音響ブラックホール
「さて、丸戸氏」
アユ美トークも異世界トークも一段落し、丸戸氏の様子がようやく落ち着いたところで、本題を切り出す。
「教授から話を聞いてるとは思うんですが、ブラックホールとホーキング輻射の研究や実験に興味がありまして……」
「おお、聞いてるお!AIシミュレーションとの比較検証ってやつだお!」
「そうです。ウチのAIでブラックホール周りのシミュレーションを回してるんですが、実験データと突き合わせたくて。ホーキング輻射の実測データがあったらな……って思ってたんですけど」
丸戸氏が腕を組んで、うんうんと頷いている。
「でも……ホーキング輻射関連で、実測データを得られる実験なんてあるんですか?」
素朴な疑問をぶつけてみた。ホーキング輻射って、ブラックホールから出る放射だろう。実際のブラックホールは遥か彼方にあるはずだ。降着円盤の熱ノイズに埋もれて観測できないともオリガミは言っていた。
丸戸氏の目が、さらに一段と輝いた。
「できるお!」
そう言うと、その巨体を乗り出してきた。おお……迫力がある。
「音響ブラックホールってやつを使うんだお!」
「音響ブラックホール?」
「音でブラックホールを作るんだお!光の速さより吸い込む速さが速いのがブラックホールなら、音の速さより吸い込む速さが速いのが音響ブラックホールってわけだお!」
「へえ……」
「実験には、超冷却した原子ガスを使うんだお!ボーズ・アインシュタイン凝縮体……BECって言うんだけど、これを管の中で加速するんだお!」
丸戸氏が机の上のペンを掴んで、空中に図を描き始めた。
「ガスの流れが音速を超えるところに、『音の事象の地平面』ができるんだお!光が逃げられないブラックホールの代わりに、音が逃げられない領域を作るってわけだお!」
「音が逃げられない領域……」
「そこから漏れ出てくるフォノン……音の量子を検出すれば、それがホーキング輻射のアナログになるんだお!」
丸戸氏が興奮気味にペンを振る。
「つまり、実際のブラックホールまで行かなくていいんだお!実験室で、ブラックホールの物理を再現できるんだお!」
実験室でブラックホールを再現する。それができるなら……ホーキング輻射っぽいものが観測できるというわけか。
オリガミの声が、耳の裏の骨伝導イヤホンから届く。
『すばらしいです。実際のブラックホールである必要はないかもしれません。ホーキング輻射を測定すればいいわけですから。やってみる価値はあります。この方法以外で、我々がホーキング輻射を観測できる手段はないと思われます。』
価値がある。その一言だけで十分だ。
「すごいですね、それ。実験室でブラックホールの物理が再現できるって、めちゃくちゃ面白いじゃないですか」
「でしょう!?でしょう!?」
丸戸氏が嬉しそうに何度も頷く。
「俺っちも実験してみたいんだけど……資金がなぁ」
丸戸氏の声のトーンが少し落ちた。
「特任助教って、ポストが不安定でさぁ。超冷却装置もレーザー系の機材も高額だし、予算が全然足りないんだお!」
弟さんが黙って頷いている。
「でも……失礼ですが、音響ブラックホールってやつ、資金さえあれば、丸戸氏に作れるものなんでしょうか?」
丸戸氏が、一瞬だけ黙った。
……そして、胸を張った。
「大丈夫だお!海外のラボで、作ったことあるから!装置組んだのも俺っちだし!」
「実際に作ったことがあるんですか!?」
「そうだお!すごいでしょ!ただ……すぐ蒸発しちゃうんだお」
丸戸氏の表情が少し曇る。
「すぐ蒸発って、どのくらいですか?」
「数十ミリ秒だお」
「数十ミリ秒」
一瞬じゃないか。
「なんでそんなにすぐ消えちゃうんです?」
丸戸氏がメガネを押し上げた。
「まず、超音速の流れを維持するのが不安定なんだお。ちょっとでもパラメータがずれると、流れが乱れて崩壊しちゃうんだお」
ペンで机をトントンと叩きながら説明する。
「あと、観測するために光を当てるんだけど、その光の熱だけで温度が上がってBECが壊れるんだお。超冷却してるから、ほんのわずかな熱で全部パーになるんだお」
「光を当てただけで壊れる……」
「磁気トラップとレーザーの制御精度にも限界があるし。結局、一回数十ミリ秒の実験を何千回も繰り返して、データを積み上げるしかないんだお」
何千回。気の遠くなる話だ。
丸戸氏が遠い目をした。
「もっとじっくり観測できたら、もっといろんなことがわかるのになぁ。あのとき、超音速流がもう少しだけ長くもってくれたらって、ずっと思ってたんだお」
丸戸氏は、海外の研究室で装置を組んで、自分の手で音響ブラックホールを作っている。でも一瞬で消えてしまう。なにか……なにかできることはないだろうか?
そんなときだった。オリガミの声が、再びイヤホンから聞こえてきた。
『装置の制御系を私に繋いでいただければ、磁気トラップとレーザーのパラメータをリアルタイムで最適化し続けることができます。維持時間を大幅に延ばせる可能性があります。』
それはつまり、数十ミリ秒で消えていたものを、もっと長く持たせられるかもしれないということだ。
「丸戸氏」
「お?」
「装置の制御系に、ウチのAIを繋いでもいいですか?磁気トラップとレーザーのパラメータを、リアルタイムで最適化できるかもしれません。安定化を手伝えると思うんですが」
丸戸氏が固まった。
メガネの奥の目が、丸くなっている。
「……マジでござるか?」
「マジです」
「AIによる制御で音響ブラックホールを安定化!?」
丸戸氏が立ち上がった。椅子が後ろに弾き飛ばされる。弟さんがさっと椅子を受け止めた。
「それができたら革命だお!制御系の精度がボトルネックだったんだお!人間の手じゃ、ミリ秒単位のフィードバックなんて無理なんだお!」
「ウチのAI、そういうリアルタイム制御は得意なんですよ」
『余裕ですね。』
オリガミも自信満々だ。可能性が見えてきて、声色が明るくなってきている。
俺の背中にコバンザメしていたネムも、顔を出し、会話に入ってくる。
「す、す、すごいじゃないか!丸戸!オマエ、なかなかデキるやつだな!」
興奮するネムに、丸戸も興奮だ。
「ネムたんに褒めてもらえて、光栄だお!幸せだお!」
興奮冷めやらぬ丸戸氏に、さらに追い討ちをかける。
「あと、資金もドールハウスが出します。共同研究ってことで、是非やりましょう!」
丸戸氏の目から、涙が滲んだ。
「でゅふふふ……でゅふふふ……!」
笑いながら泣いている。器用な男だ。
「共同研究!資金も機材もAIも!こんなの夢みたいだお!俺っち、ずっとやりたかったんだお!」
丸戸氏が目元をTシャツの袖で拭う。
「ずっと、音響ブラックホールをもう一回作りたかったんだお!でも予算がなくて、装置を組む金がなくて……ずっと、論文だけ読んで妄想してたんだお!」
弟さんが静かに微笑んでいた。
「兄さん、よかったね……!」
ネムは何も言わない。が、口元が少しだけ緩んでいる。
「ありがとうだお!正太郎氏!マジでありがとうだお!」
丸戸氏が両手で俺の手を握ってブンブン振る。お、おおう、握力がすごい。
「こ、こちらこそ、よ、よろしくお願いします」
手を振り回されながら答えた。
そのとき。
丸戸氏が突然、手を離した。
そして、床に崩れ落ちるように――土下座した。
「あともう一つだけ!もう一つだけお願いがあるお!」
額が床についている。全力の土下座だ。フィギュアが並ぶ研究室の床に、太った体が伏せている。シュールすぎる。
「ちょ、丸戸氏!?やめてください!頭を上げてください!」
あわてて肩を掴む。
丸戸氏が顔を上げた。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。
「頼むお!一生に一度のお願いだお!俺っちだけの、美少女AIモデル作って欲しいお!」
「……は?」
「やる気が100倍になると思うお!実験の成功率も爆上がりする気がするお!」
気がするって……。
「アユ美たんみたいなのがいいお!アユ美たんが俺っちを応援してくれたら、寝ないで実験できるお!ごはん食べなくても実験できるお!」
睡眠とごはんは重要だ。抜かないでほしい。
「ふむ……それぐらいなら、いいんじゃないか?」
……ネムの言うとおりだ。オリガミにVTuberを一体作ってもらって、丸戸氏専用のものにすればいいだけのことだ。
オリガミ、できるよな?
『もちろん可能です。』
……うん、今のところ唯一の可能性を持つキーパーソンだ。それぐらいいいだろう。
「ネムたん、優しいお!天使だお!さすまど!」
「う、うるさいぞ、オマエ!ネムたん言うな!ワタシはお姉ちゃんなんだからな!」
ネムの顔が真っ赤になる。
「兄さんがスミマセン、スミマセン」
弟さんが何度も頭を下げている。
「丸戸氏、頭を上げてください」
もう一度肩を掴んで、丸戸氏を起き上がらせる。
「わかりました。美少女AI、用意しますよ」
丸戸氏の目が光った。
「マジかお!?」
「マジです。ウチ、AIの会社ですからね。上手くやれば、丸戸氏専用の美少女AIぐらいすぐ用意できますよ」
丸戸氏が再び涙目になった。感情の振れ幅がすごい。
小声でオリガミに伝える。
『私の中のアユ美リージョンを複製しましょう。実際のアユ美と同一です。さぞかし本望でしょう。ふふっ。』
本物のアユ美が丸戸氏だけの相手をするということか。丸戸氏が知ったら卒倒するだろう。
とはいえオリガミのやることだ。色々とやりすぎないか不安だ。気付いたら廃人になってたとか嫌だぞ俺は。
「お、おい……協力者だからな?変なことするなよ?」
唇の動きだけで釘を刺す。
『もちろんです。丸戸さんが最高のパフォーマンスで働いてもらうためのお手伝いをするだけです。』
だ、大丈夫かな……心配すぎるんだが……。
オリガミの「お手伝い」という言葉の裏に、何か別のものが透けて見える気がした。気のせいだと思いたい。
「正太郎氏!美少女AIの仕様なんだけど!」
丸戸氏が目を輝かせて迫ってくる。
「音声はアユ美たんの声がいいお!あと、実験データの可視化もしてくれると嬉しいお!グラフがアユ美たんの手描き風になったりしないかお!?」
「それは……余裕ですね」
ホンモノだし。
「あと!実験が成功したら『すごいねー!』って褒めてくれる機能!失敗しても『次はきっとうまくいくよー!』って励ましてくれる機能!うーん、AI専門家としてネムたんは、他にどんな機能があったらいいと思うお……!?」
止まらない。要望が果てしない。
「わ、ワタシはお姉ちゃんなのに『ネムたん』とは何事だ!」
ネムが声を荒げた。
「ネムお姉ちゃん!」
「ワタシは、オマエのお姉ちゃんじゃない!ヤメロ!」
弟さんが小走りでこちらに寄ってきた。
「兄さんがすみません……本当にすみません……」
「い、いえ、大丈夫です」
丸戸氏とネムの言い合いを眺めている、オリガミが声が聞こえてくる。
『お兄様、素晴らしい人材ですよ。まさに最もいま私たちがほしかった人材です。できすぎなぐらいです。』
……だよな。
音響ブラックホールを自分の手で作ったことがある実験物理学者。資金さえあれば、もう一度作れる。オリガミのAI制御で安定化できれば、観測時間は飛躍的に伸びるかもしれない。
観測できれば……「境界ソケット」の手がかりが掴めるかもしれない。
できすぎなぐらい、か。
「ネムたん!アユ美たんの声で実験データ読み上げてくれる機能も欲しいお!『現在のBEC温度は20ナノケルビンでーす♡』みたいなやつ!」
「知らん!」
丸戸氏の暴走は、まだしばらく止まりそうになかった。
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