【4-3】
一月三日。
年明け後。最初に会う人物がネヒリム教授になろうとは……新年早々幸先が悪そうだ。
エーテル学部第二ラボ三階、教授の研究室にて。
「…………」と今日もまた一段と厳めしい面構えで自分のデスクに腰掛けたネヒリム教授と、
「…………」と同じく様子見姿勢で作業デスク傍の椅子に座る僕。
まだ冬休み中と言えどいつもと変わらない白衣を羽織った服装の教授は儼乎たる顔つきを一切緩める素振りはない。さっきから無言の圧を、面と向かって僕に流しっぱなしにしている。デスクに両肘を立て、組んだ両手で顔の下半分を隠した姿勢のまま微動だにしない。その背後から、ゴゴゴゴゴッ、と凄みを効かせた地鳴りみたいな音が鳴り響いてきそうだ。
……何だろう? 便秘で詰まりすぎて腹痛のあまり踏ん張ってるのか? いや、それとも推しのアイドルのお泊りデートがスクープされて怒り心頭とか? ……ハッ、もしや、表情は一切関係なく僕が今日着てるフリースジャケットやストレッチパンツを見て、あの服ウニクロで見たな、と見抜いたのか? ……いいだろ別に、全身ウニクロコーデだって。僕みたいなお金のない学生には心強い味方なんだぞ。あとこれめっちゃ暖かいんですからね!
勝手な憶測とは裏腹に。ようやくネヒリム教授が口を開く。
「ふむ……。新年早々に君に会えるとは今年は幸先が良さそうだ」
舐め回すような視線に……背筋でゾクっと悪寒が走る。僕とは真逆の新年だ……。
「は、はあ……? それより言われてた課題を持ってきたんで見てもらえますか?」
バッグから束ねた数枚のレポートを取り出す。マナの流動性によって心身に起こる変化とその原理について調べてきたものだ。
手渡したレポートを受け取った教授はじっくりとそれに目を通し――仏頂面を変化させることなくページを捲っていく。
一通り捲り終えると、「ふむ……」と一言唸り、レポートを大雑把にデスクに投げ置く。
「悪くないだろう。――ではこれから君が予習してきたマナの流動性についての講義と実験を行う。来たまえ」
実験台が連なる隣の大部屋に移動する。見たことない機材が置かれた教卓用の実験台の傍に近くから椅子を持ってきて腰掛けると、ネヒリム教授は黒板の前に立ち雄弁に話し出す。
「さて……これまでの講義でマナには間接的に身体を回復させる機能があることは幾度も話してきたが、ここからは精神面に関しても深く触れていく。近年の研究成果によってマナは心とも密接な関係にあるのが証明されている。マナとは我々人間にとっては切っても切り離せない存在であり、そして、それはときに言葉以上に物を言う」
「リックス君、君にはこんな経験はないだろうか? いつも明るく元気な人の傍にいると不思議とこちらまで元気をもらったり、自分が落ち込んでいるときに励まされると何故か気持ちが楽になったり……と、そういった日常的な心の変化を少しでも疑問に思ったことはないかね?」
「それは単に気持ちだけの問題ではない。我々は体内のマナ量を常に一定範囲内に保とうと無意識下にコントロールしている。三大ホルモンにより人が活力に満ちているときはマナの生成量も増加し、必要以上のマナは体外に放出される。逆に人の活力が低下しているときは生成量も減少し、足りない分のマナを周囲から補給しようとする。マナには出度がより高い人間から低い人間へと流れていく習性がある。つまり、人は元気なときにマナを分け与え、元気がないときは知らず知らず他人からマナを受け取っているのだ。これがマナの流動性による心身の変化――マナサーキュレーションだ」
ネヒリム教授の講義に熱心に耳を傾け実験を行うこと二時間ほど――。
「さて……。今日の講義はここまでだ。次週からはより深く、人に備わるマナのコントロール能力について取り組んでいく」
「はい。ありがとうございました」
自分のために時間を使ってくれているので、一応講義が終わる度にお礼はするようにしているのだが、
「……どうした? まだ何かあるのかね?」
普段なら終わり次第即効で帰るのに中々席から立たずにいる僕を見て、ネヒリム教授は訝しげな視線を送る。
「その、実は……エンダーのことで進展があって……」
ネヒリム教授からこれ以上興味を持たれると身に危険が及びそうなのであまり話したくはなかったのだけど……。でも教授から相手の血を体内に取り込むことでエンダーの能力が発現するのを教えてもらってなかったら、アーシュも助けられなかっただろうし、何より母の死の真相を知る機会も得られなかった。
ただ教授の興味がアーシュにまで飛び火しても困るので『友人の緊急事態にエンダーの力を試してみた結果、治癒ではなく肩代わりが起きた』という感じに掻い摘まんで説明する。
教授の大好物であるエンダーに関する進展話に。常日頃深く刻まれたままぴくりともしない教授の眉間の皺が、このときばかりはむずむずと波打つ反応を示した。
「ふむ……。エンダーの能力は単なる治癒を行うものではなかった、と?」
「はい。ってか……本当に僕にエンダーの力があったことについては驚かないんですね」
「そこは最初から確信していたのでね。そんなことより、そのときの状況を詳しく教えてくれたまへ」
毎度のことだが何を考えているのかさっぱり理解不能な不動の表情をしたネヒリム教授が、心なしか若干神妙な面持ちで僕が話したより詳細な状況に黙々と耳を傾ける。
話し終えると、しばし黙考した教授は口を開き、僕に問う。
「……確かにルミナス反応を見たのかね?」
ルミナス反応とは、本来目視できないマナが凝縮されエーテルへと変化した際に発する光のことだ。
「はい。間違いないと思います」
目の錯覚だろうか、インバーの如く不変であるその見慣れた無機質なブロンズカラーの瞳に、知的好奇心のハイライトが射し込んで見える。
「――なるほど。やはり『エンダーにはリアクターなどの媒体を使わずにしてマナからエーテルを生成する能力がある』という私の推論は間違っていなかったわけだな」
ネヒリム教授に興味を持たれるのは少なからず恐怖がある反面、エンダーについて知ることは母を知ることに繋がっている気がして……欲を言えば、母が遺したあの約束の言葉の真意に少しでも近づければ、という背に腹は代えられない思いで質問する。
「……ネヒリム教授はどう思われますか? エンダーの能力が相手の状態を肩代わりする力だとしたら、この超常現象にはやっぱりエーテルが関係しているんでしょうか?」
「ふむ。因果を肩代わりする力、か……」
顎を擦りながらネヒリム教授は答える。
「どうやら私が予想していたものとは大分かけ離れていたようだが、エンダーとエーテルが蜜月な関係にあることに今更疑う余地はなかろう」
明確な答えは返ってこないだろう、と頭では分かりつつも、つい訊いてしまう。
「一体エーテルの何がどうなれば、こんな現象を引き起こせるんですかね……。今回は僕も無事で済みましたけど、一歩間違えていたらと思うと…………」
まさかネヒリム教授にエンダーについて相談をする日が来ようとは……。それもこれも病院で目覚めてからというものの、ベッドに横になる度に甦った今際の感覚が脳裏に過るせいだ。
心臓が破裂し呼吸すらままならず、氷海に重く沈んでいくかのように冷たい死の感触がぞわぞわと体の端から這い上がり引きずり込まれていく……。もう十年以上も前のことなのに、今もなお、あのとき感じた脅威に体が蝕まれている。
纏わりつく恐怖を、ただ誰かに吐き出すことで少しでも和らげたい、と心がそう働きかけたとしか思えない。こんな変人と言われている人でもネヒリム教授はエンダーの相談ができる数少ない相手だから。
言わずもがな、教授は即答する。
「私にもさっぱりだ。しかし、エーテルにはまだまだ未知数の領域が隠されているのを発見できただけでも凄まじい進歩だと思わないかね」
……当然の回答だ。ネヒリム教授だってエンダーの能力の全容を知っているわけではない。そして、やはり共感を引くには訊く相手を間違えたようだ。
人の心情なんてそっちのけでネヒリム教授は熱弁する。
「実に素晴らしい。悪因を吸収する能力というべきか。現代のエーテル治療技術を以てしても治せない不治の病を抱えた患者も、君の手にかかれば瞬時にその痛みや苦しみから解放させられる。終わらせる者――正にエンダーと呼ぶに相応しい」
「…………」
確かにその通りなのだが……忘れてもらっては困る。
「でも……それには代償を支払わなければなりません。僕の、体と引き換えに……」
僕は……。母と同じように死を覚悟していたわけじゃなかった。一度使えば命を失うかもしれないこの能力の恐ろしさを……覚悟もないままに使ってしまった。
「……先生が前に話していた皇帝グラドニウスを助けたという青年は、一体どんな覚悟を背負って肩代わりを申し出たんでしょうね……?」
この力を継いだ先代たち。彼らの覚悟を知れれば……母が遺した約束の言葉の真意を少しは知れるだろうか。
僕がいくら辛気くさい顔をして思案しようが、
「…………」
ネヒリム教授の顔色は変わらず、無言である。
教授の脳内では眼前にぶら下がった好奇心と比べたら人の感情なんて些末な問題に過ぎないのだと、研究者とはそういうものなんだ、と思うことにした…………矢先に。
ネヒリム教授の口が開く。
「君が何を知りたいのか私には分からんが、私の性質上、活力を分けるには向いていない」
困惑する僕を差し置き、ネヒリム教授は続ける。
「だが……今は幸いどこも年明けのセールをやっている。特に駅前のショッピングモールは盛況で人々も活気に満ちている。……今日の帰りに寄ってみるといい」
「は、はあ……?」
よく分からないが……先生なりに僕を励ましてくれたのだろうか。意外なこともあるもんだ。駅前のセールを頭の片隅に一旦押し込んでおき、ネヒリム教授の話に再び耳を傾ける。
「肩代わりの話に戻すが……エンダーが皆短命だった所以もそこに尽きるのだろうな。――だがエンダーの能力が知れたことで、肩代わりという超常現象に俄然興味が湧いてきた」
相変わらず表情は不動ながらも、より一層熱が入ったネヒリム教授は滔々と語る。
「他にも気になる点をあげたらキリがない。『肩代わりの対象は人間に限るのか、また対象は一人でなくてはいけないのか』、『病気や怪我以外のものではどうなるのか。髪や目、肌の色など表面上の特徴や、はたまた目に見えない形にないものまで引き継ぐことができるのか』、『半分だけ肩代わりするなど肩代わりの度合いを調節することは可能なのか』、『体格の違う人間、例えば幼児が体表面積の十パーセントほどの火傷を負ったとして、それを肩代わりした場合、成人のエンダーも体表面積の十パーセントの火傷を負うのか』、『肩代わりと言われるとマイナスなものを引き継ぐイメージだが、単に交代できる能力であるならばマイナスものだけじゃなくプラスなものともとって代わることができるのではないか』等など……検証したい事柄が山ほど湧いてくる」
放っておいたらいつまでも語り続けそうな勢いで意見する暇もない。ようやく手番が回ってきたと思いきや、ネヒリム教授のエンダーラブに当てられてすっかり胸焼けしそうだ。発言する気力も失せてしまった。
もし、この人がエンダーの能力を持っていたら喜んで自分の体を使って実験と検証を繰り返すんだろうなあ。僕にはそんな気概はないけれど。
本人には聞こえないように小言でもらす。
「ネヒリム先生みたいに考えられたら僕もこの運命を素直に喜べたんだろうなあ……」
「何か言ったかね?」とこちらを窺う教授に、
「いえ、何でもありません」と定型文を返す。
余計なことを口走ったのが災いしたのか、ネヒリム教授の我慢もどうやらここいらが潮時な様子だ。……さっきからずっと視線のギラつき具合が半端ない。
「なにはともあれ……。どんな超常現象も実際にこの目で見ない限りは空想に過ぎない。早速だが実際に試してみようではないか」
「え……? 今からですか?」
徐に。ネヒリム教授は実験台の引き出しからカッターを手に取り――スライドさせた刃を親指に這わせる。指から滲み出た血を僕に見せつけながら、言う。
「さあ、リックス君。私の血を舐めたまえ」
途端に。全身の毛が逆立つ。……所謂鳥肌というやつだ。
「いや、先生……。それはちょっと……」
そうこうしている僅かな間にも。ネヒリム教授は実験台を回り込んで僕が座る椅子の傍までやって来ては親指を眼前に突き出し、言い寄ってくる。
「さあ、何をしている? 早く舐め取るんだ」
…………。まじで、何を言ってるんだこの人は? これ、何ていうハラスメント?
「や、ですから……。それは流石に……」
頑なに拒む僕の肩を、ネヒリム教授はがっつりと掴む。
「この一分一秒すら惜しい。さあ――さあ、早くっ」
教授の鼻息が荒い。この変人から感じる過去一の気持ち悪さに肌が悪寒で波打つ。
「あ~~……あのっ、急用を思い出したんで帰りますっ」
咄嗟に。席を立つと同時にダッシュで逃げる。
「ムッ。待ちたまえリックス君!」
背にかかる声を無視し教室から急いで飛び出すのであった。
――二月一日。
昼休みの食堂にて。いつもの角っこのテーブル席をダグと二人で陣取る。
テーブルの上にグデっと体を預けたダグが生気の抜けた声を出す。
「なあ? もう二月になるってのに、アーシュの奴まだ許しちゃくれないんだぜ?」
よほど堪えているのか、虚ろな目で皿の上のパスタをフォークで延々と巻き取り続けるマシンと化している。どうやら最近のパスタ巻き取りマシンの作業着は、紺のジップアップパーカーにカーキのモッズコード、下は白のチノパンという組み合わせが主流らしい。
僕の方はと言うと、三学期に入ってからフリースジャケットとストレッチパンツのローテーションを繰り返している。なんだか勉強以外の面でもメアと考え方が似てきてしまった。
「毎度僕に言われてもなあ。なんとかしてやりたいけど、そればかりは力になれないぞ」
三学期早々、ダグが洗いざらい白状しメアとアーシュの二人に謝罪してからそろそろ三週間といったところか。――おっ、このグリルチキンおいしいな。
食事中にあまり見たくはない鬱陶しいツラを僕の視界にカットインさせながら、パスタ巻き取りマシンはエラー気味に頭を抱え出す。
「もぉ~、どうすりゃいいんだよお~。勝手な噂広めてた件、メア先輩本人は許してくれたってのに、むしろアーシュがそっちの方であんなに怒るなんてよお……」
そのアーシュがご立腹になってからというものの、昼休みはダグは僕と、アーシュはメアとで別々に分かれて行動するようになった。メアとは毎回講義終わりにポロで勉強会しているからまだいいのだが、アーシュと話す機会が減ってしまい、僕としても寂しくはある。
「まあ怒る気持ちもあるんだろうけど、お前の気持ちを知って会うのが気まずいから顔を合わせたくない、ってのも少なからずあるんじゃないかと思うけどな」
――とメアから又聞きしたアーシュの近況をさりげなく伝えておく。
ダグは片眉を上げ、懐疑的な視線を僕に送る。
「あのアーシュが? 気まずいとか思うタマか?」
「ああ見えても一応レディなんだぞ。そもそも何て言われたのか、今一度思い出せって」
途端に落胆した顔つきになるダグ。
「つまんねえことしてんじゃねえぞって」
「それから?」
更にトーンダウンした調子で返ってくる。
「あたしに惚れられたかったら回りくどいことしてねえでテメェの体一つで当たりにこいやって」
「実にアーシュらしいよな」
こんなに清々しい答えもあるまい。アーシュの男気に優る男になれれば彼女も振り向いてくれそうなもんだが、
「だからこれからは隙あらば背後からタックルしてみようと思ってる」
「絶対そういう意味じゃねえだろ」
どうにもこいつの発言からは男気の欠片も感じられない。
「タックルの練習するのにラグビー始めてみようかと思うんだけど、どう思う?」
「どうしてお前はいつも間違った方向に進んでしまうんだ?」
「はぁぁ……」と盛大な溜め息をもらし、テーブルに突っ伏す。普段の陽キャな面が鳴りを潜めてからかれこれ三週間ほど、ずっとこんな調子だ。
毎度昼休みにこれの相手をずーっとさせられてみろ。いい加減僕も面倒になってきて、
「そのうち許してくれるだろ」と希望的観測で放り投げる。
まともに取り合わない僕に、
「……俺の話はもういいさ。それより――そっちはどうなんだ?」
ダグもこの議題を取り下げ、次なる議題に進む。
「どうって?」
「いつになったらメア先輩に告るんだよ」
「またそれかよ」
ガバッと起き上がったダグは、恨みがましい目つきをこちらに向ける。
「メア先輩の気になってる人がリックス以外に見当たらないからだろ! 実は付き合ってるんですって言われてもおかしくないお前ら二人をずっと見てると、こっちまで悶々としてきて自分以上にもどかしいんだよ!」
「別に見せつけてるつもりはないんだけどな……」
ダグは指の代わりにフォークの先でこちらを差すと、きっぱりと断言する。
「メア先輩ってアーシュと違う意味で近寄りがたいオーラあるじゃんか。普通の男子ならヒヨって声かけらんないあの高嶺の花がリックスにはあんだけベッタリ懐いてるんだぜ? あんなん好意以外の何物でもないだろ」
僕とメアって傍から見てもやっぱりそう見えるのか……。まあ最近はメアの方が忙しすぎてそんなにベッタリってこともないけれど。恋愛恐怖症だというメアが僕の好意に気づいているかは分からないが、少なくとも嫌がってる素振りは見られない。……のはず、なんだけど…………。
「好意を持ってくれてるとは思う。……けど、何て言うか……」
言語化するには難しい、あの微妙な距離感をどう説明したらよいのやら。
「たぶんメアにとっては付き合うまでいかない今の関係がちょうどいいっていうか……口にはしないけど一緒にいるとなんとなく、このままでいて欲しい、っていう願望みたいなものを時々感じるんだよ」
やれやれと両手を上げ、呆れた様子でダグは言う。
「相手がどう思ってるかもそりゃ大事だけどさ、ときには俺みたいに当たって砕け散るのだって大事なことだと思うぜ? じゃないといつまで経っても悩み続けることになるぞ」
「……要は自分だけは嫌だからお前もこっち側へ来いってことか」
誤魔化すかのようにダグはそっぽを向きわざとらしく口笛を吹く。コイツ……。
溜め息を一つ吐いてから言う。
「はぁぁ……。一応、僕だって考えてないわけじゃないさ。ただ今はメアは早期卒業、僕は退学回避っていう優先すべき大事な目標がそれぞれあるから、告白するにしてもそれらが無事に解決した後だな」
……そう。今は恋愛なんてしてる余裕は僕らにない。もう一ヶ月後にはお互いの運命を決める期末試験が控えているからだ。メアはもちろん、僕もこの半年以上は勉強だけに心血を注いできたんだ。努力が無駄にならないよう、恋に現を抜かしてる場合じゃない。
だが。逆に言えばそれさえ無事に終えれば……長年の目標だった早期卒業が叶えば彼女だって何にも憚られず自由に恋ができる。『私たちの間に恋愛感情を持ち込むのは禁止』という協定も晴れてきっとなくなるだろう。なのでお互いの目標が達成できたタイミングで告白するのがベストだと前々から考えてはいた。何はともあれ、告白の具体的なことを考えるのは退学を回避できてからだ。
ダグは腑抜けた声を上げ、うなだれる。
「うへぇ~……。ってことはあと一ヶ月は焦れったいお前らを見ていなくちゃいけないわけかあ。あぁ~、これはもう今年のもどかしいで賞ベストワンっすわ~……」
「もう今年のベストワン確定かよ」
勝手にもどかしがってるダグを放って食事の手を進める。
それから少しして。
「やっ。おはよ」と思いがけず背後から声がかかる。
顔を見ずとも聞き慣れた声で分かるが、こっちに来るとは思わずびっくりして振り返る。
「アーシュ……!?」とダグも驚きを露わにする。
こちらに手を振る仕草を見せるメア。やけにニコニコと微笑んでいるが……おそらく理由は、メアの斜め後ろで両手をパーカーのポケットに突っ込んだアーシュがむすっとした表情でそっぽを向いているのが原因だろう。少しでも場の空気を和らげたいのが見て取れる。
メアは独自の秋冬通学服であるレースブラウスとジャンパースカートに、ローズベージュのロングコートを着用。そしていつもの通学用のトートバッグを肩から提げている。毎回見慣れたコーデの着回しでも肩まで程良く短くなった髪がアクセントになり見飽きない。
アーシュは上は白地のトレーナーにゆとりのあるグレーのパーカーを羽織り、下は黒のレギンスに白のスニーカー。言うまでもなくポニテと耳周りは相変わらず。リングの金具がやたらついてて主張が強めのシェルダーバッグをこちらも肩に提げている。
ようやっと許す気になってくれたのかな、と視線に期待を込め、彼女たちに挨拶を返す。
「よっ。メア――っと、アーシュもおはよ」
「……うっす」
そっぽを向いたままのアーシュが、僕にも視線を合わせずに素っ気なく返す。
完全にはまだ許していない様子のツンケンとした態度に及び腰になったのか、それを目にしたダグは、
「あ~……」と引き攣った半笑いを浮かべ、
「邪魔しちゃ悪いし、俺席外しておくよ……」トレイを持ち上げ、そそくさと席を立つ。
「えっ!? ちょっ……、ダグ?」
予想外の反応に僕も困惑する。せっかく来てくれたのに話し合わないのかよ。
足早に彼女らの横を通り過ぎていくダグに、
「――おい」
とアーシュは振り向きもせず眉間に怒気を刻み、ぶっきらぼうに呼んだ。
その力強い一声に。ダグの逃足を踏んだ背もビクッと止まった。
アーシュは少しイラついた口調で、
「誰も邪魔なんて思っちゃいねえよ」
そう吐き捨て――続けて、
「……メアが、また四人で仲良くくだらない話がしたいって、うるさくゴネるから来てやったんだ。盛り上げ役のオメェがいねえと…………つまんねえだろが」
尻すぼみに……最後はぽつりとぼやいた。眉間の怒気も一転して失速し垂れ眉に。
剥き出しで空気に曝された不器用な情。それをダグも感じずにはいられないのか、どうしたもんかと後頭部を擦る。
「お、おう……。じゃあ……ちょうど暖めてたギャグあるから一つやってみよっかな……?」
少しの間の後。口元を微かに緩め、アーシュは温かみのある口調で言い放つ。
「……下ネタだったらぶっ殺すぞ」
「…………」と言葉なく俯き肩を落とすダグ。
――下ネタなのかよっ。それ以外ないのかよお前っ。よくこんな空気ん中でやろうと思ったなっ。色々ぶち壊しだよっ。とりあえず仲直りできてよかったよっ。
微笑ましくアーシュとダグと眺めるメアにも目で合図を送りながらサムズアップしてみせる。彼女のアシストがなければ仲直りはもっと先になっていたはずだから。
僕のサインに気づいたメアが、『ばっちし』というOKサインとともにウィンクを返す。
こうして――。四人のまたくだらない日常が戻ってきた。




