【2-1】
明くる日。七月二十四日。月曜日。時刻は十八時頃。
昨夜。解散して帰宅後、メア先輩から連絡があり、勉強会を開こうという話になった。
その日程や今後のことも含めて話し合うため、今日は待ち合わせ場所に指定された『ポロ』(先輩に連れて行かれたあのレトロな喫茶店の名前。本当はアポロという店名だったみたいだが、随分昔に外看板のアの部分だけが剥がれ落ちたまま直さずにいたらその名で定着してしまったのだと、マスターが言っていたらしい)で、研究室帰りの先輩と合流する流れとなった。
僕もクリスティアでの今日の補習を終えたので自転車で直接向かう。目的地に到着し自転車をポロの脇に置き、錆びたドアベルが鳴るアンティーク調のドアを開ける。
店に入るなり。この前と同じ席に座っていたメア先輩が振り返り、
「やっ。昨日振り」
と、笑顔の横で手を振って挨拶する。
カレッジ帰りなので毎度お馴染みの通学用の格好(オフホワイトの半袖ブラウスとグリーンのフレアスカートの服装)だ。
「やっ、お疲れ様です先輩」
そう返して。僕も対面の席に座るや否や、
メア先輩が不満そうにふくれっ面をしながら僕の顔を見て、
「先輩じゃなくて『メア』」と、ファーストネームで呼ぶようにアクセントを強調し、
「あと敬語もなし。――やり直し」と、付け加える。
「いやー、まだ慣れないんですよねその呼び方」
「口にしていかなきゃ慣れないよ」
「確かに」
「はい、じゃあ呼んでみて」
「えーと……、おつかれ、メア」
メアが笑みを零して応える。
「うん、おつかれリックス」
僕をうまいこと自分のペースに引き込んで上機嫌なメアは、その調子でウキウキと声を弾ませながら言う。
「さて――早速勉強会のことなんだけど、来月の三日から九日までの一週間って予定空いてる?」
「うーん……」
九日、か……。これといった明るい予定もないのが寂しいが、むしろメアといられるならそっちの方が有意義に過ごせるかもしれない。
「特にないですね。――あっ。ないかな」
うっかり敬語の癖が抜けず言い直す。やはり急には慣れないな。
「なら良かった」と、そう口にしたメアはやんわりと口角を上げ両手を合わせる。その頬が、窓から差し込む夕日の加減か……、少し赤みが増したように見えたのは気のせいだろうか。
続けてメアが言う。
「そしたらその日程で一週間、リックスのお家で勉強合宿をしたいんだけど……どうかな?」
「…………はい? 今なんて?」
途端に額から汗が滲み出るのを感じて聞き返す僕に。メアははにかんでちょっと俯き気味に僕を見つめ返し、再度訊いてくる。
「だから……っ。一週間泊まり込みでつきっきりで勉強を教えるのはどうかなって思ってるんだけど…………ダメ?」
…………。はてさて、何を言ってるんだろうこの人は?
「いや、流石にそれは色々とマズいのでは……」
僕が至極真っ当な意見を言うと、何かを察知したように思考回路を切り替えたメアはツンとした表情になり、腕を組み蔑む視線をこちらに寄越す。
「ふーん? 私に何か色々とマズいことする気でいるんだ?」
「えぇーっ。いやいや、そういう意味じゃなくって」
いや待て……。おそらくここで安易に否定したら『じゃあ何がマズいの?』とか深掘りされて損するタイプの質問だぞこれ。なんて返せば…………。
「――ってか一週間も男の家に外泊なんてしても大丈夫なの? その……両親とか許してくれないんじゃ?」
ひとまず。さりげなく論点をすり替える。すると、メアは自信ありげに豪語する。
「そこはちゃんと考えてあるから安心して」
「? 何か良い案でも?」
気になっている僕の様子を見て、目まぐるしく表情を変えるメアは何やらウキウキと楽し
そうに答える。
「うん。ひとまずまだ準備ができてないからできたらまた教えるね」
「? はぁ……?」
勢いに押し切られて曖昧な相槌を返してしまったが……。なんだろ? 何か秘策でもあるのかな? 人より頭の回転が速いメアがそう言うなら問題ないのかもしれないが、でも合宿までして勉強を教えてもらうのは、正直なところ僕の気が引ける。そもそもメアだって早期卒業のことで忙しいはずなのに無理言って勉強を見てもらうわけだし。
「いやまあ……勉強教えてほしいって頼んだのは僕だけどさ、自分の勉強の方は良いの? 早期卒業に支障とか出ない?」
メアは少し悄気た様子で眉を落とし、気抜けした調子で言う。
「それがさー。ちょうど今年はうちの研究室の教授がどうしても都合が取れないらしくて八月から研究室も夏期休暇に入っちゃうから、実験とかできない分みっちり勉強したいって思ってたところだったんだよね」
――なるほど。逆に時間だけは有り余っているわけか。
「それならわざわざ家じゃなくても、毎回ここに集まって勉強すれば良くないか?」
きっぱりとした態度で、メアは首を横に振る。
「それじゃもったいないから」
「? 何が?」
人差し指を立てて、ハツラツとした声でメアが言う。
「――いい、リックス? 当たり前だけど時間は無限じゃなくて有限なの。本来は一分一秒たりとも捨てる時間なんてないんだよ? 効率の良い時間管理をできる人だけが人生で成功を収められるの」
「はぁ……?」いまいちピンと来ずまたも曖昧な返事をする僕に、
メアはキリっと真面目な顔をしてすらすらと持論を述べる。
「リックスの家からポロまでは自転車で往復約一時間。私の家からだと電車と徒歩で往復約三時間ぐらい。これを一週間の間、毎日往復したらリックスはおよそ七時間のロス、私の場合だと二十一時間分に膨れ上がってほとんど一日ロスしてるようなものなの」
「一応、電車に乗ってる間に自分の勉強はできるけど、それだとリックスに教えられる時間が減っちゃうから。でも移動時間のロスを極力ゼロにできれば浮いた時間を使ってより勉強を詳しく見てあげられる。だから、この極論を実現するにはリックスの家で合宿する必要があるの」
「私の勉強サイクルに合わせて同じ時間に起床して、一緒に勉強して、同じ時間に就寝する。そうすれば無駄な時間を限りなくカットできるし、身を以てリックスに勉強の取り組み方を教えてあげられる。――これが最善の策だと思うんだよね」
極論というか暴論にも聞こえなくもないが……耳に入ってきた言葉の断片が頭から離れずグルグルと脳内を旋回するうちに、つい無意識に口を衝いて出てきてしまう。
「……一緒に起きて……一緒に寝る…………」
もれ出た言葉に。メアの頬が反応し――今度ばかりは夕日のせいじゃなく――紅潮する。少なくとも己の破廉恥まがいな発言に忸怩する程度の常識は持ち合わせていたようで、俯いて垂れた前髪で顔の上半分を隠し、片肘を抱き寄せイジイジと身を捩らせる。
「そこだけピンポイントに拾わないでよ……」
「ご、ごめん……。ってか、これ僕が悪いの?」
上目に僕を見て、羞恥に満ちた視線をじっとこちらに向ける。
「だって……。絶対変な妄想したでしょ……?」
「いや、それは……。先にメアが変なこと言うからじゃん」
「私はそんなつもりで言ったんじゃないもん」
不貞腐れたように唇を尖らせて言うメアが僕の瞳にいじらしく映り――つい悪戯心が芽生える。いつぞやの仕返しとばかりに、この前ここで話した際に彼女にからかわれて言われた一言をそっくりマネてみる。
「そんなつもりってどんなつもり?」
瞬く間に。ギロッ、と殺気のこもった鋭利な視線が飛んでくる。
「はい、すいませんでした」瞬殺で折れる僕。本能が、逆らうな、と言っている。
改めて表情を引き締めたメアがビシッと言う。
「――とにかく。合宿に備えての準備で一度リックスの家に行くから、今週の土日は予定空けといてね」
「んー……、まあ元より予定なんてないけど……」
「じゃあそういうことで決定ね」
要約するに勉強時間に差をつける努力をしようという話だったが、結局妙な説得力で押し切られてしまいこの日はこれで解散となった。
ポロでの滞在時間は僅か十分ほど。そんなに時間効率を気にするならわざわざ直接会わなくてもチェチャで話し合った方が早かったんじゃないかとも思ったが、そしたらきっと僕はうちで合宿する件について少なくともその場でゴーサインは出さなかっただろう。
今週は月~金曜まで補習期間にあたりクリスティアと自宅を行き来する日々が続いた。バタバタと忙しく過ごしているうちに約束の土曜日を迎える。
七月二十九日。時刻は午後一時過ぎ頃。
メアが再びうちにやって来るということでここ四、五日ほどの間は気分上々で勉強も捗ったが、いざ当日になり彼女を家に招くと、早々に問題が発生した。
リビングにて僕の手首を両手で掴んで熱心に引っ張るメア(午前中だけクリスティアにいたのでいつもの服装)と、彼女の手首を掴んで引き離そうと頑なに抵抗する(ロゴTとジーンズ姿の)僕。
「離してくださいよっ」と、堪らずに僕が先に声をあげる。
だがすぐさま。「嫌ですっ」と、拒否する答えが返ってくる。
なぜか互いの腕を引っ張って綱引きし合う状態に。お隣さんに対しての騒音への配慮などすっかり抜け落ち、横暴なメアのやり方に反し異議を唱える。
「何でまた女装なんですかっ。もうあんなマネすんの懲り懲りですよっ」
ぎゅっと両目を閉じ必死な顔をしてメアが反論する。
「大丈夫だってっ。今日はちゃんとモデルばりに可愛く仕上げるからっ。大船に乗ったつもりでいてっ」
「嫌だっ。もうあんな泥船には乗りたくないっ」
「今度のは豪華客船だからっ。もし万一失敗したときのことを考えてるならっ。絶対に成功させるってこの場で約束するからっ。私を信じてっ」
「万一どころか万万で沈没する未来しか見えないんだよっ」
「満々で沈没とかひどいっ。今回のは自信あるのにっ」
「く……っ。どっからその自信が湧いてくるんだこの頭ハッピー野郎っ」
「野郎じゃないもんっ。ハッピー女郎、略してハピメロだもんっ」
「どうでもいいわっ」
押しつ押されつの押し問答をすること数分間。互いにバテてフローリングの上で四つん這いになる。
……どうしてこんな面倒なことになったのかと言えば、メアが両親から僕のうちに一週間外泊する許可をどうにか得ようと苦念した結果、わざわざ僕を女装させ女友達としてメア家に招待し両親に紹介する作戦を立案してきたからだ。しかも両親二人の予定が空いている日がそこしかないらしく、決行日は明日という話をついさっき聞かされたのだ。……心の準備なんてできたもんじゃない。
思えば自宅からの最寄り駅まで彼女を出迎えたときに、またも見覚えのあるキャリーバッグを持参していた時点で薄々嫌な予感はしていた。……メアは僕のこと着せ替え自由なマネキンとでも思ってるのか? パーピー人形じゃないんだぞ。
しかしながら。女装が正装という一点を除けば、尊敬する先輩の家に招待してもらえるのはなんというか……多少なりとも心が揺らぐ部分がないわけでもない。
「ふぅぅ……」溜め息とともにメアは床に女の子座りで座り直す。
「リックス、細身だから絶対上手くいくと思ったのになあ」
「細身だろうが何だろうが嫌なもんは嫌なんだよ」
そのまま額を抑えながらメアは眉を八の字にして言う。
「そこまで嫌がるならしょうがないね。合宿は諦めて別のプランを練りましょう。一応リモートでも一緒に勉強できなくはないし」
「………………」
今さらになって合宿はなしだと言われ、ご褒美を取り上げられた後のような気持ちになっている自分に気づき、閉口する。
合宿をしたいと言われた当初に思い浮かんだ光景が脳裏を掠める。メアがシャワーを浴びている音が聞こえてきてまったく勉強に集中できなかったりとか、はたまた真夜中に一つ隣の布団から可愛い寝息が聞こえてきて一睡も眠れなかったりとか、もしくは寝起きの乱れた寝間着姿にあぎggg△×※♂#☆♭∫〆♀♀♀――――ッ。
…………(再起動中)。そんな空想の生活が一週間も続くと考えるとはたして理性を保てるのかという不安や、そもそも男女二人がワンルームで一週間も合宿するなんて夢物語が本当に実現可能なのかという疑問が大いにあったが、本心ではなんやかんやで合宿にノリ気だったんだなと再認識する。
今一度。脳内で『一週間の合宿券』と『女装拒否権』を天秤に掛け、審議を開始する。
悩みに悩んで熟考した結果――。
「……これで女装は最後にしてくれるなら…………我慢してやってみるよ」
うちで一週間のお泊ま……もとい合宿という特大イベントを迎えるためには女装の一回ぐらいは必要経費か……、と割り切って腹を括ることにした。――これも退学を回避するためだ。決してやましい気持ちからではない。……たぶん。
観念してメイクの洗礼を受ける。順々に、下地二つ、ファンデ、コンシーラー、フェイスパウダー、カラコン、アイシャドウ上瞼二色、アイライナー、アイシャドウ下瞼二色、パウダーアイブロウ(下瞼)、ビューラー、マスカラ上睫毛、下睫毛、パウダーアイシャドウ、ジェルアイシャドウ、アイブロウ、眉マスカラ、ノーズシャドウ、パウダーチーク三種、リップグロス、最後にウィッグをつけヘアセットしたら全工程終了。時間にして三十~四十分ほど。
「はい、これ」自信ありげな表情を浮かべたメアから手鏡を手渡され、覗き込む。
そこにいたのは――どちらかと言えば自分は色白な方だが、それよりも一層薄くてキメ細かく血色の良い美肌の持ち主が鏡に映っている。目元も自分よりも二回りほど大きく立体感が増し、透き通ったブラウンの瞳がこっちを一心に見つめている。グレーと黒の中間ぐらいの自分の眉と同系色でやや角度のある一筋に伸びた柳眉からは凜々しくクールな印象を受ける。幾分気持ちすっきりと見える鼻、発色の良い健康的な赤みを帯びた唇、光沢のある内巻きのセミロングで艶やかな黒髪……そのどれもが自分とは非なるものばかりだ。
鏡面に映った清楚系な少女を眺めること数秒間――、無意識に口から言葉が零れる。
「――好きです。付き合ってください」
「それ自分だよ?!」慌ててメアが手鏡を取り上げて言う。
「――はっ!? これが僕なのか……!」我に返り両頬を手で押さえる。
まさか自分に見蕩れるなんて……。いつからそんなナル男に、と思ったら途端に自己嫌悪に引っ張られ正気に戻る。
ふと。メアの方を見ると、口元に手を当て何やらニヤニヤとこちらを見てくる。
「ふーん……。リックスはこういうのがタイプなんだ?」
「いやまあ……。その話はさて置き――服はどうする? また買いに行くの?」
強引に話題を切り替えようとすると、メアは含みのある視線を投げ掛けながら、
「えー、まだこの話したかったのになあ」と、わざとらしくそう言ってから、
「とりあえず、問題なければ前回の衣装を使ってアレンジしてみるつもり」と律儀に答える。
メアが持ってきた前回の女装用衣装(ハイネックにノースリーブでヘソ出しスタイルの白のニットトップスと、タイトなハイウエストの黒のスキニーパンツ)に着替える。今回は無理して筋肉を見せる必要はないからと、フードがついた薄手のカーキ色のブルゾンを肩から落として着るアレンジを加え、女性らしく見えるように胸の部分に詰め物を入れたら外側の部分はなんとか完成。
残るは中身のキャラ作りだが、付け焼き刃とはいえ女子大生になりきるお勉強を外が暗くなるまでみっちり叩き込まれ、明日の決戦に臨むことになった。




