい? メアさ~ん?」

 気づいたメアは少しだけこちらに振り向き、浮かない顔を見せる。何度か瞬きをし、ぼやけていそうな視線を僕に送る。

「……リックス……」

 朧気おぼろげに僕の名を呼んでから、元気なく言う。

「私……。何してたんだっけ……?」

 いきなり何を言い出すかと思えば……。

「何って……。いつも通り、最後の追い込みの勉強会だろ?」

 メアは納得したかの苦笑いをこぼす。

「ああ、そうだよね……。ごめん……」

 どこか上の空な様子だ。生気がない、というか……。

「どうしたの? 最近ぼーっとしてること多いけど?」

 一昨日にも同じことを訊いたばかりだ。時間効率を気にするメアが電源が切れたみたいに呆然としているのは珍しいな、と思ったけど。そのときは、ちょっと考え事してただけ、と言っていたが……。はぐらかされたのか分からないけど、ただ日に日に頻度が増していっている気がして気になる。どこか体の調子でも悪いんだろうか。

 予想が大方的中したようで。メアはぎこちなく微笑んでは言う。

「うん……。ちょっと眠れてなくて……」

 言われてみれば化粧で隠れてはいるものの、目の下のクマが少し透けて見える。普段はナチュラルメイクなのに今日は少し厚塗りに感じたのはそのせいか。

「それって……テストが近いから?」

 また少し俯いた彼女が胸元辺りで拳を握る。――気持ちが落ち着かないときによくやっている手癖のスージングタッチだ。

「これが最後だと思ったら……私にもまだ人並みにプレッシャーを感じる心があったみたい」

 最後という言葉の重みが僕にも通じる部分があり、心に響く。崖っぷちの自分に対して、心の中の自分から、これがラストチャンスだぞ、と宣告を突き付けられているみたいだ。

 だが。プレッシャーなんてものともしなかったメアみたいな天才にも人並みのノミの心臓があるんだ、という事実を知れたことが僕には大きい。

「勉強超人のメアも人間だったんだな。逆に僕だけじゃないって安心したよ」

 うれいを秘めた瞳で僕を見つめていたメアは、

「…………」

 少し間を空けてから、

「本当に……そう、思う?」

 そう、僕に尋ねた。

「え?」

 逸らした視線を床に落とし空虚に見つめていた彼女は、

「私は、自分は普通の人とは違うんだ、って思ってたから……」

 壁打ちするみたく言葉を投げてはその身で受け止める。

 気持ちがどっちを指しているのか分からず……メアに問いかける。

「メアは普通じゃいたくないの? それとも普通でいたいの?」

 眉根を寄せ、メアは呟く。

「私は……、…………」

 独白するには長く、僕が何かを言うには短い沈黙が過ぎた後――。彼女は急造したかの苦笑いをこちらに向け、何でもない、といった風に明るく振る舞う。

「ごめん、ちょっとナーバスになってたみたい。気持ち切り替えなきゃ!」

「メア……」

 普段はそんなことないのに今日はやけにこじらせてるな……。何か気の利いた一言でも言えればいいけど……。

「僕もたまに母が亡くなったときの夢を見て夜中に目が覚めるんだけど、そういうときはなるべく楽しかったときの想い出を思い返すと眠れるかな」

 あまり参考になりそうになく、

「……ん。今度そうしてみるね」

 メアは微妙な笑みを浮かべた。

「あんまり無理すんなよ?」

 大したことも言えない僕に対し、

「多少の無理は必要だよ。でも無茶はしてないから大丈夫」

 メアは笑ってみせるが……心配する僕の瞳には愛想笑いとして映った。



 三月四日。来たる期末テスト初日。

 教壇に立つ試験官の「それでは始めてください」の合図とともに。エーテル基礎学(エービー)の階段教室に整然と並んで着席していたエーテル学部の生徒たちが、一斉に問題用紙をめくる。

 メアからもらったペンを片手に、僕も問題に取り掛かる。

 第一問……次の空欄に当てはまる言葉を選択肢から選びなさい。

 人は体内のマナ量を飽和限界の(A、三十~七十パーセント)の間で無意識下にコントロールしている。三大ホルモン〔セロトニン、ドーパミン、(C、オキシトシン)〕がバランス良く保たれているとマナの生成量も増加する。反対に、(D、ノルアドレナリンの過剰分泌や不足)等が起きるとマナの生成量は低下する。

 マナには(B、出度)がより高い人間から低い人間へと流れる習性がある。マナの流動性による心身の変化を(C、マナサーキュレーション)という。

 第二問……――。



 ――集中力が極まり過ぎて時間の流れがとても早く感じた。

 特に苦戦することなくエーテル基礎学(エービー)のテストを終えた僕は、その後も二つテストを受け初日の三つのテストを好感触で終えた。

 第一ラボ棟を出て自転車置き場に向かう道中、メアのことを想う。

 あっちも順調に初日を終えた頃だろうか。期末テストの結果が出るまでは自分のことに専念しよう、という話になってから今日で三日目。成績通知表を受け取る日にまたポロで会おうと約束したから、それまではしばしの我慢だ。

 「教えることは全て教えたからあとは復習あるのみ」とも言われているので、鬼教官に怒られないようにとっとと家に帰って翌日の科目の要点を再度まとめることにしよう。



 三月八日。期末テスト最終日。

 全問解き終わった人から続々と教室を退出していく中、最後まで残り何度も回答を見直す。

「――では終了してください」

 試験官の声を合図に、やりきった想いでペンを置く。

「ふぅぅぅ……」

 どっと肩を落とし、極度の緊張感から解放され深く息を吐く。

 ……やっと全部のテストが終わった。……終わったんだ。やれるだけやったし……今までのどのテストよりも一番手応えを感じられた。――あとは結果を祈るだけだ。

 今し方、机に置いたペンに目を向ける。

「…………」

 ここまで一緒に頑張ってくれたそれを指先で撫でる。

 ――早くメアに会いたい。会って話がしたい。



 三月十五日。全てのテスト結果が出揃った。同時に一学年次の年間成績通知表を受け取る。

 すぐにリュックを肩に担ぎ教室を出て廊下を走る。足取りも軽い。

 今朝はそこまで気が回らなかったけど、どうせならローテーションの服じゃなくもっとマシな服装で来れば良かったな、と今更ながら少し後悔している。なんせ僕にとってはこれから一世一代の告白をするわけだからな。

 食堂に向かおうかという学生たちの間をすり抜け、握り締めた通知表を手に、階段を一段飛ばしで一階まで駆け下りる。すぐにでも結果を知らせたくて急いでポロに向かう最中、昇降口前の廊下に貼り出された成績点上位者リストに群がる人だかりが見えてくる。

 一刻でも早く伝えたい気持ちもあるが、メアの結果だって知りたい。まあ見るまでもなく満点パレードなのは予想できてるけど、宣言通りオール満点で有終の美を飾れたのだろうか、と人だかりに混ざりリストから隈なく彼女の名前を探す。

 ――エーテル最上級学プロフェッショナル、第一位エリザベス・マシューズ、九十六点。エーテルダイナミクス概論、第一位シャルル・ステュアート、九十七点。マナエネルギー環境科学、第一位レオン・ピアース、九十五点。上級医工学概論、第一位ラヴィニア・アルバース、九十二点。上級エーテルマテリアル材料学、第一位シャルル・ステュアート、九十八点……。

「…………。そんな……」

 メア・ハーヴィッツの名前が…………どこにもない。二位にも……三位にもない。これまでオール満点を一度も逃さずに連続で取り続けた偉業から、いつしかフルスコアクイーンとまで呼ばれるようになった秀才の名が…………一切見当たらない。

 異変に気づき興奮が冷めたところで。やっと周りが何にざわめいていたのか、僕の耳にも届き始める。

「おい……女王の名前が一つもないぞ? どうなってんだ?」

「とうとう満点から陥落か。むしろ今まで続いてたのが異常だったんだから当然といえば当然だよな」

「本命の医術技師試験も控えてるし、そっちに本腰入れてるんじゃない?」

「とは言っても、あの人なら早期卒業ができるぐらいには高得点を取ってることに違いないっしょ」

「それもそうね。今頃は達成できたお祝いでもしてるんじゃないかしら?」

 ――そうだ……。早期卒業はどうなったんだ? もしこれで達成できてなかったら……確実に僕が原因だ。そうなったら嬉しい報告どころかメアに顔向けすらできない……。

 右ポケットに入れていたスマホが――まるで今日の時間割を把握しているかのタイミングで――振動する。取り出して見ると、『第一ラボの屋上で待ってる』とメアから通知が来ていた。

 他学部の第一ラボもあるが、たぶんここのエーテル学部棟のことだろう。何でまた急に、とは思ったが、そこに行けばメアに会える。メアに無事に早期卒業できたのか確認しないと……!

 踵を返し来た道を戻ろうと人だかりを抜けた矢先、

「おい、ちょっといいか」

 待ち伏せていたかのように、そこにいたアーシュに呼び止められた。

「アーシュ……」

 吊り上がっていることが多いアーシュの眉が、今日はやけに山なりに見える。

 メアのところに急ぎたかったのでざっと見た感じだが、赤系のチェックのシャツに、胸元から覗く白いインナーのプリント、シャツの上から羽織った黒のノースリーブのデニムジャケットと、下は黒のスキニーパンツと黒のブーツというボーイッシュな格好。いつものポニテと耳周りも一緒。

「――ごめん、アーシュ。今急いでるから後にしてもらえるか」

 横を通り抜けようとしたところで、

「……メアのとこ行くんだろ?」と、

 アーシュに言い当てられ、立ち止まる。

 振り向いた僕に。アーシュは見せたことのない、憂慮ゆうりょに堪えない気持ちが見え隠れした表情を横顔に乗せ、歯切れ悪く言う。

「そのメアのことなんだけどよ……、アイツ最近なんか元気ねえっつーか……様子が変なんだよ。なんかあったのか訊いても自分のこと全然話したがらねえし……なんつーか、隠し事してるみたいでよ……。リックス、なんか聞いてねえか?」

 不安がますます募って……持っていた成績通知表を握り締める。メア、どうしたんだ……?

「……僕も、二週間くらい会ってないから分からない。上位者リストにも入れなかったみたいだし、これから話聞きに行こうと思ってたとこ」

 期待に応えられず、アーシュの顔が曇る。

「そうか……。お前なら知ってるんじゃないかと思ったんだけどな。……わりぃな、呼び止めちまって」

「いや、別に」

 でも、それも束の間で。アーシュは悔しそうに吐き捨てる。

「アイツ、なんでか知らねえけどあたしにめっちゃ謝ってきてよ……。でも理由わけはなんも話さねえんだぜ? クソ……ッ」

 怒りと失意が入り混じった瞳で、まじまじと僕を見ては言う。

「あたしじゃ力になれねえみてえだから……メアのこと、任せられんのはお前しかいねえ」

「――ああ。結果がどうであれ、皆で集まってパーッとやろう」

「おう」

 少し溜飲を下げた様子でニッと笑うアーシュに。またあとで、と手を挙げ、メアの元に向かう。

 廊下を駆け抜ける間も胸騒ぎが鳴り止まない。アーシュの話を聞いてから、やっぱり早期卒業できなかったんじゃないか、と嫌な思考がぐるぐると脳内を回り出す。

 講義終わりの時間帯は各駅停車状態になるエレベーターを待つより走った方が早いと踏んで五階建ての階段を一気に駆け上がる。息切れしながら最後に屋上に通じる階段を上り切り、重たいスチールドアのL字型のノブに手を掛け、開ける。

 ――まだ冷たい冬の風が頬を撫でる。

 屋上庭園の花々も寒さに皆、揺れている。取り分け、数が多く小さな花を咲かせたスプリングスターフラワーが寒さを凌ぐように寄り添い合っている。

 両脇の花壇に囲まれた通路の先。予報と違って今にも一雨来そうな灰色に広がる空の下。黒のロングコートを着た女性の後ろ姿を見つけた。柵に片手を掛け天を見上げる姿が、どこか現実味に欠けていて……葵色の肩までの髪とコートの裾がそよそよと風になびく様が映える。

 十メートルほど離れたその背に呼びかけるも、

「メ、メア……ッ」

 息切れするほどダッシュで階段を上ってきたから声が切れ切れだ。しばらくは胸の早鐘が収まりそうにない。

 両膝に手をつきながら、振り返らないその背に再度言葉を投げる。

「早期卒業……、無事に、できたのか……?」

 切れ切れの僕の問いに。

「……先に結果教えてくれたら……教えてあげる」

 メアは胸に詰めていたものを飲み下すかの……静かな口調で反問する。

 ずっと握り締めたままだった成績通知表を突き出し、誇らしげに胸を張って見せる。

「ほら……っ、ギリギリだったけどおかげでGPA【3.8】 取れたぞ。どうだ……っ」

 やっと。メアがゆっくりとこちらに振り向いてくれた。でも……曇天の暗影に覆われたその顔に感情は見えない。というか……、少し会わない間に前よりも細くなった気がする。

 お決まりの秋冬の通学服――ではなく、膝丈までのワンピースに、フォーマルなロングコート、下はタイツとパンプス。

 …………。全てが喪に服すかの黒に染まっている。これから葬式でもあるのかという礼装を彷彿ほうふつとさせる格好。……いよいよもって不吉な予感を否定できなくなる。

 だが……。ようやく――僕が見たかった笑顔を見せてくれた。

「おめでとう。君ならできるって信じてた」

 どこを見ているのかも分からない……虚ろな目をしながらだったけど。

 希薄な声で。彼女は続けて言う。

エーテル基礎学(エービー)、満点だったんでしょ? 教えた私も鼻が高いよ」

 抑揚のないジメついた声。口元以外は……クマが残った目元も……、少しけた頬も……表情に生気がない。……もっと喜んでくれるもんだと思っていた。とびきりの笑顔を勝手に期待していた。

 予想とは違った反応に。僕の口からありがとうも出て来ず、話を急ぐ。

「僕のことはいいんだ。メアは……どうだったんだ?」

「…………」

 しばしの沈黙を流すように、風がさらった後――。

「受けなかったの」

 外気よりも冷然と。メアはそう言った。

「え……?」

「テスト、受けなかったの」

 と、メアが機械的に繰り返す。

 意味が分からず、こちらも訊き返す。

「な、なんで……?」

「もう必要なくなったから」と、感情なく彼女は言う。

「必要ないって、何だよ……」

 困惑から言葉が出てこない僕に。彼女は事もなげに告げる。

「私、クリスティアを退学したの。だからもう頑張る意味もない」

「そんな……、…………」

 衝撃の連続。さっきからメアが何を言っているのか理解できず……上手うまく開かない口で問う。

「それ……いつの話だ……?」

「……退学届を出したのはちょうど二週間前」

 二週間前って……。確か……メアと最後に勉強した日じゃないか? そのときはそんな話も、そんな素振りもまったくなかったのに…………。

「退学って……何言ってんだよ? 医術技師になるんじゃなかったのかよ!」

 なんでそんな大事なことを何も相談してくれたなかったんだ、とショックなばかりに口調が強まる。

 それが効いたのか……。彼女の口が重くなる。

「……もっと大事なことに気づいたから。そんなことしてる場合じゃないんだって」

「そんなことって何だよ……! そのために何年もかけて今までずっと頑張ってきたんだろ? あと一歩のとこまで来てんのに諦めんのかよ!」

 熱くなる僕を。彼女は冷静に突き放す。

「諦めるのも諦めないのも私の自由。君が決めることじゃないでしょ?」

 ……まるで僕の知らないメアだ。その凍てついた声も、僕を映していない瞳も……余所行きの表情も……、僕が知っているメアとは違う、他人の空似がそこにいた。

「……どうしたんだよ。……どう、したいんだよ……? 僕じゃ……力になれないのか?」

 何がメアをそうさせるのか……僕には分からない。――でも、メアには多大な恩がある。

「何か悩みがあるのならまたメアの助けになりたいんだ。喜んで協力する。一番に――僕を頼って欲しい」

「…………」

 彼女は無表情のまま何も言わず、緩やかな足取りで僕に歩み寄る。僕から五歩ほど離れた位置で――親密とは言えないパーソナルスペースを保った距離で――立ち止まると、今まで良くしてくれたのが全部嘘だったかの他人行儀なツラを僕に寄越す。

「君を進級させるって約束を果たした今、私の役目はもう終わったの。私たちの同盟も今日でおしまい。――君と会うのはこれっきり。これで…………最後」

 ……別れの言葉を告げられた。

「最、ご……」

 思いもしなかった言葉に……息を呑む。

 ……もう、メアと会えない……? 嘘だろ……? 仮にメアが卒業しても友達なのは変わらないと思ってた……。同盟がなくなってもこの関係は残ると思っていた……。親密になれたと喜んでたのは僕だけだったのか? あんなに親しかったのに……あの思わせ振りな態度も社交辞令だったのか……?

 えっ、待って……。これが最後ってことは……。じゃあ、僕の……告白、は…………?

 状況の整理に手一杯で言葉を失う間に。彼女は虚ろな視線を周囲に向けながら寂しそうな口振りで言う。

「ここから見る景色も今日で見納めだから。最後に見られて良かった」

 点々と校舎を見渡す視線には……一朝一夕ではない降り積もった孤独感がにじんでいる。

 その視点が僕に終着すると――別れのときが近いような忠告を口にする。

「私抜きでも落第しないようにこれからの勉強も頑張ってね」

 そして。

「じゃあ……サヨナラ」

 と、澄ました顔で僕の横を通り過ぎていく。……嘘みたいに、あっさりと…………。

「――待てよっ」

 思わず。振り返って彼女の手首を掴んでいた。

「自分だけ言いたいこと言って行くなよっ。一方的にサヨナラなんて言うなよっ」

 その背に叫んでいた。こんな終わりは望んじゃいない。大切な人と会えなくなる後悔はもう懲り懲りだ。ここで彼女を止めなかったら……一生自分を許せなくなる。

「……離して」

 対話を拒否するかのように冷たく返って来る言葉を、

「……離さない」

 同じ温度で拒否する。

「…………ッ」

 無言で振り解こうと彼女が腕を強く引っ張る――が、どこにもいかせまいと背後から彼女を抱きしめる。

「……ッ。やめて……」

 腕の中で彼女が苦しそうに藻掻もがく。

「……やめない」

 嫌がる彼女を無理矢理抱きしめている罪悪感から胸が痛む。それでも……。さっき言われた言葉たちが彼女のいつもの十八番おはこだと信じて、本当のことを知りたい一心で……彼女の胴を両腕でがっちり固定する。密着して動けなくさせる。

 彼女が暴れる度にぎゅうぎゅうと体が擦れ合う。

「はぁはぁ……ッ」

 次第に彼女の息が上がり、動きが鈍くなる。全身から力が抜けていき……、

「うぅ――ッ!?」

 呻き声が聞こえた途端。彼女の体がぐったりと前屈みになり、だらりと頭がぶら下がる。

「メア……? ――メアッ!?」

 強くし過ぎてしまったかと慌てて両腕を緩めるも……バランスを失い前のめりに倒れそうになる彼女を背後から受け止める形でその場に膝をつく。

 何事かと彼女の横顔を覗き込むが……額からしたたる汗の量が尋常じゃない。

「……う、ぅぅ……」

 こらえるように目を閉じ弱々しく息を吐く様子に、呼吸困難に陥ったかのただ事じゃない気配が漂う。

「メアッ!? ごめん……! 大丈夫っ!?」

「…………ッ」

 呼びかけにも答えず……朦朧もうろうとした意識の中で息苦しそうに胸元を押さえるメアを前にし、顔面蒼白になる。

「大変だ……っ。 エーテルリアクター……いや、救急車…………!」



 それから意識を失ったメアに声をかけ続けること十分足らず――。

 駆けつけた救急車に付き添いで僕も同乗すると、事態を飲み込めないまま病院に向かった。

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