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【1-1】


「――お母さん……!? おかあさあああさん……!?」

 目の前に広がる血溜まり。飛び散った細切れの肉片――。その中心で横向きに倒れた母。

 鮮血に染まる雑草の上で背中まで伸びた灰色の髪を乱れさせ、青ざめたまま意識がない母に必死に呼びかけた。普段よりも冷たい母の片腕を揺すりながら必死に叫び続けた。

 忘れもしない茹だるような夏の日。きつい日差しがその日の最高潮ピークを迎えようとしていた頃。

 実家の裏手にある鬱蒼うっそうとした森の奥で、母と当時まだ五歳だった僕の二人きり。全身血塗(ちまみ)れの母は白のワンピースを真っ赤に染め、僕は怪我もなく汚れたズボン一丁。近くには僕が持っていた虫取り網と虫かごが転がっている以外に何もなく、森は虫の音一つなく不気味に静まり返っていた。

 どうしてこうなったのか……、思い出そうにも全く思い出せない。僕が目覚めたときには既にこの惨状が牙をいて待ち構えていた。最悪な災難に見舞われ、一人じゃ何もできない子供だった僕には母だけが頼りだった。

「お母さん……!! おかあ、――ッ?!」

 ふと。揺すった拍子に母の腕に隠れていたものがあらわになる。

 ワンピースの破けた胸元から顔をのぞかせた……胸の中心がえぐれ丸くくぼむほどの深い傷穴。穿うがたれた穴から剥き出しにさらされた血肉や砕けた肋骨ろっこつやらが視界に飛び込み、戦慄のあまり青ざめる。

 パニックの荒波に呑まれた脳をフル回転させる。母を仰向けにし大人のこぶし大ほどもある大きな傷穴から溢れ出る血を、僕の小さな両手を目一杯広げ、なんとかき止めようと試みる。

 だが。そんなことで血が止まるわけもなく……、どんどんと僕の指の間を通り抜け、母の体を伝って地面へと流れていく。

「…………ッ。なんで……っ、止まってっ、止まってよおおお……っ」

 目を閉じてもまぶたから涙がどんどんと溢れ出てくる。無力な自分が惨めに思えた。

 目の前で母が着実に死に近付いていくのを、す術もなく見ていることしかできないやるせなさで胸がいっぱいで、いっぱいで……今にも吐き出しそうだった。

「――リッ……、クス……?」

 母の微かな声が、僕の名を呼んだ。

 はっとして目を向けると、意識が戻った母のくすんだ灰色の瞳が朧気おぼろげに僕を見つめていた。

「――リッ、クス……? そこ、に……いるの……?」

「お母さん……っ。いるよっ。ここだよっ」

 咄嗟とっさに真っ赤に濡れた母の手を両手で握る。

 母は脂汗のにじんだ顔を歪ませ、息も絶え絶えに言う。

「へ、いき……? いた、い……とこ、ない……?」

「……ッ。うん……、大丈夫っ。それよりお母さんの方が……っ」

 それを聞いた母は安堵して表情をやわらげる。そして、薄らと口元に笑みを浮かべて言う。

「……リックスが、ぶじなら……いいの……よ……」

 それは、搾り尽くした出涸らしのような僅かばかりの笑みだった。

「良くないよっ。お母さんがいなくなったらやだよっ」

 泣きながら母の腕にしがみつき、血塗れたその肩に顔をうずめる。

「やだっ、やだよおおっ。いかないでっ、僕を一人にしないでよおおおっ」

 ……嫌でも分かった、五歳の僕でも。これがきっと母との今生こんじょうの別れになるだろう、と。

「――リッ……クス…………」

 泣きすがる僕の頭に、母が手を乗せる。

「……だ……じょ、ぶ……、だい……お、ぶ…………」

 耳元で母がいつもの口癖である言葉を途切れ途切れに……泣きそうな声で囁く。血のしたたる手でいつものように優しく僕の頭を撫でる。

「おとうさ、もいるし……ひとり、じゃないわ…………。これからは……ふたりで、きょうりょ……して、やってくの……よ……?」

「…………ッ」僕はぶんぶんと頭を横に振った。ここでうなずいたら母がどこか遠くへ行ってしまうような気がしたから。

「もう……、こまった、こね……」

 僕の無言の返答を察した母は上擦った調子で言うが、震えているのは僕だけじゃなかった。

「リックス……、ひとつだけ、やくそくして……」

 顔を上げて母を見ると、いつもどんなときも絶やさなかった笑顔はそこにはなかった。

 母は、真剣な目つきで――見えているのかも怪しい目で――僕を見据えていた。

「あなたも、いつか……じぶんよりも、たいせつなものと……であう、ひがくる……。そのときが、きたら……そのきもちを……まもれる、こに…………なって……ね…………」

「………………」

 幼い僕でもなんとなく意味は分かった。ただ母の言葉には、もっと特別な意味が込められている気がした。当時の僕には、言葉の裏の意図するところ、言わんとするところの真意までは計り知れなかった。

 答えられないまま……頷けないまま……、非情にも時間だけは変わらずに流れていく。

「おかあさんとの……やく……、そく……、よ…………」

 それが……。母がのこした最期さいごの言葉だった。

 その後しばらくして。僕の号泣する声を聞いた父が血相を変えて駆けつけたが、時すでに遅く……母が天へと旅立った後だった。



>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


 ――あれから約十四年後。


 今年の春から始まった一人暮らしのカレッジ生活も随分とこなれてきた。ほとんど山と畑しかないド田舎村から上京し、右も左も分からぬ都会の地で一人でやっていけるか不安だったけれど、いざ住んでみれば自由気ままな一人暮らしってのも案外良いもんだ。

 強いて不満を一つ挙げるなら、部屋に引きこもり都会の喧噪をBGM代わりに夜遅くまで勉強していると、時折故郷の山や川、鈴虫や鳥たちの奏でる環境音が恋しくなるときがある。

 余裕があれば休日に郊外まで出て登山や川釣りを満喫したいところだが、山積みの提出課題やレポート作成に追われ一歩も家から出ずに休日を終える日も少なくない。

 ――そう。なんせ僕が在学しているクリスティアナショナルアカデミアはヴェルタリア大陸一卒業するのが難しいと言われているカレッジなのだ。進級するには高水準の成績を修める必要があり、進級の条件を満たせなければ問答無用で退学させられてしまう。またよほどの理由がない限り留年さえも許されない。

 まあカレッジといっても実態はあらゆる専門分野の研究施設が集まった公的研究機関としての側面が強く、入学してくる学生たちも将来は何かしらの研究職を志している者が多い。

 卒業するまでに良い成績を残せればそのまま研究員としてクリスティアに残り、最高峰の環境で研究に専念できるので、学生たちの勉学に対する意欲は高い。言い換えればそれだけ競争意識も高い。

 講義はどれも専門用語が飛び交う難解なものが多く、予習と復習してこないと全くもって理解できないので家に帰っても勉強漬けの毎日だ。それでも講義中に分からない部分が出て来るので、遅れを取り戻すためにも休日に遊んでいる余裕なんてない。

 しかしながら……。どれだけ寝る間を惜しんで休日を返上してまで勉強に励んでも成果は一向に現れない。考え得る限りの努力を尽くしたがこのザマだ。はっきり言って万事休す。このままじゃ未来はない。

 ……つまり。何が言いたいかって言うと、僕のカレッジ生活はたった三ヶ月で既にもう崖っぷちってことさ。



 七月十一日。

 周りは山ばかりの田舎村で育ったせいか、子供の頃はよく木に登って遊ぶ習慣があった。

 流石に大きくなるにつれ頻度は激減していったが、都会に出てきた今でも稀に木に登りたくなる衝動に駆られるときがある。そういうときは決まって何か悩み事があるときで、木の上でボーッとうたた寝でもしたくなるのだ。

 ふと人気ひとけがない場所に木々が生い茂っていると、ついつい登れて休めそうな木がないか探してしまう自分がいる。なので学園内で一人で黄昏たそがれたくなったとき用のベストスポットは既にリサーチ済みだ。

 と言っても、こんなに早くにここを使う機会が訪れようとは思わなかったけれど……。

 学園北東の一番端に位置するアストラル観測研究棟――の裏手にある庭。まあ全く手入れがされず草木が緑一面に鬱蒼うっそうと生い茂っているので、庭と言うよりかは雑木林に近いのだが。

 この辺りの一角だけカレッジの敷地内と外を隔てるコンクリの壁に囲まれていること、また他の施設からも離れている点や、そもそもあまり人気がなく専攻している学生の数が少ないため、ほとんど人が寄りつかないのだ。

 今みたいなお昼時は閑散としている。一週間続いた前期試験が明けたばかりで、今日はどの講義も午前中だけなので尚更人の気配がない。

 ベストスポットには三階建てくらいの高さはある大きなヴェルタリーウォルナットの木々が立ち並んでいる。ちょうど今ぐらいの時期に収穫できるよう品種改良されたものであちこちに小粒の胡桃クルミを実らせている。

 そのうちの適当な一本に目を付け、暗色の樹皮の出っ張り部分に手足を掛けよじ登る。上まで来ると太い枝に腰掛け、頭の後ろで両手を組んで木に寄り掛かり足を伸ばす。

 ちなみに。クリスティアに制服はなく服装は自由なので、今日の僕はヨレヨレのTシャツに七分丈のズボンという、寝間着と見間違えられてもおかしくない格好だ。

 友達が制作したデモ音源をワイヤレスイヤホンで流しながら、直面している現実から目を背けたくて遠くの青い空をしばし眺めていたが、

「…………」

 ずっとそうしているわけにもいかず……おもむろにズボンの後ろポケットに手を伸ばす。

 中から出てきた四つ折りの紙を空に掲げ一度は重たい視線を投げつけるも、観念して用紙を広げる。そこに印字された何度見ても変わらない現実をしかと見つめ直す。


 ――成績通知表

 学籍№EF99―3813―6514S  氏名 リックス・アスクレイ

 前期課程暫定(ざんてい)GPA【2.2】 ※勧告 進級するには40単位以上の単位数と前期、中期、後期を合わせたGPA平均値が【3.0】 以上の成績を修める必要があります。GPA平均値が【3.0】 未満の生徒は、規定により退学処分となります。


 クリスティアでの成績評価は一般的なGPAグレードポイントアベレージ方式だ。GPAに関しては詳しい説明ははぶくが、ざっくり言うならこれまでに取った全科目の成績の平均値を求めたものだ。

 クリスティアの成績は五段階評価で、

 S(90点以上)=4(GP)

 A(89~80点)=3

 B(79~70点)=2

 C(69~60点)=1

 D(59点以下)=0――と定められている。

 前期のGPA【2.2】 は成績で言えばBの下の方で、仮に中期までに進級に必要なGPA平均値【3.0】に到達するとなると中期課程にて最低でもGPA【3.8】 以上が必要で、ほぼほぼSしか許されない成績が必要になってくる。


 成績表越しに見える自分の心模様とは相反する晴天がわずらわしくて目をしかめる。

 クリスティアに入学してから早三ヶ月。これでも学力エリート勢との差を縮めるために必死になってやってきた。……努力してきたつもりだった。

「…………。まだ足りないってか……」無意識に呟いていた。

 思い切って背伸びして難関であるクリスティアに入学できたまでは良かった。ただいざ入学したら当然周りは秀才な奴ばかりで話は合わないし友達も中々出来やしない。次第にレベルの高い授業にもついていけなくなり気付けば落ちこぼれまっしぐらだ。

「はああ…………」

 深い溜め息とともに。成績表を元の後ろポケットにしまう。来週末にはようやく夏休みに入るっていうのに気分は最低のどん底だ。

 一旦気持ちをリフレッシュするため、右ポケットからここに来る途中の自販機で買ってきたマナマックスΩ(オメガ)――二百ミリリットルサイズの紙パック式エナジードリンク――を取り出し、ストローをし込む。

 片手を頭の後ろに置き、いざ飲もうとストローに口を付けた矢先、

「――メア先輩! 俺、やっぱり先輩のこと諦めきれないんすよ! お願いします! 俺と付き合ってください!」

 何やら後ろの方から威勢の良い男の声が響いてくる。

 思わずイヤホンを外し反射的に木の陰から振り返って覗く。十メートルも離れてないほど辺りの一際大きな大樹の手前に二人組の人影が見える。鬱蒼うっそうとした林を通る獣道みたいな小道の上で向き合う男女の姿。

 手前側の胸元がはだけた派手めなシャツにハーフパンツ姿の男。クリスティアの学生には見えない金髪でチャラそうな見た目だ。……よし、ひとまずチャラゴールドと命名しよう。そのチャラゴールドが、奥側にいる困惑気味の女性に向かい、ちょうど頭を下げ手を差し伸べているところだった。

 よもやこんなところで告白現場に遭遇するとは。……なんて間が悪い日だ。僕はただ人気ひとけのないこの場所で一時いっときでも勉強の重圧から解放されたかっただけなのに。

 とは半分思いつつも……。告白された相手の名前に覚えがあったのでまったく興味がないわけでもない。なんせ男から告白された女性は、入学してから三ヶ月余りの僕ら一年生でも誰もが知っている超有名人で、何より今一番ホットな話題でこの学園を賑やかせている人物だからだ。

 メア・ハーヴィッツ――エーテル学部、エーテル技術開発科、医術工学専攻第二研究室チーム所属の三年生。可憐な容姿と三年生トップの成績優秀者でなにかと話題に上がる学園の中心人物である。

 天才美少女とうたわれるその容姿は、小顔でシャープな輪郭の横顔に、翡翠ひすいのように透き通った目力のある大きな瞳と、すっきりとした鼻筋、そして艶のある桜色の唇……とどれを取っても気品があり、すらりとした体型も相俟あいまって非の打ち所がない。

 今日も今日とて毎度お馴染みのコーデだが、何度見ても見飽きない中毒性の魅力がある。葵色の長くあでやかな髪をサイドで結って肩から垂らしたヘアスタイルで、個人的には眉下のラインで切りそろえられた前髪が高ポイントだ。

 服装もいつもの、上は肩袖にフリルがついたオフホワイトの半袖ブラウスに、飾り気のない機能性重視の大きめのトートバッグを肩にげ、下は腰にベルトがついた膝下までのライトグリーンのフレアスカートにローファー、という組み合わせだ。

 清楚な見た目で良いとこのお嬢様然としたオーラが溢れ出ている。どうやら同じような服を何着も持っていて着回しているらしく、いい加減そろそろ僕の目も見慣れてきてもいい頃合いなんだが、気つけば自然と彼女に視線を引き寄せられている自分がいる。

 目を引く魅力は折り紙付きで、去年も一昨年もエルトバエル全土にあるカレッジ(およそ四千校の規模)で行われるミスコンイベントにエントリーされており、二年連続で総勢約一万ニ千人の中から事前の人気投票を一位で通過するという快挙を達したそうだ。二次審査枠の栄えある百名に選抜されたわけだけど、ファンの他薦たせんによるエントリーだったのと、学業以外の面で目立ちたくないという本人の希望で二回とも出場を辞退したらしい。

 っとまぁ、ついついメア先輩の華やかな部分に目が行きがちだが、学業に関してもここクリスティアでは誰もが知る秀才だ。先月彼女が発表したデッドロータスシンドロームという奇病に関する研究論文が、エルトバエル医学会が発行する学会誌に掲載され多くの反響を呼んだ。今や医学会の業界からも有望株として注目されている期待の星なのだ。

 さて。人の恋路を覗き見するのはあまり良い趣味とは言えないが、木の陰に隠れイヤホンをしまい、マナマックスΩにしたストローからエナジー補給しながら行方を見守ることにする。

 頭を下げたまま微動だにしない男子学生……じゃなくてチャラゴールドに対し、メア先輩は困惑の表情を顔に貼り付けたまま、不安そうに握った拳をブラウスの胸元辺りに添える。

 きょろきょろと辺りの様子をうかがっていたが、誰もいなくて安堵したのか、やがてチャラゴールドの差し出した手に視線を落とすと、メア先輩の口から表情通りの申し訳なさそうな返事が聞こえてきた。

「あの……。この前も言いましたけれど、何度言われても私には既に婚約者がいるのであなたの気持ちには応えられません。それに、今は勉学を最優先にしているので恋愛している時間なんてないです。なので……ごめんなさい」

 何度目かの玉砕をしたチャラゴールドの腕がぷるぷると震えているのが遠目にも分かる。

「…………っ。本当にそうなんすか……?」

「はい?」メア先輩がきょとんとして聞き返す。

 そこでようやくひたいを上げたチャラゴールドは大げさに腕を広げ声を大にして語気を強める。

「もうやめにしませんか! 皆とっくに知ってるんすよ! その左手の婚約指輪がただのおかざりの男避けで、ホントはそんな相手存在しないんだって!」

 チャラゴールドの不躾ぶしつけな物言いに、思わず僕の独り言がもれる。

「うわー……。あいつ切り込みやがったぞ…………」

 ――そう。彼は無謀にも学園内で今一番ホットでダーティーな話題の真相に触れたのだ。

 メア先輩には遠く離れた異国の地に婚約者がいる、という話は有名で、ここクリスティアでは友達もほとんどいないスクールカースト最下層の僕ですら知ってて当然の共通認識だ。

 だが。ここ最近になって『本当は婚約者なんて存在せず、男を避ける虫除けのために婚約指輪をしていただけ』という噂がどこからか出回り、今や学園のそこかしこで囁かれるほどに話題が沸騰しているのだ。

「…………」

 疑惑の渦中にあるメア先輩は、固い表情で左手薬指にはめた指輪を反対の手で握り締める。

 チャラゴールドから勘繰かんぐる視線の矛先を向けられようが、先輩は意に介した様子もなく涼しい顔つきで受け答える。

「……最近、私の良くない噂が広まっているのは耳にしていましたが、どうして私がそんなことをする必要があるんでしょうか。一体、私に何のメリットがあるって言うんですか?」

 苦い表情で拳を握り締め、チャラゴールドが言いにくそうにうつむく。

「それは……。――俺、全部聞いちゃったんすよ」

「? 何を、です?」

 困惑した顔でメア先輩が問うと、チャラゴールドはおもてを上げ意を決した表情で言いつのる。

「噂になってるんすよ! 先輩はホントは男より女の子の方が大好きだけどカミングアウトするのが怖いから、言い寄ってくる男を避けるために仕方なく偽の婚約指輪をつけて恋人がいるフリをしているんだって話を聞いちゃったんすよ!」

 装飾過多に膨れ上がった尾鰭おびれ話を暴露され、眉をひそめていたメア先輩から表情が消える。

「…………あの、聞き間違いだと思うのでもう一度お願いできますか? 私が誰より誰を好きだって言いました?」

「だから! 先輩は男より女の子の方が好きなんだってもっぱら噂になってるんすよ!」

「ふむふむ。つまりあなたは、私が男の人より女の子の方が好きで、それゆえに男避けのために婚約指輪をしているんじゃないか、とそう思ってるわけですね? なるほどなるほど――」

 メア先輩は目をつぶると、腕を組んで顎に手を置き一考する仕草を見せる。数秒ほど熟考した結果、雷に打たれたかのようにカッと目を見開き開口一番に叫んだ。

「えええぇぇー?! なんでそんなことにぃぃぃ!?」

 メア先輩は驚きのあまり口元に手を当て半歩後ろに仰け反る。

「――断じて! そのようなことはありません! それに! 女の子の彼氏も! 女の子の! かかかっ彼女もいませんからっ!」

 両拳を何度も振り下ろしながら慌てたメア先輩が抗議する。両目をぎゅっと閉じ赤面した様子で腕をブンブンと振る姿に――僕は思う。『なんだあのカワイイ生き物は』と。

 だが。つい最近、僕もその噂を小耳に挟んだばかりだ。

 ゴシップ好きでクリスティアでの数少ない友人Aから聞いた話では、クリスティアに入学する以前のメア先輩は名家や上流階級しか入れないような超お嬢様学校に通っていたらしく、そこでの厳しい校則や堅苦しい閉鎖的な環境での重圧がたたって次第に近しいクラスメイトたちに癒やしを求めるようになり、それがエスカレートした結果、同性に対し行き過ぎた愛情を抱くようになってしまった、とかなんとかで、正直、胡散うさん臭さがしょうもなさ過ぎて話半分に聞き流していたのだが。

 そんな噂を知っているからか、チャラゴールドは抗議の声に聞く耳持たずでずかずかと大股でメア先輩に詰め寄る。

「もういいんすよ! ホントのことを話してくださいよ先輩!」

「ちょ……、近い、近いですって……!」

 ただ事じゃないチャラゴールドの気迫に押され、メア先輩が両腕を突き出しながら一歩、二歩と後ずさる。それでもなお、勇みよく前へ出るチャラゴールドは声を張り上げ己の主張を頑なに続ける。

「俺、先輩のこと全部知りたいんすよ! 一緒に分かち合いたいんすよ! 例え先輩が女の子のが好きだとしても受け止める覚悟は出来てますから!」

「だからっ、違いますって言ってるじゃないですかっ。言いがかりで人の性的指向を決めつけないでください……っ」

「だったら男が好きだって証拠をちゃんと見せてくださいよ!」

 チャラゴールドに追い詰められメア先輩は後ずさるが、背後にあった大きな樹木に背中がぶつかり逃げ場を失う。

「証拠って言われても……。そんなの……証明できないよ…………」

 そう言って。眉を寄せたメア先輩はぷいっと顔を背ける。だが、チャラゴールドが先輩の顎を指でくいっと持ち上げ正面に向き直させる。

「俺が――先輩を本気にさせてあげますよ」

 メア先輩の肩に手を乗せると、チャラゴールドの顔がゆっくりと先輩の唇に迫っていく。

 瞬きできないハラハラドキドキの展開になぜだか僕の心拍数も上がっていく。自然とマナマックスΩを握る手に力がこもり、ストローを吸い込む速度も急加速していく。

 観念したかのように先輩が瞼をぎゅっと閉じる。

 そして。先輩の唇が奪われ…………る、

 ――すんでのところで、「ああ~~もおっ」とせきを切ったように声を発した先輩が思い切りチャラゴールドを突き飛ばした。

 尻餅をついた際にチャラゴールドの小さな悲鳴が聞こえたが、もはや先輩の耳には届いていまい。

「分かりました……っ。正直に話せば納得していただけるんですね…………っ」

 我慢の限界に達したメア先輩が両腕を振り下ろし、腹の底からわなわなと込み上げてくるような怒気を孕んだ声をもらす。先輩が大きく息を吸い込んだ――次の瞬間。叫び声が辺りに木霊こだました。

「――わたしっ、お股に何もついてない人しか愛せないんですうううううううっ」

「ブッフォォォ――――ッ?!」

 衝撃のあまり口一杯に含んでいたマナマックスΩが一斉に噴き出る。口から湧き出た黄金色の噴水が陽気な夏の太陽の木漏れ日を浴びてキラキラと煌めく。

「――――ッ?! …………ッ!?」

 いきなりのカミングアウトに危うくせかけ何度も胸を叩く。なんとかこらえ切り一旦冷静に顔面に飛び散った飛沫を拭うも、思考回路が未だ現実に追い着かない。

 いやいやいや……おそらく僕の聞き違いだろう。確かにメア先輩には男よりも女の子ラブな噂が流れているが、僕はまったくもって信じていない。

 先輩は聡明かつ絶世の美貌を持ち合わせながらも少しもそれを鼻にかけたりしない人格者だと聞いている。才色兼備に性格まで良しの無敵の三拍子をそろえた人気者だが、それに嫉妬してよく思わない少数のアンチ派がいることも確かだ。そうした一部の人たちがぶりっ子だのなんだのと陰口を叩いたり、先輩の心象を悪くしようとありもしないデマの拡散活動に勤しんでいる、という噂も耳にしている。

 だから今回の件も単なるアンチ派の印象操作に過ぎないと僕は見ている。だって。あの完全無欠なメア先輩に本当にそんな裏面があるわけ――

 そう思った矢先。メア先輩から怒濤の早口ラッシュが繰り出される。


「すりすりしたらジョリジョリしそうな肉感のある太腿の女の子が好きっ。美人だけど笑うと白目になっちゃうちょっと残念な女の子が好きっ。フクロウみたいに首が百八十度後ろに回る軟体動物系の女の子が好きっ。音楽を聞くと急にスイッチが入って歌って踊り出すミュージカル体質の女の子が好きっ。『それなー』だけで大抵の会話を成立させちゃう謎のコミュ力を持っている女の子が好きっ。押すなよ絶対押すなよって言われたら押さずにはいられないサービス精神旺盛な女の子がすぅっきいいいいいいいいいいっ」


 噛まずに止まることなく言い切ったメア先輩が思い出したかのように肩で息をする。

「………………」開いた口が塞がらなかったのは言うまでもない。

 いや、まじかよ……。そんなまさかの裏面しかなかったぞ…………。しかもどいつもこいつも好みが強過ぎる変態だらけのオンパレードじゃないか。……そっか、きっと先輩は勉強のしすぎで恋愛センサーがぶっ壊れてるんだ。そうに違いない。恋人を作らないんじゃなくて、ただニッチな需要に応えられる相手がいなかっただけなのか。

「メア先輩……」なんだかとても不憫に思えてきてあわれみの視線を向けざるを得ない。

 それはさておき。

 メア先輩のあおい瞳から放たれる鋭い眼光が、唖然とした表情を浮かべ尻餅をついてから未だ動けずにいるチャラゴールドをとらえる。

「これがあなたの知りたかった真実です。ここまで言わせたんだからもう十分ですよね?」

 合意を求められるも、目をぱちくりさせたチャラゴールドは口をだらしなく半開きにさせたままメア先輩を見上げるだけだった。彼が混乱して二の句が継げずにいる隙に「失礼しますっ」とメア先輩は逃げるように広場の方に走り去っていった。

 一人取り残されたチャラゴールドはよほどショックだったのか、しばらく同じ姿勢で放心しきっていたが、五分以上経ってからようやく立ち上がり生気の抜けたフラフラした足取りで帰って行った。

 哀愁が漂うチャラゴールドの後ろ姿が完全に見えなくなるまで見届けたところで、

「ようやく行ったか……」

 バレやしないかとハラハラしたが……僕も枝から枝に足を掛けゆっくりと降りていく。

 地面に着地したのも束の間。思わず腕を組み指で顎をさする。

「…………」

 少しの間勉学を忘れてボーっとするつもりが、何故だか現在行われている脳内会議では『メア先輩が男より女の子好きだった噂が本当だった件について』をもっぱら審議進行中である。

「とんでもないところに出くわしてしまったな…………」

 クリスティア史上でも類を見ないほどの完全無欠とうたわれているあのメア先輩がまさか本当にそっち側の御方だったなんて。噂以上の驚愕の事実だ。

 ――あ、たった今、脳内会議では五人の僕の分身たちによる話し合いが進められているが、メア先輩ことメア・ハーヴィッツが『これまでの人生で遭遇した変な人ランキング』の第二位に全会一致で認定されたようだ。上京してからここ数ヶ月の間に早くもトップ(ワン)とトップ(ツー)が更新される緊急事態となっている。……とけぇはおっかねぇとこだっぺ。

 ここでの生活も早三ヶ月。クリスティアがある首都クリスタッドは色んな人が集まる人種のジャングルだって聞いていたけどホントだったんだなあ、と顎をさすりながら舌を巻く。

「…………」――はて? 僕は一体どうしてこんな取り留めのない話に神経細胞ニューロンの無駄遣いをしているのだろう。もはや思考が取り散らかってて黄昏たそがれている場合じゃないな。

 今日のところは一旦帰るとするか……。

 木登りする前に根元に置いておいたリュックを肩に引っ提げ、来た道を引き返す。帰る道すがら今し方のメア先輩の発言をあれこれ考察してみる。

「どう考えても首が百八十度後ろに回ったら絶対死んでるよな……?」

 どうやら家に帰ったら軟体動物系女子とかいう存在すら怪しいアンデッド族について調べてみる必要がありそうだ。

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