【2-6】
――二時間後。
丸テーブルに置かれたキャンドルスタンドの橙色の明かりが消灯された暗いリビングを濃淡に染め上げる。揺らめく炎がその手前に置かれた皿の上、一ピースのチーズケーキを静かに照らし出している。キャンドルもケーキもお店が閉まる前にダッシュで買ってきた間に合わせのものだが、それなりの雰囲気は出ているだろう。
夕飯と風呂を済ませ寝間着に着替えた僕は、クローゼットの奥からダンボールにしまった少々古ぼけた小さなアルバムを取り出してきてテーブルの中央に置く。普段はテレビ横の使ってない背もたれ付きの椅子に立てかけて飾ってあるものだが、メアが泊まりに来る際に今日の日のことを悟られないように念のため隠しておいたのだ。
カーペットの上に座り、たった数ページしかないアルバムを開く。
「――ごめん母さん。遅くなって」
最初のページに収められた写真の中で、まだ生後数ヶ月の僕を抱え、柔和な微笑みを浮かべる母に向かって言う。
髪がショートだった頃で二十四、五歳あたりの若かりし母の姿。父曰く、僕の顔立ちは母似だそうで特に目元が瓜二つだそうだ。村のお年寄りたちからはラズリンド一のべっぴんと呼ばれていたが、そもそも若い女性たちは皆村を出て行ったあとは大抵戻ってこないので、父とともに外から村に移住してきた母みたいな若者は大変珍しかったのだろう。
母が好きでよく作っていたというチーズケーキを乗せた皿をアルバムの前にお供えする。
「今年もいつもの買ってきたよ。去年までとは違う店のやつだけど」
この一年は何よりクリスティアに入学できたことの変化が大きかったので、ここ最近の特にクリスティアに入学してからの話を報告する。
「三年生に尊敬している先輩がいてさ。メアっていう女の子なんだけど、あのクリスティアに二年飛び級して合格してて僕と同い年なんだ。それだけでもすごいのに早期卒業を目指してて一年早く卒業しようとしてるんだよ。なんかもう次元が違いすぎて笑っちゃうよな」
「でさ、なんの因果かたまたま偶然に三日間連続でメアが告白される場面に遭遇しちゃって、ひょんな事から協力し合う関係になったんだけど――色々訳あってしつこくメアに迫ってくる相手を騙すためにオネェに扮して彼女の恋人役をする羽目になっちゃってさ。しかもその騙す相手っていうのがびっくりなことに隣国シェザーリアのシーゼル王子だったんだよ。メアもあんなイケメンな王子様からの告白を断るなんて何考えてるのかわっかんないよなあ」
「それでここで合宿するためにメアの両親を説得する必要が出てきて、彼女の家に招待されたんだけど今度はなぜか女装させられてさ……。そりゃ男の家に泊まるなんて言ったら許可してもらえないのは分かるけど、たぶん僕のこと玩具にして遊んでる部分もあると思うんだよな。あと、そのメアんちがすんごい豪邸で――」
「で、上手くいって合宿も無事にやり遂げたんだけど――」
話し込むうちに気づけばクリスティアから逸れてメアの話ばかりになってしまった。話したい出来事がたくさんあって一日じゃ足りないくらいに話の種が尽きない。それだけ濃密な時間だったのか、どれも印象深くてくっきりと記憶に刻み込まれている。
どれくらい話しただろうか、夜が深まるにつれ眠気が増してくる。
「ふあぁぁ……」
合宿の疲労が体に色濃く残っており欠伸が出る。重い上半身をテーブルに預け、うつ伏せになる。
「――母さん……、クリスティアに入れて……良かったよ……」
意識が遠のく。瞼の裏に浮かんだ母が記憶と変わらぬ笑顔で応えてくれた気がした。
――ピンポーン、とインターホンの音で目覚める。
「んあ? ……やべ、寝ちゃってた…………」
体を起こす。いつの間にかキャンドルの灯火も消え部屋が暗い。近くに置いてたスマホのスリープモードを解除し時刻を確認する。――午後十一時半頃。……たぶん二時間ちょっとくらい寝てたみたいだ。
再度。インターホンが室内に鳴り響く。
「ううぅ~……。誰だよ、こんな夜遅くに……」
寝ぼけた頭には少々堪えるやかましさだ。ゆっくりと立ち上がり、重い足並みでインターホンのモニターに近づき非常識な相手の顔面を睨み付ける。
そこに映っていたのは葵色のストレートヘアに翡翠の瞳を持つ少女。見覚えがあるロゴ入りの白のタンクトップに、水色で長袖のストライプシャツを上に羽織り、心許なく片肘を抱き寄せ佇んでいる。
その姿に目を丸くして通話ボタンを押す。
「――えっ!? メア? どうしたの?」
画面越しにこちらに気づいたメアは恥ずかしそうに苦笑いを作り、緊張した様子で言う。
「あ、リックス? ごめんね、こんな夜分遅くに。――とりあえず中に入れてくれるかな?」
「え? ああ……。いいけど……」
何事かと思いつつもオートロックを解除する。メアは突然来訪した理由は答えずに「ありがと」とお礼だけ述べ画面から消えていった。
ひとまず。暗い室内の照明をつける。バタバタとテーブルに残ったケーキを冷蔵庫に入れ、アルバムやキャンドルなどを片付けている間にチャイムが鳴り、慌てて玄関ドアを開ける。
「やっ、さっきぶり」
四時間ほど前に別れたときと変わらぬ格好のメアがそこにいた。少し固い笑みの横で手を振っている。
「どうしたの、こんな時間に? 帰ったんじゃなかったの?」
「家には一度帰ったよ。――でも、やっぱりちゃんとしてあげたくて」
「帰ったって……」
『ここからメアの家まで往復したら三時間はかかるよな?』という疑問を一旦呑み込む。
「終電は? これから帰れるの?」
特に気にした様子もなく、メアはあっさりと答える。
「さあ? どうだろ?」
「さあって……。――ってか、ちゃんとって何のこと?」
個人比五割増しで分からん尽くしのメアの言動に片眉を上げ顔を顰める。そんな僕を見てメアは後ろで両手を組んで「えへへ」と答えになってないにやけた笑みを向ける。
メアの格好は変わらないが一点だけ違う点がある。キャリーバッグの代わりに通学バッグとして使っていた大きめのトートバッグを肩に提げており、彼女はそこから小さい手提げの紙袋を取り出す。それを両手に持ち、僕に差し出す。
「これを、今日が終わる前に渡したかったの」
よく見れば紙袋に老舗デパートの名が入っている。
「何? これ?」
事態を飲み込めずぽかんとした顔で受け取った僕が訊き返すと、
「十九歳のお誕生日おめでとう」
メアがにっこりとそう答える。
「えっ」
紙袋の口を開いて覗き込む。――華やかな包装紙に包まれた小物が入っているのが見える。
「わざわざプレゼントを渡しに?」
頬を掻きながら笑顔を半分苦笑に崩して、メアは言う。
「うん。その……いきなり押しかけたら迷惑かとも思ったんだけど、知らなかったとはいえ誕生日を勉強会で潰しちゃったのは私のせいだし、このままリックスが独りぼっちのままで明日を迎えたら、自分に悔いが残りそうで……。やっぱり誕生日はハッピーなままで一日を終えたいじゃん?」
どうやら未だに誕生日の件を気に病んでいたらしい。きっといくら僕が気にしてないって言っても気にしてしまう義理堅い性分なのだろう。……なんというか、人の面倒事に首を突っ込みたがる僕の性分と少し似ている気配がして、ふと笑みが零れる。
「ありがとう。――メアってあれだよな。一週間もつきっきりで勉強の面倒見てくれたり、今日中にプレゼント渡したいからって戻ってきてくれたり……、人のこと言えないくらいにお節介だよな」
一応褒めたつもりだったが、嬉しくなさそうに眉尻を下げたメアは視線を横に逸らす。
「別に……そんなこと……」
ぽつりと謙遜するも……それも瞬く間の出来事で、
「っていうか、リックスほどじゃないと思うんだけどなあ」
すぐさま強気な笑みを交えて言い返す。
「…………」
元々母さんの用事があったから一人の時間が欲しかったわけだが、複雑な事情を言わなかったのがかえってメアに余計な気を遣わせる羽目になってしまった。こんなことならちゃんと説明しておけば良かったと我ながら不甲斐なく思う。
「とりあえず、立ち話もなんだし行く場所ないなら中入りなよ」
「うん。入る」
メアをリビングに通すなりもはや勝手知ったる我が家といった感じで真っ先に専用と化したクッションに吸い寄せられていく。女の子座りで腰を下ろし傍らにトートバッグを置いた途端、目の前の丸テーブルにべったりと上半身を投げ出して寛ぎ始める。
「はぁ~、ただいまぁ~」
よほど疲れてたのか残業で帰宅するなり力尽きたOLみたいな言い方でちょっと面白い。
「おかえり」
隣に座りつつ、紙袋からプレゼントを取り出す。
「プレゼント開けていい?」
ビクッと体を起こしたメアはこっちを見て背筋を伸ばす。
「うん。もちろん」
ちょっと緊張した笑みを浮かべているメアの前でラッピングを剥がす。
出てきたのは眼鏡ケースのような黒い箱。マグネット式の蓋を開けてみると、
「――ボールペンだ」
中にはエボニーに似た質感のボールペンと、同じく木目調のプレート状の形をしたものが入っていた。ペン先とクリップ部分に真鍮のパーツをあしらった見た目はいかにも上質そうで、普段僕が使っているその辺の雑貨店の文房具コーナーで買ってきた安価なボールペンとは比べようもない。
「シャーペンとしても使えるんだよ」とメアの一言に、
「えっ、すご……」と驚きが口を衝いて出る。
メアは髪を耳にかけながら不安げな上目遣いで僕のリアクションを窺う。
「考えたらリックスの好きなものってまったく知らなくって……。あれこれ悩んで最終的に勉強に役立ちそうなものの中から私の好みで選んじゃったけど…………どうかな?」
正直、老舗デパートの紙袋から予想してプレゼントでよくあるタオルやハンカチの類いかな、と思っていたので良い意味で期待を裏切られた。普段の勉強や講義中にノートを取ったり、レポートを直接書くときにも自分はボールペンを使うので重宝する。
「ボールペンめっちゃ使うし嬉しいよ。嬉しいけど……こんな高そうなものもらって大丈夫なの?」
安堵の笑みを浮かべてメアは言う。
「大丈夫。それの色違いのやつを私も使ってるけど、たぶんリックスが思ってるよりも高くないよ」
おそろいと聞いてテンションがちょっと上がる反面、別のところで気が引ける。
「うーん……。メアの高くないはあんまり信用できないからなあ」
メアは少し心外といった感じでこちらを見て言う。
「なんでよ」
「だってあんな豪邸に住んでるお嬢様だし」
溜め息混じりにメアは肩を竦める。
「はぁ……。自分ではお嬢様だなんて思ってないのに周りはそういう風には見てくれないんだよねぇ……」
いっそ開き直った様子でメアは続ける。
「まあでも、大体私のランチ代五回分くらいだからそんなに高いものじゃないはずだよ」
「お嬢様のランチ代の相場がいくらか分からんから結局分からんな……」
ちなみに。セットで入っていた木目調のプレート状のものはUSBメモリだった。授業で使用したデータやレポートを保存して待ち運びすることが多いのでこちらも欠かせない必需品だ。
改めてお礼を告げる。「喜んでもらえたなら良かった」と満面の笑みで言うメアを見て、胸の内がモヤる。
いらないと伝えたプレゼントをわざわざ用意して届けに来たこの愚直なお人好しをこのまま手ぶらで帰すのは良心の呵責に苛まれる。それに事情も話さずにプレゼントだけもらうのはフェアじゃない。
メアに見せたいものがあると伝え、先ほどしまったアルバムを取り出してきて再度丸テーブルに置く。僕が胡坐を掻いて座ると、メアはぴったりと右隣に引っ付き興味津々の様子で目を輝かせる。
「それってアルバム? もしかしてリックスの小さい頃の?」
「まあ……確かに小さい頃の僕も写ってるけど」
アルバムを開き、最初のページに収まった生後数ヶ月の僕を抱えた母の写真を見せる。その姿に目を見張り感嘆の声を上げる。
「わぁー! 可愛い! これ、リックスの赤ちゃんの頃?」
照れ臭くて、別の写真にすれば良かったな、と見せた後で悔いる。
「そ、そうだけど……。見せたかったのはこっち」
そう言って。母の方を指で示す。
陶酔にも似た声がメアからもれる。
「綺麗な人……。不思議なオーラがあるね。――もしかしてリックスのお母さん?」
「うん。そう」
「だよね。おんなじ灰色の髪と瞳だもん。リックスと目がそっくりだね」
「それ、よく言われる」
空気が重たくなるのが嫌で村を出てからはこの話題は伏せていたので誰かに話そうと思ったのはこれが初めてだ。――意を決して真実を語る。
「実は八月九日は僕の誕生日で、――母の命日でもあるんだ」
「……えっ」
息を呑む音が聞こえたが、ここでやめるわけにもいかない。僕はそのまま語り続けた。
「母が亡くなったときのダメージは幼少期の自分にはとても大きくてさ、当時は何するにしても虚無感がずっと拭えなくてすごく辛かったんだ。あまりのショックで喋ろうと思っても声が出ない状態が続いて、そこから二年くらいは父とすら会話がままならなくなって、精神的に不安定な状態が長かったんだよ」
「だから父が配慮して母の命日と僕の誕生日を分けて行うようにしたんだ。それが根付いてアスクレイ家では毎年のこの日に母の供養をして、翌日に僕のお祝いをしてくれるのが恒例になったんだ。言ってた用事ってのもそのことでさっきまで母の供養をしてたんだ」
「母のお墓はラズリンドにあるから今年の命日はどうするかで父と話したら、ここから村まで往復するのは大変だろうから帰ってこなくて大丈夫、って言われたんだけど、供養は忘れずにしてあげたかったからこっちでも一人でやろうと思って。――黙ってたのはごめん。でもこんな話をして重たいって思われるのも、変に気を遣われるのも嫌だったから言えなかったんだ」
僕が話し終えるまで、切なげな表情でじっと黙って聞いていたメアはそっと口を開く。
「…………話してくれてありがとう」
続けてがっくりとうなだれて肩を落とす。
「そっか……。そりゃそうだよね。命日ぐらいはお母さんと二人きりで過ごしたかったよね。リックスが一人寂しい思いで誕生日を過ごしてるんじゃないかって思い切って来てみたけど、逆に邪魔しちゃって……空回ってばっかだなあ、私…………」
「まあ、その…………嬉しかったよ。そんなに真剣に誕生日のことを考えてくれて」
落ち込む様子に感謝を前置きしつつ、言い加える。
「それにそれを言ったら僕だって良かれと思って本当のことを話したけど、サプライズで来てくれたメアを逆にがっかりさせちゃって空回ってばっかだよ」
やんわりと口角を上げ、メアは言う。
「……リックスってホント、優しいよね」
気恥ずかしくて頬を掻く。
「それは……。人から優しさをもらったら優しさで返せって父から躾けられたから」
それを聞いて。メアは神妙な面持ちで目を瞑り、手を組んで祈り始める。
「リックスのお父さん、リックスを優しい子に育ててくださりありがとうございます」
「ハズいからやめれ」
急に保護者目線で来るから反射的にツッコまずにはいられなかった。
しかしながら……僕にはもう一つメアに伝えていない事実がある。その話題も空気が重くなるからと話すのを躊躇していたが、この場の雰囲気的にあの話をするにはまたとない機会かもしれない。ここで話しておかなければ今後も機会がなさそうなので全て打ち明けてしまおうと決意する。
「あともう一つ、言ってなかったことがあるんだけど……」
「まだあるの?」
そう言って首を傾げたメアの表情には驚きと不安の影が見えた。
「実は、――僕の母はデッドロータスシンドロームで亡くなったんだ」
「……っ!?」
驚愕して声を失ったメアは手で口元を覆った。
――デッドロータスシンドローム。
前兆もなく突如として心臓が木端微塵に破裂する原因不明の稀少疾患の一つ。破裂の衝撃は凄まじく胸部を貫通し、肉片となった心臓の残骸などが四方八方に弾け飛ぶ。その際に飛び散った血飛沫や血痕が睡蓮の花弁状に広がる様子が、病名の由来となっている。
奇病の中でも最も奇怪で難解な病とされ、一度発症すれば即座に致死率百パーセントで死に至る。古くから文献などにも同様の症例が報告されており、不治の病として伝承されてきたが、今日の医学の力を以てしてもそれは変わらず未だ多くの謎が解明されずに残っている。
その要因に大きく関わっているのが発症率で約十億人に一人程度とされており非常に稀有な確率でしか起こらない。普通の日常を送っていればまず知ることのない病で、一等の宝くじに当選するよりも遥かに低い確率のため世間での認知度はないも同然である。
患者のサンプルが圧倒的に少なく病気の解明が進んでも利益が出にくいとあれば、自ずと研究する者も一握りになっていく。医学業界も匙を投げ、数世紀もの間進展がない状況だったが、そこに一石を投じたのがメアの研究論文である。
メアはカレッジ付属病院などの協力から得られたデータを基に検証を繰り返し行った結果、デッドロータスシンドロームの発症者は体外に流れ出るマナの生成量が常人よりも多かった新事実を突き止めたのだ。それが何を意味するかはまだまだ研究の余地が残されているが、事態が好転に向かったことには違いない。
あのときのことを誰かに話すのは久しぶりで……この話題に触れると、もはや条件反射で自然と口が強張ってしまう。
「……母さんが発症したときに僕もその場にいたんだけど、ショックで意識が飛んじゃって直前の記憶がなくて……再び気づいたときには母さんは……、ひどい有り様で……辛うじて息がある状態だったんだけど…………僕は何もできなかった」
「…………」
メアは……蒼白して固まっていただけかもしれないが、僕の独白めいた残痕痛ましい身の上話を黙って聞いてくれた。
「ルトロヴァイユで初めて会話したときのこと覚えてる?」
僕の問いかけに。沈痛な面持ちながらもメアが小さく頷く。
「僕がメアと話してみたいと思い立ったのは三日連続で告白現場に遭遇したからってのももちろんあるけど、元々メアが書いたデッドロータスシンドロームについての論文を読んでたから、どんな人が書いたのか興味があったっていうのも理由の一つなんだ」
「…………」
よほど心を揺さぶられたのか、メアは放心した顔のまま無言だった。言葉に詰まるほど反応するのに困らせてしまい、この話をするには時期尚早だったかもしれない。
「えっと、その……。いきなりこんな話されても困るよな? ごめん……」
静かにメアは首を横に振る。
「ならいいんだけど……。メアはどうしてデッドロータスシンドロームを研究しようと思ったの?」
メアの瞳孔が微かに広がった――気がした。覚束ない表情のまま、僕から離れて顔を逸らし鬱屈とした視線を床に投げる。
「………………」
数秒の間、黙り込んだ後。重苦しさが残る声でメアが答える。
「――自分も小さい頃、難病を患っててつらい経験をしてきたから。今は完治してなんともないんだけど、デッドロータスシンドロームで亡くなった人や遺族の方々が自分以上に苦しんでいる現状を知って、とても他人事とは思えなくなって…………。それで少しでも助けになればいいなって」
本心が詰まった言葉に。胸がじんわりと熱くなるのを感じた。それは彼女が救済したいと願う範囲に僕も含まれている人間だからか、それとも自分が想定していた『人のために』という答えと寸分違わなかったからか――、どちらも心に刺さったことに変わりはない。
「……メアらしいな。いつか原因が解明されて治療法が見つかる日が来るのを僕も心から願ってる。もうあんな悲劇は……誰にも起きて欲しくない」
振り返ったメアは、ゆっくりと強く頷く。表情は相変わらず暗かったがより真剣味を帯びていた。僕を見つめるその瞳は憐憫の情を映すと同時に、悲観に負けまいとする切実な意志も芯から受け取れた。
押し堪えていたものを吐露するようにメアが口を開く。
「私も……、思い出すの辛いかもしれないけど、一つ訊いてもいい?」
「うん」
「私がリックスの立場だったら……もう会えないって現実を信じられなかったと思う。その苦しみを克服した今でも……お母さんに会いたいって思うとき、ある?」
…………。時が経つにつれ段々と記憶の細部が薄れてきているのを感じる。でも……。それでも、今でも笑っている母の顔が瞼の裏に刻まれている。
「……会えるなら今でも会いたいよ。悲しみが消えても強くなれるわけじゃない。それに完全には癒えないからこそ、母さんのこと忘れずにいられると思うんだ」
感傷に覆われた曇った瞳で僕を見つめていたメアは……仄かに微笑んだ。
「こんな例えは失礼かもだけど……コーヒーの味と似てるかもね。深みをもたらすには苦みも大切なんだって教えてくれる」
「苦いのは苦手だけど……そう考えたらコーヒーも案外悪いもんじゃないのかな」
メアは言いづらそうに眉を八の字に寄せる。
「その……。お母さんの件、なんて言ってあげたらいいのか分からないけど……」
続く言葉を、僕を励ます言葉を、懸命に探しているみたいだ。
「リックスが喋れなくなるほどショックを受けたのも無理ないよ。私も資料でしか見たことないけど……自分の家族があんな形で亡くなるなんて……惨すぎるよ…………」
自分の身に置き換えた想像に震え、彼女は俯く。体育座りに脚を組み直して膝をぎゅっと抱え込むと、その上に額を置く。
「……うん。今でもあのときの光景を覚えてる。ずっと……胸に残ってる」
――思い返す。あの日の後悔を……。
「母が亡くなる直前に僕にあることを約束してほしいって言ったんだ。でも……当時五歳だった僕はその意味をちゃんと理解できなくて……何も答えられない間に母は逝ってしまった。あのとき嘘でもいいから『うん』って言ってあげれば良かったって、命日が来る度に……誕生日を迎える度に、脳裏に過るんだ」
メアは顔を上げ、僕を見る。向けられたその柔和な笑みには、自身の骨身にこびりついた哀愁がゆっくりと剥がれ落ちていくような慈愛の温もりを感じられた。
「きっと今も天国で、ちゃんと約束を守ってるかどうか見守ってくれてるんじゃないかな」
「……だといいな」
幾分気が楽になり頬が緩む。
メアも優しい表情で応えると、晴れやかに言う。
「ねぇ、良ければ私もリックスのお母さんにお祈りしてあげたいんだけどいい?」
「もちろん。喜ぶと思うよ」
そうして。母のアルバムの前でメアが祈りを捧げるのに立ち会った。
祈り終わったメアはこっちを見て、にこりと言う。
「あなたの息子さんを必ず進級させてみせますって伝えといたよ」
成績が振るわない僕を天国の母さんはどう思っているだろうか――一瞬考えては苦笑いを浮かべる。
「あはは……。きっと母さんなら『不出来な息子をよろしくお願いします』って言ってるかもな」
「お母さんを安心させてあげないとね」
ふと。メアが背面の方に視線を移す。ベッドのヘッドボードに置かれたデジタル時計を見て何食わぬ顔で呟く。
「もうこんな時間かあ」
すっかり時間を忘れていたので僕も確認する――時刻は零時十分あたり。いつの間にかに日付を跨いでいた。
体育座りのままメアは蠱惑的にニヤついた笑みを浮かべ、顔を右に傾けながら僕に尋ねる。
「終電も逃しちゃったし、今日も泊まってってもいい?」
……こうなるのを図っていたのだろう。
「初めからそのつもりだったくせに」
「えっヘへ」
誤魔化しきれてない照れ笑いをメアは浮かべていたが、両親は今頃心配しているだろう。
「カノンさんには何て言ってきたの?」
「そのまんま『クゥってば、今日が誕生日らしいからプレゼント渡しにもう一回行ってくる』って言うだけ言ってガンダで出て来ちゃった」
メアはちょびっと舌を出しテヘペロポーズを決める。……これは確信犯的犯行と見ていいだろう。
こんな深夜に女の子を一人外に放り出せるわけもなく、仕方なく溜め息を吐き頷く。
「いいよ。――ただし捜索願出されないようにカノンさんには連絡しといて」
「もちろん♪ やりぃ♪」
メアは両手でピースサインをぺこぺことお辞儀させて感謝を表現するも、それも束の間で、
「――あ、そうだ」
と何かを思い出して自分のトートバッグの中身に手を伸ばす。
「もう一つ、したいことがあって家から持ってきたものがあるの」
そう言って。バッグからごそごそと重たそうな何かを両手に持って取り出す。
「ジャジャーン! コレでーす!」
……目の錯覚だろうか。その手に掲げられていたものは品行方正なメアのイメージとはいささかマッチしない。僕の記憶が正しければ、それはパリピから絶大な支持を得ている――
「……シャンパン?」
「ではないけど、一応スパークリングワインだよ。――あ、もちろんノンアルだから。私たちまだ未成年だしね」
メアから手渡されたボトルの背面のラベルを見ると、そこには確かにアルコール0パーセントの表記があった。中身も表のラベルも淡黄色の光を反射した見栄えは少なくともパリピではない僕の目には少々眩しく映る。ノンアルと言われてもぱっと見ではアルコール入りとの差異はない。
「……なるほど。つまり、このボトルを使ってボウリングしようってことだな?」
「そうそう。これをピンに見立てて、リックスの頭をボールの代わりにしてストライクぅ~! ――ってそんなわけないでしょ?」
まさかのノリツッコミである。
「そ、そんなスキル持ってたのか……」
「うっ。驚かないでよ……。逆に恥ずかしいじゃん」
そっぽを向いていじけるメア。貴重なシーンが見られたところでボトルをメアの手に返して言う。
「したいことって、ワイン飲んでウェーイってすること?」
メアは不服そうに「言い方」と言って唇を尖らせる。
「まあそうなんだけどさ……。今日という日を特別にするためにも、人生に一回くらいはちょっと背伸びして大人の冒険してみるのも悪くないかなって。――リックスはこういうの飲んだことある?」
答えなくても分かってそうな顔で訊いてくる。
「あるように見える?」
メアは首を横に振って言う。
「全然」
「想像通りだよ。メアは?」
「私もだよ。これでも一応優等生で通ってきてますから」
未成年がノンアルを飲むのはグレーゾーンに片足を踏み入れる行為、という自覚はあるようだ。
「なんだ。てっきり家では隠れてぐびぐびやってるのかと思った」
「まさか」とメアは一笑。というか一蹴する。
「このワイン、ちょっと前にお父さんが連日飲み歩いてて帰りが遅かったからお母さんに怒られてしばらく禁酒を命じられたんだけど、雰囲気だけでも味わいたいからって家で飲んでたやつなの」
「だからちょびっと少ないのか」
三分の一ほど減っているように見える。
「クレールさんのなんだろ? 勝手に飲んでいいのかな?」
「大丈夫。お父さんノンアル好きじゃなくて結局飲まずに地下室のカーヴにずっと残ってたものだから」
ボトルを掲げ、メアは期待の詰まったワクワクとした眼差しを僕に向ける。
「アスクレイ家ではお母さんの命日が終わった翌日に誕生日のお祝いをしてたんでしょ? だったら日付も変わったことだしこれで乾杯しようよ」
「乾杯、か……」
一度家に帰ったのはこれのためだったのか。……僕と乾杯したかったから、と素直に受け取ってもいいんだろうか? まあそれ抜きにしても普段は時間効率を気にする彼女がはるばる三時間もかけてハーヴィッツ邸まで取りに戻った労力を考えると……ここは想いに応えてあげるべきか。
「一滴も飲んだことないから楽しめるか分からないけどやってみるか」
零れんばかりの笑みでメアが頷く。
「うん。リックスとならきっと楽しめるよ」




