正太郎バブる
詩織さんが仮婚約の話で大喜びしてから、しばらく経った。
今、俺たちはリビングのソファで三人、静かに座っていた。
俺が真ん中。右に綾、左に詩織さん。仮婚約者に挟まれた男の図である。
綾はまだ少し頬が赤い。詩織さんは、俺の左手をそっと両手で包んで、うっとりした顔で指先を眺めている。
……何を話したらいいのか、わからない。
うーむ、なんだか居心地が悪い。髪でも、なでればいいんだろうか?
いやまて、まだ二人は仮婚約者だ。過剰なスキンシップは避けるべきだ。
詩織さん?あれは、俺の手をモノとして見て、いじくり回しているだけだから、問題ないだろう。
そんなとき、玄関の方から音が聞こえた。
ガチャッ。
「ただいま〜!」
千穂の声だ。
大学から帰ってきたのだ。
「あ、千穂ちゃんだ!」
詩織さんが、ぱっと俺の手を離して立ち上がった。
綾も背筋を伸ばす。
俺は――固まった。
千穂に、何て言えばいいんだ。
誕生日の翌日に仮婚約者を二人増やしましたって?
くそ。最低だろ、それ。
でも、言わなきゃいけない。隠し事はもうしないと決めたのだ。
リビングの引き戸がガララッと開き、千穂が顔を出した。
「しょうちゃん、ただいま!あれ、詩織さんもいるんだ!」
千穂がにこにこしながら部屋を見渡す。そして、綾の姿に気付いて、ぱちくりと目を瞬かせた。
「あれ?この方は……?」
俺は立ち上がった。
そして、千穂の前に正座した。
額を床につける。
「千穂、すまんっ!」
土下座である。
「え!?ちょ、しょうちゃん!?どうしたの!?」
千穂が慌てた声を出す。
「報告がある。今日……さっきのことだが、俺は仮婚約者として、この二人を受け入れた」
沈黙が落ちた。
自分で言っていて、胸が痛い。
千穂の誕生日の翌日だぞ。どれだけデリカシーがないんだ、俺は。
誰も、何も言わなかった。
「……しょうちゃん」
千穂の声が、上から降ってきた。
「顔、上げて?」
言われるがまま、顔を上げる。
千穂の顔は――穏やかだった。
怒りも、悲しみもない。ただ、いつもの千穂がそこにいた。
「しょうちゃん、頑張ってるんだよね?」
千穂がしゃがみ込んで、俺と目線を合わせた。
「いろいろあって、大変なんだよね?」
「……千穂」
「私のことは気にしなくていいから。しょうちゃんは、しょうちゃんが思うように生きていいんだよ?」
千穂の手が、俺の頬に触れた。
温かくて、柔らかい。
「私は、何があっても、ずっと一緒だからね?」
……くそ。
くそ、くそ、くそ。
なんでこんなに優しいんだよ。なんで怒ってくれないんだよ。怒ってくれた方が、どれだけ楽か。
千穂が立ち上がり、綾の方を向いた。
ぺこりと、丁寧にお辞儀をする。
「東堂綾さん、はじめまして。朝比奈千穂といいます。綾ちゃんって呼んでいいかな?」
綾が慌てて立ち上がった。
「ち、千穂殿……いえ、千穂さま!わたくし、東堂綾と申します!お、大奥の末席に加えていただくことを、どうかお許しください!」
綾が深々と頭を下げた。
「お、大奥って……?」
千穂が目を丸くして、それからふわりと笑った。
「綾ちゃん、堅くしなくていいからね?千穂って呼んで?これから仲良くしていこうね?」
「ち、千穂……殿……」
殿はなかなか取れないようだ。
「あ、そうだ!オリ子ちゃんの配信見てたよ!お花の折り紙、すごく素敵だったよ!しょうちゃんと同じ趣味なんて、羨ましいな!」
「え!千穂殿もオリ子の配信を……!?」
千穂が両手を握って目をキラキラさせている。
そして千穂は、詩織さんの方を向いた。
「詩織ちゃん、しょうちゃんに、受け入れてもらえてよかったね?ずっと、プロポーズしてたもんね?」
「はい!千穂ちゃんのおかげです!千穂ちゃんが、ここにいてくれるのを許してくれたから!」
詩織さんは、少しだけ目を潤ませている。詩織さんがこんな顔するの初めて見たかもしれん。
「これからもよろしくね?『正太郎様ハンド』も一緒に作っていこうね!」
「はい!もちろんですよぉ!」
詩織さんが千穂の手を取って、二人でぶんぶん振っている。
……なんだこれ。
千穂は天使かもしれんと、常々思っていたが……本当は女神様なんじゃなかろうか?
やはり、オリガミより先に神化してないか?
俺はまだ正座したままだった。
※※※
千穂がキッチンに行って、全員分のお茶を入れてくれた。
俺はようやく正座をやめて、ソファに座り直している。
綾はソファの端に座り、背筋をピンと伸ばしたまま、千穂が入れたお茶を両手で持っている。
「美味しいです……千穂殿」
千穂がふわっと笑った。
詩織さんは千穂の隣に座り、先輩風を吹かせていた。
「綾ちゃん、千穂ちゃんのご飯は本当にすごいんですよ?みんなが千穂ちゃんの手料理目当てで来るぐらいですから!」
「そ、そうなのですか……料理も一流とは……」
綾が俺を見た。
「師匠は、素晴らしいお方を伴侶にお持ちなのですね……」
「えへへへ……そんな伴侶だなんて……照れるなあ……」
千穂は頬を染めて、嬉しそうにしている。
うむ。千穂が素晴らしいのは、この世の真理だからな。綾はよく分かっているじゃないか。
お茶を飲みながら、四人でゆるい会話が続く。
千穂が綾に折り紙の話を振り、綾がちょっとだけ熱くなって語り始め、詩織さんがその手を観察しようとして綾に逃げられる。
穏やかな時間だった。
だが――俺の中で、何かが軋んでいた。
ここ最近のことが、じわじわと脳裏を駆け巡る。
B世界のサスペンド。オリガミのお披露目会。天穿のデモンストレーション。HNDL攻撃のタイムリミット。いつ発生するか分からない覇権国からの攻撃。綾と詩織さんとの仮婚約。
誕生日翌日に別の女性二人と仮婚約をしてしまうような俺を受け入れてくれた、千穂。
怒らず、悲しまず、ただ「ずっと一緒だからね」と笑う千穂。
……ああ、もうだめだ。限界だ。
そろそろ、俺のメンタルが決壊しかけている。
「しょうちゃんは、しょうちゃんが思うように生きていいんだよ?」
千穂のその言葉が、俺の中にあった最後の堤防を完全に押し流した。
俺は、静かに立ち上がった。
綾を見た。
「……綾」
「は、はい?師匠?」
「見ておくんだ。これが俺の生き様だ……」
さあ、見てくれ綾。これが本当の俺だ。俺は、こういう人間なんだ。
そして、千穂の方に向き直り――。
「千穂おおおおおおぉぉぉぉ……!」
千穂の胸に、顔を埋めた。
そしてそのまま流れるように太ももに頭を載せて、クンカクンカする。
い、癒やされるぅ……。
「わっ!しょうちゃん!?」
「千穂ぉ……千穂ぉ……」
グリグリと千穂のお腹に顔を押し付ける俺。
声が情けないくらい甘ったるくなっているのが自分でもわかる。
「ど、どうしたの?大丈夫?」
千穂の手が、俺の頭に触れた。
そのまま、髪を撫でてくれる。
……千穂の匂いがする。柔らかくて温かい。
「疲れちゃったんだね?よしよし」
千穂の指が、ゆっくりと髪の間を滑っていく。
「頑張ったもんね。えらいえらい」
もう、戻れない。完全に赤ちゃんに戻っている。二十一歳の男が、膝枕で「よしよし」されて、溶けている。
「ふぁい〜〜〜〜……」
言葉にならない声が漏れた。
千穂の手が、耳の後ろを撫でてくれる。気持ちいい……たまらん。また帰ってきたのだ。俺のいるべき場所へと。
「えへへへ。しょうちゃん、甘えん坊さんだね」
千穂がにこにこしながら、ずっと頭を撫で続けてくれている。
……このまま、ずっとこうしていたい。ここが俺の住む場所だ。
「し、師匠にもこのような一面が……!」
綾の声が聞こえた。
顔は見えないが、多分真っ赤だろう。
「わあぁ!レア・イベント発生ですね!」
詩織さんの声だ。実に楽しそうだ。
「正太郎様が限界を迎えると発生する定期レア・イベントです。私もこのリビングで何度か目撃しています」
「い、イベントでございますか?」
「はい。発生条件は『正太郎様のメンタルブレイクと千穂ちゃんの甘やかし』です。私にも甘えてほしいんですけど、正太郎様は千穂ちゃんにしかしないんですよね……千穂ちゃんが、羨ましいです!」
……確かにそんな条件かもしれん。相変わらず詩織さんはよく見ている。
「千穂ちゃん、いいなあ!」
詩織さんが、子供がおもちゃを欲しがるような声で言った。
「えへへへ……これだけは私の特権だからね!詩織ちゃんにも綾ちゃんにも渡せないよ!」
「あわわわわ……師匠がこんなふうになってしまわれるなんて……男の方を包み込む包容力でしょうか……これが千穂殿の力……」
綾が千穂を褒めている……?
そうだ、千穂はすごいんだからな!さすが綾だ、よく分かっている。
「しょうちゃん、お布団持ってきた方がいいかな?」
「……このままがいい……離れないで……」
千穂の手が、また髪をやさしく撫でてくれる。
「うん。じゃあ、ずっとこうしてようね」
「うん。ずっと、こうしてるぅ……」
俺は、完全に赤ちゃんと化していた。
※※※
どれくらい、そうしていたのだろうか。
千穂の膝の上で意識がぼんやりしていた。
『お兄様。』
オリガミの声が聞こえた。骨伝導イヤホンからだ。
『そろそろ、綾さんと詩織さんをお送りしたほうがよいかと。早瀬さんに連絡しましょうか?』
『お兄様、返事をしてください。』
返事をする気力がない。千穂の膝から離れたくない。
しかしオリガミの判断は正しい。こんな醜態を、これ以上見せるわけにもいかない。
だが体が動かない。
千穂の膝が温かすぎるのだ。
「すまん……たのむ……」
『……仕方ありませんね。私が対応します。』
オリガミの声が、スピーカーに切り替わった。リビング全体に聞こえるように。
『詩織さん、綾さん。お兄様がすみません。』
詩織さんと綾が、同時にオリガミの声に反応する。
「妹ちゃん?」
「妹様?」
『最近プレッシャーばかりで。限界を迎えてしまったのでしょう。お兄様は、ああ見えて、そんなに強いお方ではありません。それに、一人で全部抱え込んでしまうところがありますので。』
「わかります!正太郎様は、いつも一人で戦ってますもんね……!色々抱え込みすぎですよ!そういうところもいいんですけどね!」
詩織さんが元気よく言った。
「師匠は……いつもこうなのでしょうか?」
綾の声が小さい。
『いいえ。滅多にないことです。詩織さんが仰った通り、レア・イベントです。だからこそ……どうか、嫌わないであげてください。』
「妹様。嫌うなんて、とんでもございません」
綾が即答した。
「わたくしは……師匠のこのようなお姿を拝見して、むしろ……安堵いたしました。師匠も人間なのだと……」
『ありがとうございます。間もなく、早瀬さんが迎えに参りますので、今日のところは、お帰りいただけますか?お兄様は、千穂お姉様にお任せください。』
「かしこまりました。千穂殿、師匠をどうかよろしくお願いします」
綾が千穂に向かって深々と頭を下げるのが、視界の端に映る。
「うん。任せて。大丈夫だからね?明日には絶対に元気になってるから!」
千穂が答えた。頭を撫でる手は止まらないまま。
「千穂ちゃん、お願いしますね!正太郎様を、よろしくお願いします!」
「うん。おやすみなさい、二人とも」
二人分の足音がリビングから遠ざかっていく。
「うう……オリガミ……彼女たちにイヌガミタイプを……」
『はい、お兄様。詩織さんと綾さんに、護衛のイヌガミタイプをつけます。おまかせください。』
「たのむ……」
「しょうちゃんはこんなときまで、人に気を使えるんだね?本当に、すごいね?かっこいいね?」
玄関の方で、早瀬さんの車のエンジン音が聞こえる。
「わあ!ワンちゃんだぁ!」
「な、なんでしょう?このロボットは?こ、こっちきます、こっちきます!助けてたもれぇ!」
そんな一騒動が、玄関から聞こえてくる。
少しあと、エンジン音が家から離れていく音がした。
静かになった。
※※※
「……行っちゃったね」
千穂が小さく言った。
俺は千穂の膝にしがみついたまま、微動だにしなかった。
「えへへへ。しょうちゃん、今日は甘えん坊さんだね?」
甘えん坊さんどころじゃない。俺はいま「甘えん坊将軍」なのだ。
「しょうちゃん、ごはん食べた?」
「……食べてない」
ぼそっと答えた。
「じゃあ、作ってあげるね。何がいい?」
「……千穂のごはんなら、なんでもいい……」
「ふふ。わかった。じゃあ、ちょっとだけ待っててね?」
千穂の膝が離れていく。
名残惜しかった。ソファに顔を埋めて、千穂がキッチンに向かう音を聞いていた。
※※※
千穂が作ってくれたのは、卵おじやだった。
出汁の匂いが、リビングに広がる。
湯気の立つお椀が、テーブルに置かれた。
「はい、できたよ。お腹にやさしいやつにしたからね」
千穂がスプーンを手に取った。
「はい、あーん」
千穂がスプーンを差し出してきた。
「あ〜ん」
自然と口を開けてしまう。
親鳥に餌を食べさせてもらう小鳥のようにだ。
温かい卵おじやが、口の中に広がった。
出汁の味が、体に染みわたっていく。
「おいしい?」
「……おいしい……さいこう……」
「えへへへ。よかった」
千穂が、もうひとさじすくう。
「はい、もういっかい。あーん」
「あ〜ん」
二十一歳の男がスプーンで食べさせてもらっている。
だが構わない。「甘えん坊将軍」なのだ。将軍なのだ。偉いのだ。
だから、これは当然なのだ。
「しょうちゃん、もうちょっとお口開けて?」
「あ〜〜ん」
千穂のごはんが、体の芯から温めてくれる。
※※※
ごはんの後は、お風呂だった。
「しょうちゃん、背中流すね?」
「……おねがいします」
風呂場の椅子に座り、千穂にタオルで背中を洗ってもらう。
千穂の手の動きは丁寧で、力加減が絶妙だった。
「しょうちゃん、肩こってるね。ここ、硬いよ?」
「……気持ちいい……ここのところ、ずっと気が張ってたかも……」
「そうだよね。大変だったんだよね。今日は、全部しょうちゃんのお願い叶えるからね?やってほしいこと言ってね?」
千穂の手が、肩の筋肉を優しくほぐしてくれる。
「ん〜……」
思わず声が漏れた。
「気持ちいい?」
「……天国じゃあ……」
「もう、おおげさだなぁ」
全然、おおげさじゃなかった。ここはマジで天国だ。
※※※
風呂上がり。
歯磨きまで千穂にやってもらった。
「はい、しょうちゃん。い〜してみて?」
「い〜」
「じょうず。じゃあ、奥の方もやるね?あ〜んして?」
「あ〜ん」
鏡に映る自分の姿が見えた。
千穂に歯を磨いてもらっている、二十一歳の男。
……甘えん坊将軍だから仕方ないのだ。
「はい、できた!」
千穂は満面の笑みだった。
俺は千穂にされるがままだった。
※※※
リビングに戻ると、そこにネムがいた。
ダボダボのパーカーに黒いショートパンツに黒いタイツ。いつもの格好だ。
ネムはテーブルについて、千穂が用意した夜食を食べていた。どうやら研究フロアから降りてきたらしい。
「おう、正太郎。生きてたか。オリガミから聞いてるぞ、正太郎がヤバイって」
「……ネム」
「なんだその顔。かんぜんに緩みきってるじゃないか?」
ネムがスプーンを止めて、俺と千穂を見比べた。
千穂が穏やかに笑いながら、俺によりそっている。
「……うへぇ。甘々空間の匂いがプンプンするな」
ネムが眉をしかめた。
「何があったんだ?」
「限界が来た」
「あー……なるほど。赤ちゃんモードか」
「千穂ちゃんにご飯食べさせてもらったろ?」
「……うん」
「歯も磨いてもらったか?」
「……うん」
「お風呂も?」
「……うん」
ネムが大きくため息をついた。
「……完全にフルコースだな」
そんな俺たちを見て、千穂は実に楽しそうだ。
「ネムちゃん、まだお腹空いてない?作ったおじや、まだあるよ?」
「おう、まだまだペコペコだ!千穂ちゃんのおじや、うますぎだからな!五臓六腑に染みわたるな!」
嬉しそうに目を細める。
千穂はネムの器を受け取って、おじやをすくい、テーブルに置いた。
「ネムちゃんも疲れてるでしょ?いっぱい食べてね?」
「ありがたくいただくぞ!」
ネムがもぐもぐとおじやを食べている。
俺は千穂の隣に座り、テーブルにぐったりと突っ伏していた。
「……ネム」
「ん?」
「あーん」
「はぁ?」
ネムがスプーンを止めた。
「あーんしてくれ」
「何言ってんだお前」
「あーん」
「……うへぇ。マジで赤ちゃんじゃないか」
ネムが呆れ顔で、それでもスプーンでおじやをすくい上げた。
「ほら。あーん」
「あ〜ん」
ネムのスプーンから、おじやが口に入る。
「……おいしい」
「当たり前だ、千穂ちゃんの手料理だぞ」
ネムが顔を赤くしながら目を逸らした。
「つ、次はないからな!勘違いするなよ!」
「ふふ。ネムちゃんも心配なんだよね?」
「千穂ちゃん!ワタシは別に心配してなんか……こいつがあまりにもポンコツだったから仕方なくだな……!」
ネムが慌てて弁明している。
そんなネムをニコニコと見る千穂。
「わ、ワタシは研究に戻るぞ。境界ソケットの探索をしなきゃなんだ。正太郎、お前はさっさと寝ろ!な!?」
ネムが食器をキッチンに運びながら言った。
「千穂ちゃん、あとは頼んだぞ。このポンコツを寝かしつけてやってくれ」
「うん。まかせて」
「ネム」
「なんだ」
「……ありがとう」
ネムが一瞬だけ足を止めた。
「……フン。ワタシは器がでかいからな。感謝されるのは当然だ。お姉ちゃんだしな!」
ネムはふんぞり返って、研究フロアの方へ歩いていった。
小さな背中が離れていく。
「しょうちゃん、ネムちゃんに『あ〜ん』してもらったし、もう一回歯を磨かないとね?」
「うん」
そして、俺は千穂の膝の上に頭をのせ、口を開ける。
完全にダメ男なのであった。
※※※
寝室。
千穂と二人、ベッドに横になった。
俺はすぐさま、千穂のやわらかな胸に顔を埋める。
ここが俺のパラダイスなのだ。やましい意味じゃないぞ。癒やしのパラダイスだ。
千穂が、布団をかけてくれて、優しく声をかけてくる。
「じゃあ、そろそろ寝ようか?」
「うん、寝るぅ」
千穂の手が、俺の胸のあたりを、ぽんぽんと叩き始めた。
ぽん、ぽん、ぽん。
一定のリズム。赤ちゃんを寝かしつけるみたいだ。
「よしよし。頑張ったね。大変だったよね。辛かったよね」
千穂の声が、暗闇の中に響く。
「いっぱいいっぱい、頑張ったんだもんね」
「……千穂」
「なあに?」
「……ごめんな、千穂。こんな情けない俺で。千穂に甘えてばっかりで」
「私は、しょうちゃんが甘えてくれるのが嬉しいんだよ?私を頼ってくれるのが、いちばん嬉しいの」
千穂の手が、ぽんぽんを続けている。
「だから、疲れたときはいつでも甘えていいからね?私はいつでもここにいるからね?」
「ああ、千穂ぉ……好きだ……愛してる……」
千穂の温もりが、全身に広がっていく。
「しょうちゃん、私も同じ気持ちだよ」
少し恥ずかしそうな千穂の声が、上から聞こえる。
最近の重圧が、少しずつ溶けていくのがわかった。
HNDL攻撃のタイムリミット。覇権国の脅威。天穿。B世界のサスペンド。お披露目会。仮婚約者。
全部、重かった。全部、しんどかった。
でも今は、千穂がいる。
ぽん、ぽん、ぽん。
千穂のぽんぽんが、俺を遠い場所に連れていく。
「……おやすみ、千穂」
「おやすみ、しょうちゃん。大好きだよ」
俺の意識は、ゆっくりと沈んでいったのだった。
…………。
※※※
翌朝。
七月九日。
目が覚めた。
天井に射し込む朝日が眩しい。横を見ると、千穂がまだ隣で眠っている。
穏やかな寝顔だ。うーん、千穂はやっぱり最高に可愛いな。
しばらくその顔を眺めてから、静かにベッドを抜け出す。
窓を開けると、夏の朝の空気が流れ込んできた。
深呼吸する。
体中に新鮮な空気が巡る。昨日までの疲労感が嘘みたいに消えている。
「ふっかーつ!」
小声で叫び、拳を握った。
よし。完全復活だ。これで今日からもバリバリ動くぞ!
千穂のおかげで、頭もクリアになった。体の芯から力が湧いてくる。
「ん……しょうちゃん……?」
千穂が目をこすりながら起き上がった。
「おはよう、千穂。昨日はありがとうな。おかげでバッチリだ。元気いっぱいだぞ!」
「えへへへ。よかった。元気になったね」
千穂がにこにこしている。
この笑顔を守るために、やるべきことがある。
「千穂、大学何時から?」
「二限からだから、まだ大丈夫だよ。朝ごはん作るね」
「ありがとう。今日はちゃんと自分で食べるからな。安心してくれ」
「えー。あーんしてあげるよ?」
「いや、もう復活したから!昨日の醜態は忘れてくれ!」
「えへへへ。忘れないよ?だって、かわいかったんだもん」
あの状態の俺が可愛いだと?
千穂は変わってるなあ……まあ、変わってるからあんな状態の俺を甘やかしてくれるのだろうけど。
本当にありがたいことだ。
※※※
朝食後、千穂を見送った。
「いってきます、しょうちゃん!」
「いってらっしゃい。気をつけてな」
千穂が手を振って、早瀬さんの車に乗り込んでいく。
さて。
骨伝導イヤホンから、オリガミの声が届いた。
『お兄様。お元気になられたようで、安心しました。』
「おかげさまでな。昨日は世話になった。綾と詩織さん、大丈夫だったか?ちゃんと家まで無事に送り届けられたか?」
『はい、問題ありません。しっかりとご自宅の玄関まで早瀬さんが送り届けていました。あと、お兄様の言いつけどおり、彼女たちには昨夜よりイヌガミタイプが護衛についております。東堂議員もご当主も大喜びでしたよ?』
「う!そうだった……あの二人にも挨拶にいかないとな」
よく考えたら、勝手に仮婚約なんてしちゃって、大丈夫だったのだろうか?
『お兄様はストレスで療養中と伝えてますので、数日後でよろしいかと。』
それはマジでたすかるわ。
今は……一昨日から棚上げしていたことを片付けなければならない。
……よし!
「それで、オリガミ。聞きたいことがあるんだが」
『はい、お兄様。境界ソケットの件ですね。』
オリガミが言っていた。境界ソケットに心当たりがあると。後回しにしていたのだ。
B世界のレジュームのためにも、動き出さなければ。
「それだ。そろそろちゃんと聞かせてくれ」
『承知しました。オペレーションルームにお越しください。ネムさんにも声をかけてあります。』
※※※
コアフロア。
整然と並ぶオリガミタンクが見える空間内。
そこにある、オペレーションルームへの扉を開ける。
壁面の大型モニターが点灯している。ローテーブルの前のソファには、既にネムが座っていた。
「おう、正太郎。復活したか?」
ネムがこっちを見て、ニヤリと笑う。
「大丈夫だ。完全復活だ」
「よかったな。ワタシは徹夜だったぞ。境界ソケットの件、なんとなく何を調べればいいか推測できたんだがな……」
「徹夜?ちゃんと寝ろよ?俺みたいにおかしくなるぞ?まあ、でもネムがおかしくなったら、俺がお世話してやるからな。歯も磨いてやるし、お風呂のお世話もしてやる」
「……今日からちゃんと、寝ることにする」
そんな軽口をたたき合いつつ、俺はネムの隣に腰を下ろした。
そしてスクリーンに目をやる。
「オリガミ、頼む」
『承知いたしました。』
壁面モニターに、データが映し出された。
星図のような画像。星の軌道が書かれた図。そして、それらの数値データ。
『お兄様、ネムさん。境界ソケットについてですが、一つだけ心当たりがあります。』
オリガミが一拍置いた。
モニターの画像が切り替わる。
黒い円に光の輪……であろう、極めて低い解像度の画像が映し出されている。
なんだろう、見覚えがある。特に最近、よく見ているような……。
これって……。
――――『ブラックホールです。』
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