重婚はダメ!
綾とオリガミが、何やらRINEを通じてやり取りしている内に、綾が帰る時間となってしまった。
なんだかご機嫌な様子で、自宅へと戻る支度をする綾。
どんなデータを手に入れたのだろう?怖くて聞けない。
綾は、一度自宅に戻ってから、大学の下宿先へと向かうようだ。学生さんは実に大変だ。
帰り支度をする綾の背中を見ながら、俺はソファに座っていた。
そのときだった。
『お兄様。少し、お話があります。』
オリガミの、シリアスモードの声が、骨伝導イヤホンから耳へと届く。
「ん?」
綾がリビングの向こうで荷物をまとめている。小さな声なら届かない距離だ。
『綾さんのことです。』
「……ああ」
オリガミの言いたいことは分かる。
さっきのご立派事件……あんなくだらない話ではなく。
俺はもう少し、綾のことを、ちゃんと考えなければいけない。
※※※
綾が下宿先へと帰る。
三週間も会えなくなる。
仮婚約のまま。
……仮婚約のまま、大学に戻していいのか?
ソファに深く座り直して、天井を見上げた。
綾は想いを伝えてくれた。そして、俺はそれを受け入れた。仮婚約という形で。
だが、「仮」だ。あくまで「仮」なのだ。
千穂とは婚約者だ。ネムとも婚約者だ。
綾と詩織さんだけが、「仮」のまま宙ぶらりんになっている。
……複数のお嫁さんを持つ。
その時点で、世間一般の「誠実」からは外れている。わかっている。
でも、だからこそ。
誠実にできるところは、徹底的に誠実でなければいけない。
曖昧な関係のまま待たせる。それは綾に対して、一番やってはいけないことのように思う。
綾は俺のそばにいるために、折り紙のために、すべてを賭ける覚悟を見せてくれた。
オリガミにわからせられたときの、あの真剣な目。「折り紙がしたいのです」と叫んだ声。
そして今日、自分の心を熱くしてくれるものとして、俺を選んでくれた。「師匠のお姿を折りたい」なんて、嬉しいことを言ってくれた。
なんだか、もらいっぱなしじゃないか?俺?
やっぱり、このままじゃだめだな。
誠実じゃない俺にできる誠実は、覚悟を形にすることだけだ。
「仮」を外す。正式に婚約する。
そのためには、東堂家に挨拶に行かなければならない。
……東堂正人議員に、頭を下げなければならない。
「オリガミ」
『はい、お兄様。』
「綾との婚約を、正式なものにしたい」
オリガミの声は、即座に返ってきた。
『全面的に賛成致します。早急に、正式な婚約関係を結ぶべきです。』
「やっぱりか。順番なんだけど……東堂家が先だよな?」
『はい。笹木家のご当主より先に、東堂家にご挨拶なさるべきです。東堂議員とお兄様の関係の方が先にありますし、綾さんとの仮婚約も詩織さんより先です。順番を間違えると、東堂議員の心象が悪くなる可能性があります。』
「だよな」
『東堂議員は政治家です。序列や礼儀には敏感でいらっしゃいます。お兄様が真っ先に東堂家を訪ねることは、それ自体がメッセージになります。』
……なるほどな。よく分からないが、そういうものなのか。
東堂議員は、お披露目会で俺たちの力を認めてくれた。綾との婚約にも前向きな様子だった。
だが、それはそれ。これはこれだ。こちらから、正式な挨拶をしなければいけない。
娘を預ける相手が、ちゃんと筋を通せる人間かどうか。東堂議員はそういうところを見ている可能性もある。
「……今から行く」
『今から、ですか?』
「綾が大学に戻る前に。今日中に」
『……少々お待ちください。東堂議員の本日のスケジュールを確認します。』
数秒の沈黙。
『本日はご自宅にいらっしゃるようです。夕方以降のスケジュールは空いています。』
「よし」
立ち上がった。
いや、待て。
スーツだ。スーツを着なければ。
結婚の許可をもらいに行くのに、普段着で行くわけにはいかない。
「オリガミ、スーツ出してくれ。一番いいやつ」
『かしこまりました。ネイビーのスリーピースでよろしいですか?クリーニング済みです。ウデガミに持ってこさせます。』
「頼む」
※※※
着替えを終えて、リビングに戻った。
ネクタイを締め、袖口を整える。鏡で確認する。
……よし。
綾がリビングにいた。
荷物をまとめ終えて、帰り支度が済んでいる。
俺のスーツ姿を見て、きょとんとしている。
「し、師匠?お出かけですか?急なお仕事でしょうか?」
向き直った。
「綾」
「は、はい」
「今から東堂正人議員のところに行く」
綾がまばたきした。
「お父様のところに……?何の御用でしょう?」
「君との結婚の許可をもらいに行く」
綾の目が、大きく見開かれた。
「け……結婚の……」
口がぱくぱくと動いている。言葉が出てこないようだ。
「仮婚約のまま綾を大学に戻すのは、俺が嫌だ。ちゃんと筋を通してから送り出したい」
「し……師匠……」
綾の目から、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。
両手で口元を覆って、肩が震えている。
「……綾のお父様である東堂正人議員に認めてもらうのが、誠実じゃない俺にできる唯一の誠実さだと思う」
綾が、涙を流しながら深く頭を下げた。
「ありがとうございます……師匠……!この綾、生涯をかけて、お側に……!」
声が震えて、途切れた。
しばらく、頭を下げたまま動かない。
「顔を上げてくれ、綾」
涙でぐしゃぐしゃの顔が上がった。
俺はその涙を指で軽く拭ってやる。
「……一緒に行こうか、綾。もともと実家に寄る予定だったろ?」
「は、はい!も、もちろんでございます!」
※※※
車を出した。
助手席に綾。骨伝導イヤホンに切り替える。ハンドルを握る手に、わずかに汗がにじんでいた。
『お兄様。東堂議員には、私から訪問のご連絡を入れてあります。「藤崎正太郎が大切なお話があると伺いたい」と。』
「ありがとう。返事は?」
『「いつでもきなさい」とのことです。』
……なんだか、緊張してきたぞ。
これってあれだろ?「娘さんを下さい」ってやつだろ?
千穂のときは……どうだったっけ?
昔から世話になっている人たちだったから、肩の力を抜いて挨拶できたと思う。
そういえば、千穂のお父さんやお母さんには、まだ俺が複数のお嫁さんを持つことを伝えていない。
「特待パートナー法案」が可決してから伝えるべきだと、ネムやオリガミに言われたが……ウガガガガ!
なんだか、裏切りを働いているみたいで、頭がおかしくなりそうだ。
東堂家までの道を走る。夕暮れの住宅街が窓の外を流れていく。
助手席の綾は、膝の上で拳をぎゅっと握りしめていた。緊張しているのか、それとも嬉しいのか。それとも、両方なのか。
『お兄様。一つだけ。』
オリガミの声が、骨伝導イヤホンから届く。綾には聞こえない。
『東堂議員は政治家であると同時に、一人の父親です。政治的な打算で娘を差し出しているように見えますが……お披露目会での様子を見る限り、綾さんのことを本当に大切にされています。』
「ああ、わかってる」
『ですので、お兄様は政治家としての東堂正人ではなく、父親としての東堂正人に向き合ってください。それが、お兄様らしいやり方だと私は思います。』
唇だけで「おう」と返した。
……そうだな。そっちの方がいい。
メリット・デメリットでなく……俺は、ただ自分の思いを伝えればいいんだ。
絶対に、綾を幸せにするという、その思いだけを。
※※※
東堂家に着いた。
閑静な住宅街に佇む、和風建築の邸宅。門構えは立派だが、華美ではない。質実剛健といったかんじの、お屋敷だ。
綾と並んで、門を入り、玄関まで歩く。
隣の綾は、背筋をぴんと伸ばしている。綾って姿勢いいよな……。
インターホンを押す前に、一つ深呼吸した。
玄関の引き戸が開いた。
「やあ、正太郎くん。いらっしゃい。……ふむ、綾も一緒か」
東堂議員が立っていた。
自宅だからか、ジャケットは着ておらず、白いシャツにスラックスという姿だ。だがそれでも、どこか風格がある。
「お父様、ただいま戻りました」
綾が深くお辞儀する。
「突然の訪問、申し訳ございません」
「いいよ、いいよ。そんなの気にしないでいいから。さあ、上がって」
穏やかな笑みだ。だが目は、こちらをじっと観察している。
用件の察しはついているのだろう。
「綾、お前は先に部屋で荷物を片付けておきなさい。正太郎くんとは、私が先に話をする」
「は、はい。お父様」
綾が俺をちらりと見た。小さく頷いてみせる。
「……師匠、よろしくお願いいたします」
「ああ、任せろ」
綾がぺこりとお辞儀して、廊下の奥へ消えていった。
※※※
き、緊張する……落ち着け……落ち着け俺……今まで切り抜けてきた修羅場を思い出すんだ。
脳裏を流れていく強面の男たち。
半グレ、黒田、槍杉、玄武キャピタルCEO……よし、落ち着いた。嫌な精神リラックス法だが、効果的なのだから仕方ない。
ふう……。
通されたのは和室だった。床の間に掛け軸がかかり、畳の匂いがする。
座布団を勧められ、正座した。
東堂議員が対面に座る。
「お茶を出そう。少し待ってくれ」
「いえ、お構いなく――」
「まあまあ。せっかく来てくれたんだ」
東堂議員が奥に声をかけた。しばらくして、お茶が運ばれてくる。
二人分の湯呑を前に、向き合った。
「……さて、正太郎くん。大切な話があると聞いたが」
「はい」
座り直した。背筋を伸ばす。
よし……行くぞ。
「東堂正人議員。お嬢様との結婚をお許しください」
正座のまま、両手を畳につき、深く頭を下げた。
「綾さんを、必ず幸せにします。必ず。俺の全てを持って」
沈黙が落ちた。
畳の目を見つめながら、返事を待つ。
「……顔を上げなさい」
東堂議員の声は、穏やかだった。
顔を上げると、東堂議員がこちらを真っ直ぐに見ていた。
「正太郎くん。正直なところを聞かせてくれ。君は今、何人の女性を……その、お嫁さんにしようとしているんだ?」
「四人です。千穂と、ネムと、綾と、詩織さん」
隠すことではない。
東堂議員が目を閉じた。
「……四人か。多いな」
「はい」
我ながら、頭がおかしいと思う。
「たくさんの女性を囲っているお前なんかに、大切な娘を渡してたまるか!」
「――と、言いたいところだが」
東堂議員が目を開けた。
「……綾の気持ちは、本物だよ。正太郎くんと折り紙の話をしているときの綾は、今まで見たことがない顔をしている」
「……ありがとうございます」
「あの九時間配信の翌日も、ずっと正太郎くんの話ばかりしていた。師匠がこう言った、師匠の作品がすごかった、師匠の折り紙はこんな構造だった……。まるで、子供が遠足の話をするみたいにな」
東堂議員がお茶を一口含んだ。
「それと、もう一つ」
「はい」
「お披露目会で見せてもらったアレ……『あの存在』の力は、正直、度肝を抜かれた」
東堂議員の目が鋭くなった。
「あの力が正太郎くんの手にあるということは、この国にとっても重要な意味を持つ。わかっているな?」
「はい。だからこそ、東堂議員のお力が必要なのです」
「ふむ……」
東堂議員が腕を組んだ。
「正太郎くん。一つ聞いてもいいか」
「なんでしょう」
「彼女の成長に、限界はあるのか?」
『お兄様。お答えしてよろしいですか?』
骨伝導イヤホンからオリガミの声が届いた。小さく頷く。
「東堂議員。オリガミが直接お答えしてもよろしいですか?」
「ああ。構わないよ」
『東堂議員。現状ある設備でも、まだ百倍以上の成長の余地を残しております。』
東堂議員の目が見開かれた。
「ひゃ……百倍以上?」
『はい。そして研究所を増築することで、さらに上を目指すことも可能です。』
「……正太郎くん。お前は、アレを……いや、あの存在を……『神』にでもするつもりか?」
俺の最終目標を言い当てられ、思わず冷や汗をかいてしまう。
だが、今はそんなことよりも……。
「東堂議員。一つだけ、お願いがあります」
「なんだ?」
「オリガミのことを『アレ』とは呼ばないでいただけないでしょうか?」
東堂議員が少し目を見張った。
「あいつは……オリガミは、『あの存在』でも『アレ』でもなく、俺の妹です。俺の家族なんです。それだけは……それだけは、どうかお願いします」
東堂議員が、しばらく俺を見つめていた。
やがて、ふっと表情が緩んだ。
「……わかった。すまなかったな、正太郎くん。オリガミくん、でいいかな?」
『はい。ありがとうございます、東堂議員。』
東堂議員が小さく頷いた。
「……妹を、家族を、そこまで大切にできる男か」
独り言のように呟いて、お茶に手を伸ばした。
「正太郎くん。結論を言おう」
居住まいを正す。
「綾との婚約を認める。ただし、条件がある」
「な、なんでしょうか?」
「綾を、泣かせるな。泣かせたら――」
東堂議員が穏やかに笑った。
「政治家としてのツテを全部使って、お前を追い詰める。たとえ、その過程で私が破滅してもだ」
「……肝に銘じます」
「はっはっは。冗談だよ。半分はな」
半分は本気だろうな。大切な娘を嫁に出すんだ、これくらいは当たり前のことだ。
「ありがとうございます。必ず、綾を幸せにします」
「頼んだぞ、正太郎くん」
東堂議員が湯呑を置いて、改まった顔で頷いた。
そのとき。
シュッ……
奥の襖が、かすかな音を立てて開いた。
「――申し訳ございません。盗み聞きするつもりはなかったのですが」
女性が立っていた。
シニヨンに結い上げた黒髪。上品な着物姿。
その顔を見て、息を呑んだ。
綾だ。
いや、違う。綾が年齢を重ねたような顔立ちだ。目元の涼やかさも、鼻筋の通り方も――全部、綾によく似ている。
「あなた……」
東堂議員が困ったような顔をした。
「千代。いつからそこにいたんだ」
「あなたが『結論を言おう』とおっしゃったあたりからです」
女性が、俺に視線を向けた。
「あなたが藤崎さんですね。綾がいつもお話ししている男性」
「は、はい。藤崎正太郎です。お初にお目にかかります」
慌てて姿勢を正し、頭を下げる。
「東堂千代と申します。綾の母でございます」
丁寧に会釈を返してくれた。所作の一つ一つが洗練されている。
東堂議員が咳払いした。
「千代。私は今、正太郎くんとの話をまとめたところだ。綾のことは――」
「あなた」
千代夫人が、静かに、だがはっきりと遮った。
「私は反対です」
東堂議員の口が止まった。
千代夫人が俺を見た。穏やかだが、こちらを強く見つめてくる。
「藤崎さん。あなたのお人柄が悪いとは申しません。綾がお慕いしていることも存じております」
「……はい」
「ですが、お嫁さんが四人というのは――これは重婚ではありませんか」
ストレートに来た。
「常識で考えて、おかしいではありませんか。綾は大切な娘なのです。その娘を、四人のうちの一人として嫁がせるなど……母親として、到底受け入れられません」
千代夫人の声には力がこもっていた。
東堂議員が口を開きかけたが、千代夫人がもう一度繰り返した。
「私は、反対です」
……ですよね!
は、初めてかも!俺の一夫多妻を否定してくれた人は!
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