【2-2】
七月三十日。日曜日。時刻は午前十時頃。
インナーの上からチェックの半袖シャツを羽織り、下は黒のテーパードパンツに着替える。必要な物をトートバッグに突っ込み肩から提げる。昨日メアが置いていった女装一式が入ったキャリーバッグを玄関まで転がし、お気に入りのスニーカーを履いて家から出発。地下鉄を乗り継ぎ、十一時半前に指定されたハーヴィッツ邸からの最寄り駅に到着。改札付近でメアと合流。
今日のメアは髪を結んでおらず、上はシンプルなロゴ入りの白Tと、下はカーキ色のスカートのようなショートパンツにスニーカー、手には化粧ポーチなどが入っているだろうハンドバッグが見える。
そのまま近くのカラオケ店に直行し、ルーム内で昨日と同様のメイクを施され服も女装用に着替えたら精神を切り替え準備万全。
――そう、今の僕は……いえ私は、ちょっと引っ込み思案の女子大生(という設定)で、名前はクゥ。前期の成績が悪くてこのままじゃ退学まっしぐらのため(ここは事実)、今日は勉強を教わりに憧れのメア先輩のお宅にお邪魔させてもらう、という体になっている。
役に入りきった僕を見て、メアから真顔で『女の子になりきれたかどうかテストします』と言われ(無茶振りされ)、最近流行りの女性シンガーの名曲バラードを一曲歌わされたが……結果は言うまでもない。
息を切らしながらカラオケ店から出て元々着ていた服をキャリーバッグごと駅前のコインロッカーに預けたら、勉強用具などが入ったトートバッグを肩から引っ提げ、いよいよハーヴィッツ邸へと向かう。
――駅から歩くこと十分ちょっと。
辿り着いたのは路地の両脇に豪邸が連なるいかにも高級住宅街といった感じの通り。
「着いたよ、ここがわたしんち」
十字路の角に建つ二階建ての要塞みたいな豪邸。その門の前で、メアがくるっと振り返って言う。
「…………。なにこのデカさ……」
視界に収まりきらない横幅の広さに圧倒され唖然とする僕。
「あはは……。物心がついた頃にはもうここに住んでたから、これが普通なんだと思ってたけどね」と、ちょっと気まずく苦笑いを零しながら、ばつが悪そうにメアは言う。
僕の実家より三、四倍は大きそうな敷地ギリギリまでレンガ調の外壁に覆われた邸宅。外壁の周りに木々や草花が並び、緑に囲まれた外観も美しい。玄関の隣には車庫があり、シャッターが降りていて確認できないが、車三台が優に入りそうなスペースはある。
豪邸を前に緊張したからか、門を開けすたすたと進むメアに恐る恐るついていく。すぐそこの立派な玄関のドアを、メアが鍵を取り出して開ける。
真っ白な石材の床に覆われた玄関に入るや否や、
「ただいまー。クゥちゃん、連れて来たよー」とメアが大きな声で呼び、反転して玄関の段差に腰掛け靴紐を解き始める。
すると。暗褐色の長い廊下の突き当たりにあるドアから、
「はーい」と落ち着きのある女性の声とともに――遠目からでも分かる綺麗なお姉さんが出て来て、優雅な足取りでこちらに歩いてくる。
メアと同じ葵色のショートボブで、メアと似た顔立ち。白地のブラウスに花柄のロングスカートを着た、大人びて淑やかさの増したメアが、まるで数年後の未来からタイムスリップしてきたかのように目の前に現れる。
呆気に取られていた僕を見て、未来から来たメア二号は第一声に、
「まあ! 背が高くてモデルさんみたいね! ――ようこそいらっしゃい、クゥちゃん」と、にっこりと微笑む。
笑顔までそっくりで大人の品を醸し出すもう一人のメアにたじろぎ、
「お、おじゃまします……!」と意図せず裏返った声が出てしまった。
ちょうど靴を脱ぎ終わったメア一号がそれを見て「ボロ出さないようにね」とでも言いたげな視線を瞬間的に僕に送る。……昨日のスパルタ特訓通りに女の子口調をキープしないと後々が怖い。
メアはすぐさま立ち上がって「こちらです」と言うようなポーズで、メア二号を手で指し示し、自慢げに紹介する。
「どう? うちのお母さん若いでしょ」
「え!? てっきりお姉さんかと……」
あまりにも若すぎたので速攻で母親という線を選択肢から除外してしまったが、まさか本当にそうだったとは……。そりゃ母親がこんだけ美人だったらメアも美人に育つのは約束されているようなものか。――メアって母親似だったんだな。
美魔女のメア母が頬に手を宛てがって微笑む。
「うふふ。お世辞でも嬉しいわ。でももう四十超えてるのよ」
慌てて僕は言う。
「全然そうは見えないですよ! 肌とかもすごい綺麗ですし!」
メア母の腕に抱きついたメアは、嬉しげな表情で上がり調子に言う。
「お母さんはね、美容外科医なの。だからお肌のケアに関しては特にうるさいんだ」
「へ、へぇー! 凄いですね!」
くっ、テンプレの感想しか出てこなくて早くも僕の語彙力のなさが露呈してしまいそうだ。
娘の余計な一言に、メア母は頬を膨らませつつも笑って言う。
「もうっ、特に詳しいって言って頂戴」
それからやんわりとした調子で僕に会釈をする。
「どうも、メアの母のカノンです。よろしくね」
「は、初めまして……クゥです。あ、これ……マカロン買ってきたんで良かったら召し上がってください」
トートバッグからデパートで買ってきたマカロンの入った化粧箱を取り出して差し出す。
「まあ! そんなに気を遣わなくても良かったのにわざわざありがとう。あとで勉強の合間にいただきましょうか」
化粧箱を受け取ったカノンさんがニコニコして言う。
「ちょうどもうすぐドリアが焼き上がるところだからお話の続きは食べながらにしましょ。さあ上がっていって」
「はい。お言葉に甘えてご厄介になります」
靴を脱いでそろえたら、案内され廊下の突き当たりのドアからリビングへ。
広々とした吹き抜け天井の開放感のある空間に、一歩足を踏み入れる。室内は白、グレー、茶色系統のインテリアで統一されており、部屋の右側はガラスのテーブルとその周りを囲む手触りの良さそうなソファ、ソファと向かい合った壁には暖炉があり、その上には大型テレビが掛けられている。右手の窓際には二階に続く階段が見え、窓際の両脇には背の高い観葉植物が置かれている。
左側はダイニングのようで手前から順に、一枚板の大きなテーブル、カウンターキッチン、奥の壁には冷蔵庫などの家電や調理器具の数々が並んでいる。
ダイニング側のテーブルに案内され、メアが座った右隣の椅子に座る。
「お父さん呼んでくるからちょっと待っててね」と、カノンさんがそう言って入室したドアから退出すると、いよいよメアの両親そろっての対面に膝の上に置いた拳の内側が湿り気を増してくる。
それを見抜いてか、隣に座るメアが僕の握った拳の上に片手を置き、
「大丈夫。上手くいくって」と、明るく言う。
いくらか緊張が和らぐが、残った不安な気持ちを視線に乗せ、隣に座るメアを見る。
「――メアのお父さんってどんな人?」
立てた人差し指を顎に当て斜め上を見上げながらメアは「んー」と唸る。
「カレッジで教授を務めてる数学者なんだけど、比べるまでもなく私よりも賢くて研究熱心な人かな。でも、家では全然そんな知的な感じじゃなくて、いっつもくだらないことばかり思いつくっていうか……まあ会って直接話せばすぐに分かるよ」
そう言って。何やら苦笑いを浮かべ言葉を濁すメア。
ほどなくして。カノンさんがメア父を隣に伴い戻ってくる。
緊張のあまり直視できす、メア父が下は茶色いチノパンに上は紺色のポロシャツを着ているのまでは確認できたが、バレるのではないかという不安からか、首から上には視線を上げられなかった。背は僕よりも若干高そうだったが、中肉中背といった感じだ。
「待たせてごめんなさいね」と前置きをしてからカノンさんがすぱっと言う。
「このおじさんがメアの父のクレールです」
紹介されたメア父の不満めいた声が聞こえてくる。
「おいおい、おじさんはよしてくれよ。これでも女子生徒たちからは若いって評判なんだぞ」
即座に。カノンさんがぴしゃりと言い切る。
「そうやって若い女の子たちに煽てられて喜んじゃう感性が既にもうおじさん化しているのよ」
「アイタタタ……。手厳しいなぁ……」
反論できずにメア父が片手で頭の方……おそらく後頭部を擦っている。
「さあ、皆そろったことだしランチにしましょ」
明るくそう言ったカノンさんがキッチンのオーブンを確かめにいく。
そこが定位置なのか、自然な流れでメアの前の椅子にメア父が座る。
「えーっと――、クゥちゃんで良かったかな?」
穏やかな雰囲気のある声で、メア父に話しかけられる。
「は、はい……。そうです」
流石に声を掛けてもらったのに目も合わせないのは人として失礼かと思い、重々しくもゆっくりと視線を上げ、メア父のご尊顔を拝する。
学者というより俳優と言われた方がしっくりくる端正な顔立ち。黒縁眼鏡の上からでもくっきりとした翠眼が印象的だ。オールバックにまとめた栗毛色の短髪には白髪一つ見当たらない。おそらく歳は四十を超えているのだろうが、メア母ほどではないが若く見える。
柔和な眼差しを僕に向けつつ、メア父――、クレールさんは爽やかに言う。
「メアと同じ専攻の後輩なんだって? いつも娘と仲良くしてくれてありがとう」
…………良かった。正直、強面のおじさんだったらどうしようかとビビっていたが、イメージしていた父親像とはまったく真逆の優しそうなイケオジだ。――大当たりだ。
とりあえず。メアが予想した『両親とするであろう会話のレパートリー集』でもあったシチュエーションが実際に来たので、予め自分で用意していた回答を返す。
「いえ……。むしろ勉強のできるメアちゃんが私みたいな落ちこぼれと仲良くしてくれてとても助かってます」
メアは僕が同い年の女の子の友達という体で(なおかつ成績が崖っぷちの点も踏まえ)、少し眉尻を下げ寂しそうな表情を作っては、
「クゥってば、そんな風に思ってたの? 勉強ができるできないで友達を選んだりしないよ」
そう言って、表情を和らげる。
「波長が合って楽しいから。――それだけだよ」
「……うん。ありがと」それっぽく僕も笑顔で返す。
親友ムーブが功を奏したようで、クレールさんはメアと僕を交互に見て朗らかに笑う。
「良い友達ができたようだね。歳を重ねると気の合う友人を新たに作るのは段々と難しくなっていくものだから、そういう友達は今のうちから大事にしておきなさい」
年長者のありがたいお言葉から、実際の僕らは同盟関係にあるとはいえはたして友達の間柄と呼べるのか、と疑問に思ったが、今はメアの親友という体でひとまず賛同しておく。
「その……メアちゃんが友達でいてくれる限りBFFです」
聞き慣れない言葉だったようで、クレールさんは目をパチパチして聞き返す。
「BFF? 何だいそれは?」
「ベストフレンドフォーエバーの略だよ、お父さん」とメアがフォローする。
クレールさんは合点がいった様子で頷いて言う。
「なるほど――。そうなると僕の友人たちはBDBFってところかな」
そこへ。ちょうどカノンさんがミトンをした両手で大皿に盛られた香ばしく焼き上がったドリアをテーブルの中央に載せながら、苦笑して言う。
「あら? それってあなたの飲み仲間のことを言ってるのかしら?」
少し気まずそうな表情をして、
「流石は母さん。お見通しか」と、クレールさんは再び後頭部に手を回す。
「昨晩はお楽しみでしたもんね?」と、カノンさんは既視感のある誇張強めの笑みで言う。
「アイタタタ。昨日は言われた通りに早めに帰ってきたんだから許してほしいなあ~」
反応を見るにどうやらお酒好きのメア父はメア母の尻に敷かれているみたいだ。――ほのぼのしい光景だ。
「冗談よ、怒ってませんから」
そう言いながら、カノンさんは食欲を掻き立てる芳香な蒸気を放つドリアをてきばきと均等に切り皿に取り分ける。程よく焦げ目のついたドリアの他に、具材たっぷりのオニオンスープとシーザーサラダも食卓に全員分並ぶ。クレールさんの隣(僕の前)にカノンさんが座ったら「いただきます」の合図とともにご馳走になる。
僕含め皆口々に美味しいと連呼し和やかなムードで昼食が進んでいく。
だが出だしこそ良かったものの、やはり人の両親と初対面で一緒に食卓を囲むというハードルの高さにいつもよりも口が重たく感じる。どうにか話題を捻出しようとしてみたが頭を逆さに振っても何も出てきそうにない。
一応、自分からあまり話さなくても良いように、というメアの心遣いにより、事前にメアの両親にはクゥちゃんはちょっとシャイな女の子だと伝えているそうだが、ずっと黙っているのもそれはそれで気まずい。
美味しかったドリアも味がしなくなるほどの生き地獄に浸された気分で『頼む、誰か話題を振ってくれ……!』と切に願っていたところに、
唐突にクレールさんが、
「アン、ドゥ、ドリア♪ アン、ドゥ、ドリア♪」と、
口遊んでテンポを刻みながら、リズミカルにスプーンで掬ったドリアを口元に運び食べる振りをする。
メアが『また始まったよ……』と言いたげな顔で、
「お父さん、それを言うならトロワでしょ」と、仕方なくツッコミを入れる。
カノンさんもうんざりとした表情を浮かべ加勢に入る。
「あなた……せっかくの温かい料理が冷めちゃうからやめて頂戴」
対するクレールさんはお手上げといったポーズを取り、ドヤ顔で言う。
「そりゃドリァーこっちゃ」
「………………」と、傍観する僕。
たぶん『どえりゃー』と『ドリア』をかけたんだろう。……やばい、急に身震いしてきた。
……でもこれは逆に仲良くなれるチャンスかもしれない。中身のない会話なのはともかくやっと転がってきた糸口を見逃すわけにはいかない。――この寒波を乗り越えてみせる!
「そ、それ……面白いですね! わ、私も……やりますっ!」
見よう見まねで、
「アン、ドゥ、ドリア♪ アン、ドゥ、ドリア♪」と、声高らかに、
メア父がやったのと同じモーションをする。
「………………」と、ハーヴィッツ家一同が皆唖然として僕を見ている。
なんだか途端に無性に恥ずかしくなってきた。見切り発車でこの後どうするかも考えてなかったし……。く……っ。こうなったらこのままやり続けるしかない。――もうどうにでもなれ!
やけくそ気味の僕の意を汲み取ってくれたのか、
「……ふふっ。じゃあ私も!」と、メアも一笑いしてから僕に続き、
「アン、ドゥ、ドリア♪ アン、ドゥ、ドリア♪」と、
息ぴったりのタイミングで動きを合わせマネをする。
ぽかんと見ていたクレールさんも、娘が加わったのをきっかけに口を閉じ、
「それじゃあ、皆さんご一緒にー! アン、ドゥ、ドリア♪ アン、ドゥ、ドリア♪」と、
頬を緩ませて一緒になって動き出す。
その光景を眺めていたカノンさんが堪らずに声を上げる。
「もぉ~っ。あなたたち食べ物で遊ばないでよぉ~」
とは言うものの……。コミカルに三人一緒に動き続ける僕らを見て、口元を抑え笑いを堪えるのに必死そうだ。
メアの助け船もあったおかげでその後は気後れせずにスムーズに会話に交ざれた。会話が弾んでいる間にテーブルの上の食器が全て空になり、食後のティータイムが訪れる。
メアが紅茶のカップに手を伸ばし口をつける。その間にチラッと横目にこちらを見て合図を送るのを見逃さなかった僕は、同様に紅茶の入ったカップに口をつけながらメアの合図にチラッと応じる。
ようやく。じっくりと話せる時間ができたので、メアが本題を切り出す。
「ねぇ、お母さんお父さん。ちょっと話があるんだけどいい?」
不思議そうにカノンさんがクレールさんと顔を見合わせてから言う。
「なーに? 改まって?」
深刻そうな表情で両親二人を見て、メアは言う。
「クゥがこのままだと退学になっちゃうかもしれないって話したでしょ?」
我ながら耳の痛い話だが、気の毒そうに眉を寄せたカノンさんが憐れんだ眼差しをこちらに向けるのがチラリと見え、いたたまれずに顔を俯ける。
「ええ。言ってたわね。でも、まだ決まったわけじゃないんでしょ?」
「うん。だからできる限り協力してあげたくて。八月に入ったら私も時間ができるからそこでクゥの家でしばらく勉強合宿をしようと考えているんだけど…………しても良い?」
意外だったのか、カノンさんは目を瞬かせて言う。
「あら、良いことじゃない? しばらくってどれくらいなの?」
「具体的には三日から九日の一週間ほどなんだけど……」
少し表情を曇らせ、カノンさんは言う。
「うーん……ちょっと長いわね。――クゥちゃん一人暮らし何でしょう? 女の子二人じゃ何かと心配だし……それならうちで合宿すれば良いんじゃないかしら?」
メアは『それも考えたんだけど……』というような難儀な表情を見せ、用意しておいた回答を返す。
「クゥも私も課題がたくさん出てるの。調べ物するのにクリスティアのライブラリを活用できた方が捗るんだけど、うちからだと往復するのが大変でしょ? 効率的に考えてクリスティアから近い方が良いなって思って」
頬に手を宛てがい、カノンさんは複雑そうな表情を浮かべる。
「う~ん……どうしようかしら~……」
その様子を見て、クレールさんは顔を綻ばせて言う。
「――良いんじゃないかい、カノン。メアが僕たちにお願いをするなんてめったにないことじゃないか。それに困っている友達を助けようとしているのなら尚更僕は賛成だ」
賛同するクレールさんに、カノンさんも「ふぅ……」と溜め息を一つ吐き、
「――そうね。いずれ一人暮らしをする経験になるかもしれないし……いいわよ」
頬を上げて言う。
「ホント!? ありがと、お父さんお母さん!」
童心に戻ったかのようにメアがテーブルに両手を突く。前のめりになって喜ぶ姿に、カノンさんは『しょうがないわね』といったような親心半分と心配半分が入り混ざった複雑な笑みを浮かべてから、温かい目で僕を見て丁重に言う。
「クゥちゃん、メアのことお願いね。一週間も泊めさせてもらうんだから二人の食費代はうちから出させて頂戴。他にも何かあれば遠慮なく言ってね」
「いえそんな……っ。自分の勉強を見てもらうためなのに逆にそこまでしてもらうのは申し訳ないです……」
「いいのよ、それぐらい。――というか……この子、料理の腕はからっきしだし余所で自炊させるわけにもいかないのよ。包丁とか持たせると特に危ないんだから」
喜びも束の間。あたふたと慌てふためいてメアが早口で言う。
「ちょっとお母さんっ、別に今その話しなくてもいいでしょっ」
カノンさんはニヤニヤと僕を見ながら首を傾げる。
「あら、一緒に生活するなら自炊できるかどうかは大事な事よね? それにクゥちゃんだって普段メアが家でどんな風に過ごしてるのか興味あるでしょ?」
…………。――ごめん、メア。
「はい! あります!」
正直に答えた僕のことを、裏切られたと言わんばかりの涙ぐんだ目でメアが睨んでくる。
その様子に。面白がってからかうようにカノンさんが話し出す。
「たまにメアがね、夕飯を作ってくれるんだけど、その度に指を切ったりお鍋を焦がしたりの大騒ぎで、この子ってば案外そそっかしいのよねぇ」
不貞腐れた気持ちを顔全面に押し出して、メアが勢いよく椅子から立ち上がる。
「もういいでしょっ。――いこっ、クゥ!」
そそくさと反転し反対側の階段の方にずかずかと急ぎ足で向かうメア。
「うふふ。ちょっとやり過ぎちゃったかしら」
カノンさんは『テヘッ』っとお茶目な顔をしてから、
「クゥちゃんも行ってあげて」と、僕に優しく言う。
「あ……はい! ご馳走様でした、おいしかったです!」
急いで席を立ち、椅子の脇に置いておいたトートバッグを持って窓際の階段を上るメアに続いて二階に上がる。正面と右に分かれた廊下をそのまま直進し、真っ白な壁に飾られた絨毯の前を横切ってすたすたと進んでいくメア。その後ろにそっと寄って小声で話しかける。
「良かったね。上手くいって」
「…………」
「……メア? ……怒ってる?」
前を歩くメアから感情の読めない平坦な声が返ってくる。
「……私をからかってたときのお母さんの様子、どう見えた?」
「どうって……。いじけるメアの反応が面白くてつい意地悪しちゃった……って感じかな?」
「――ふふっ」
急に笑い出すメアに、意味が分からず僕は顔を顰めて訊く。
「な、なに……? 怖いんだけど?」
立ち止まって振り返ったメアは、いつもの明るいトーンに戻してにっこりと答える。
「ううん。リックスにもそう見えたのなら私のリアクションとしては満点だったかな」
「え……何? アレも演技だったの?」
「リックスをお母さんたちとあんまり長く喋らせるわけにもいかないでしょ? 別にお母さんだって私が本気で怒ってないことは分かってると思うしね」
あまりにもあっけらかんとして言うもんだから、ちょっとでも心配した自分がアホらしく思えてくる。
「なんだよ……。怒ってんのかと思ってヒヤヒヤしたぞ」
「ごめんごめん。別に料理ができないことをイジられたくらいで怒ったりしないよ。できなくたって私の人生にはなーんも影響ないし」
苦笑をもらすと、再び前を向いて歩きながらポジティブに言う。
「あとお母さんもああは言ってるけど、私が料理するときはなんだかんだ言いつつも喜んでくれるんだよ。私もそれが嬉しくてたまにお手伝いするんだ」
自分の母親のイメージを損ねないようにアフターフォローも欠かさずに入れるメアに、僕は思わず感心する。
「……メアってホント両親のこと好きなんだな」
「好きだよ。疑ってたの?」
「いや羨ましくて。自分も母とあんな風にじゃれ合うような会話をしてみたかったなって」
メアが可笑しそうに笑う。
「じゃれ合うって何? まるで猫みたいじゃん」
「僕にはそう見えた」
廊下の突き当たりで足を止め、くだけた笑顔で振り向いたメアは言う。
「変なの。――ここが私の部屋だよ」
チョコ色にデコレートされた壁面に嵌まっている白いドアを開け、中に入るメアに続く。




