母親・藤崎柚希
宇宙空間の中に、柚希さんが立ち尽くしている。
無限の暗黒。無数の星。天の川。
その全てに囲まれた柚希さんは、呆然と辺りを見回していた。
「……俺たちの力の、一端です」
声を発する。
柚希さんが、ゆっくりとこちらを見上げた。
俺は柚希さんよりも少し高い位置に立っている。
何かを確認するように、柚希さんは手を伸ばす。だが、何もないはずの空間に、指先がぴたりと止まった。透明な壁だ。
「……移動できないんだね?」
柚希さんが、静かに問いかける。
柚希さんは足元にも視線を落とした。そこには星屑が散らばる深淵しかない。
「落ちてしまっては困りますので、足場と壁を用意しています。一歩でも踏み出せば、大変ですよ」
「……そう」
柚希さんはしばらく黙った。
目の前に広がる宇宙を。頭上に流れる天の川を。足元の虚空を。
全てを確認するように、ゆっくりと見回す。
そして、深く息を吐いた。
「とんでもない科学技術だと思ったよ。……まさか、オカルトとはね」
「科学技術ですよ?」
俺は即座に返した。
「ただ、言うじゃないですか。『十分に発達した科学は魔法と区別がつかない』って」
アーサー・C・クラークの第三法則だ。
「なので、科学技術です」
柚希さんが、じっとこちらを見つめている。
あの冷たい目はまだ完全には戻っていない。だが、少しずつ、思考が追いついてきているのがわかる。
さすがだ。この状況で、これだけ早く冷静さを取り戻せる人間は、そうはいないんじゃなかろうか。
「……終わりますね」
俺が小さく呟く。
その声と共に『折』を解く。
『解除します。』
それと同時に、オリガミの声が、耳の後ろの骨伝導イヤホンから届く。
その瞬間――宇宙が消えた。
星が消えた。天の川が消えた。暗黒が消えた。
壁一面の本棚。三台のディスプレイ。付箋だらけのノートパソコン。家族の写真。
柚希さんの仕事部屋が、元通りに戻っていた。
最初から、何も変わっていなかったかのように。
「……どうですか?証拠になりましたか?」
柚希さんが、はぁ……と深いため息をついた。
眼鏡の奥の目を閉じ、こめかみを指で押さえている。
「……これが、一端なんでしょ?」
「はい」
「じゃあ……認めざるを得ないね」
柚希さんが目を開ける。
その目には、もう呆然とした色はなかった。
……切り替えが、早い。
たった数十秒の宇宙体験で、柚希さんは全てを受け入れた。いや、受け入れたのではない。受け入れるかどうかなんて、どうでもいいのだ。
この人が考えているのは、たった一つ。
この状況で、家族を守るにはどうすればいいか。それだけだ。
「……正太郎くん。わかったよ」
静かに、しかしはっきりと。
「私の家族には、影響が出そう?」
宇宙空間の仕組みも、技術の原理も、一切聞かない。
真っ先に確認するのは、家族への影響。
俺は一瞬だけ迷い、それから正直に答えた。
「……何かあったら、家の研究所に来てください。匿います」
「匿う?」
「核兵器でも防げますから」
柚希さんの表情が、わずかに歪んだ。
「そう……」
その言葉を噛み締めるように、柚希さんは呟いた。
「選択肢は、はじめからなかったってことね」
「多分……俺が高二の頃に、その選択肢はすでに消えています」
「……そっか」
柚希さんは分かっているのだろう。
たとえ俺たちの秘密を国家に流したとしても、俺たちがそれを甘んじて受け入れるつもりがないことを。理解不能な、異質な力を使ってでも、自らを守ろうとすることを。
そして、人の大切なものを奪おうとするなら、自分も大切なものを奪われる覚悟が必要だということを。
我ながら、身勝手で反吐が出る。だが、こればかりは俺も引けない。引けないのだ。
柚希さんは、デスクに軽く寄りかかった。
産後の体は、まだ本調子ではないだろう。さっきの宇宙空間も、相当な負荷だったはずだ。
それでも、柚希さんの思考は止まっていない。
選択肢がないことを確認した。リスクの規模を把握した。俺たちに力があることも確認した。
なら、柚希さんは決断するしかない。
「わかったよ。正太郎くんに全面協力する」
覚悟を決めた目が俺を貫く。
出産から十日。体はまだボロボロのはずだ。数分前には宇宙空間に放り出された。それでも、この人は取り乱さずに決断する。
……これが、母親か。
「……ありがとうございます」
頭を下げる。心からの感謝だった。
※※※
柚希さんがボソッと呟く。
「悠斗には……どう伝えよう?」
「叔父さんはこのこと知ってるんですか?」
俺が尋ねると、柚希さんは首を横に振った。
「知らないよ。悠斗と正太郎くんの間に溝を作りたくなかったからね。できるだけ私だけで処理するつもりだった」
……やはり、そうだったのか。
柚希さんは、俺に対する警戒を、叔父さんには一切知らせていなかったのだ。
俺と叔父さんの関係を壊さないために。
「お心づかい、感謝します」
ピッ。
背後で、電子錠が解除される音がした。
柚希さんが、リモコンで鍵を開けたらしい。
「それで?千穂ちゃんに伝えた後に、全部教えてくれるんだよね?」
「はい。約束します。叔父さんや東堂正人議員、笹木家の当主にも同時にお伝えしたいのですが……可能ですか?」
「じゃあ七月八日」
即答だった。
「千穂ちゃんの誕生日の翌日ね。千穂ちゃんに伝えたら、すぐに私たちにも教えてほしい」
千穂の誕生日が七月七日だということまで、把握している。
……かなわないな、この人には。
「……翌日ですか。早いですね」
「そりゃそうだよ。気になって仕方ないもの」
柚希さんが、わずかに口角を上げる。
「人も場所も、私がセッティングしておくよ」
「ありがとうございます。助かります」
「あれを見せるの?」
「いいえ……あれ以上のものをお見せします。俺たちの全てを」
柚希さんの目が、すっと細くなる。
「俺たちに協力すれば、自分たちの利益になるということを、知ってもらわなければなりませんからね」
「……大きく出たね」
「ことが起きたら一気に片をつけます。予兆はつかめますので、すぐに連絡します。そのときはぜひ研究所の方に滞在してください」
一呼吸置いて、続ける。
「叔父さん一家は……俺の弱点でもあるので……」
「まさか正太郎くんに守られることになるとはね」
柚希さんが、どこか可笑しそうに呟いた。
「いえ、俺たちが原因で発生するゴタゴタですから。柚希さんたちの権利と思っていただければ」
「権利、ね」
「絶対に勝ちます」
そう言い、真っ直ぐに柚希さんの目を見る。
「勝率は?」
「あと二ヶ月あれば……ほぼ100%です」
柚希さんは俺の目を数秒間じっと見つめ、それから小さく頷いた。
「……それ、花火会社、関係してるの?」
……え?
突然の話題転換に、思考が止まる。
ちょっと前に買収した花火会社のことだろう。
表向きは、『人工流れ星プロジェクト』を目的とした事業だ。
だが本当の目的は、天穿――超低高度軌道周回兵器の開発に必要なマイクロ固体燃料ロケットと、EMP弾頭用の熱電池の製造である。
そうだった。叔父さんに、買収できそうな花火会社はないかと相談したんだった。
そりゃ、柚希さんなら調べるだろう。
「……かないませんね」
苦笑するしかなかった。
「マイクロ固体燃料ロケットと熱電池ねえ……」
柚希さんが、指折り数えるように呟く。
「たしかに、何かできるとは思えない組み合わせだけど、正太郎くんたちのことだからね。さっきのあんなの見せられちゃったし」
柚希さんが、眼鏡越しにこちらを見つめる。
「いえいえ、あれはきれいな流れ星を作るためのプロジェクトですよ?関係ないですって」
「ふうん」
全然信じてない顔だ。
「流れ星ってきれいですよね。ネムが星好きでして。婚約者の好きなものって、やっぱり見せてあげたいじゃないですか」
「……そういうことにしといてあげようかな」
柚希さんが、真顔でそう告げた。
見逃してくれるらしい。ありがたいことだ。
だって、戦略兵器作ってます!とか、流石にここでは言えないし。
※※※
その後は、リビングへと戻ることになった。
柚希さんが前を歩き、俺がその後ろをついていく。
リビングからは、ゲームの電子音と、子どもたちの歓声が聞こえてくる。
俺は何気ない仕草で口元に手を当て、唇だけを動かした。
家のどこにカメラがあるかわからない。読唇術で読み取られるリスクは、排除しておきたい。
『お兄様、よかったですね。憧れの人と和解できて。』
骨伝導イヤホンから、オリガミの穏やかな声が届く。
「憧れだった人な?誤解を生むような表現はだめだぞ?」
『それにしても……バレなくてよかったですね。』
「ほんとだよ……。あの宇宙空間、見た目だけだからな」
実際には、投影魔法で空間に映像を映し出していただけだ。物理的には、柚希さんの仕事部屋のままだ。
「足場」は床。「壁」は俺が『折』で作ったものだ。
俺が「少し高い位置」にいたのも、足元に張った『折』の上に立っていただけだ。
『折』で柚希さんの周囲を囲っていたから、柚希さんはその場所から動けない。バレる心配は、理屈の上ではなかった。
だが――初めての使い方だ。
あの柚希さんを相手に、何を見抜かれるかわからないという緊張感は、尋常ではなかった。
ただ、あれだけの演出をしなければ、柚希さんほどの人物には信じてもらえなかっただろう。
「いやでも、バレなくてよかったぁ……!」
『……ええ、正直なところ、私も安心しました。藤崎柚希は何を見抜いてくるかわかりませんから。』
「え?オリガミもビビってたの?」
『ビビってなどいません。……心配していただけです。』
「本当?」
『ホントです!』
オリガミは頑なだった。
※※※
その後の柚希さんは、いつものほんわか柚希さんだった。
いや、いつも以上にほんわかしていた。
今までの俺への態度と、微妙に違う気がした。
やはり、ずっと警戒されていたのだろう。
ようやく、疑うより、協力したほうが家族が守れそうだと、確信してもらえたのだ。
なんだか少しだけ心のしこりが、とれたような気がする。
『まったく藤崎柚希は、お兄様に心労をかけて……困ったものですね。でもこれでようやくスッキリですね。お兄様、良かったですね!』
オリガミには、俺の考えていることも感じていることも、筒抜けなのだった。
「俺へのエスパー精度やばくね?」
『妹とはこんなものですよ?そういう書籍をたくさん見ましたしね!』
それは恐らく、かなりのバイアスがかかった書籍だろうな。
オリガミの場合、俺の蔵書からの学習優先度が高そうだし。
それにしても、最近のオリガミは、さらに成長している気がする。オリガミタンクが300個を超えたからだろうか。
『人類わからせ計画』においても、『オリガミ神化計画』においても、オリガミの成長は欠かせない。実に心強いことだ。
※※※
リビングに戻ると、叔父さんが赤ちゃんの灯ちゃんを抱っこしながら、ソファに座っていた。
テレビ画面では、ネム・千穂・紬ちゃん・湊くんのレースバトルが白熱している。
「話は終わったか?」
叔父さんが、穏やかな声でこちらに声をかける。
視線はテレビ画面に向けたまま。わざとこちらを見ない。
「うん、終わった。安心したよ」
柚希さんが、柔らかい笑顔で答える。
叔父さんは、灯ちゃんの頭をそっと撫でながら、テレビから一瞬だけ目を離し、柚希さんの顔を確認した。
ほんの一瞬だ。だが、それだけで十分なのだろう。
「どうやら、これからも仲良くやっていけそうだな」
叔父さんの言葉に、柚希さんが小首をかしげた。
「悠斗、なんのこと?私が正太郎くんと仲が悪くなるわけないでしょう?悠斗の甥っ子なんだから」
「そうだな。そういうことにしとくか」
叔父さんが笑う。
叔父さんは察していたのだろう。柚希さんが俺に対して、何かしらの警戒を持っていたことを。
だけど、詮索しない。柚希さんのやり方を信頼して、黙って見守っていた。
そして柚希さんも、叔父さんにはたった一言、「安心したよ」とだけ伝える。それだけで、全部通じているようだった。
……これが、夫婦か。
叔父さんが、すっと立ち上がった。そして何も言わずに灯ちゃんを柚希さんに差し出す。
柚希さんも何も言わずに受け取る。
言葉のない受け渡し。何千回と繰り返してきたであろう、当たり前の動作。
灯ちゃんを腕に抱いた瞬間、柚希さんの表情が変わった。
さっきまで俺を射抜いていた目が、さらに驚くほど柔らかくなる。
……ああ、そうか。
この小さな命を守るために、あの人はあんなにも冷たい目ができるのか。
※※※
「よし!正太郎!俺と一戦勝負しようぜ。このレースゲーム、なかなかおもしろいぞ!」
叔父さんが、コントローラーを手に取る。
「いいですね!負けて泣いたりしないでくださいね!」
「言ってろ!」
そして、俺と叔父さんの、大人気ないレースバトルが始まった。
※※※
結果は惨敗だった。
何度やっても勝てない。
「くそう……なんだあのカメ。おかしいだろ。なんで亀があんなふうにぶっ飛んでくるんだよ!」
摩擦ないし、空気抵抗ないし、変なゲートバリア付いてるぞアレ!
面白そうに俺と叔父さんの勝負を見守っていたネムが、楽しそうに煽ってくる。
「ぶふっ!正太郎、お前弱いな!ざーこ!ざーこ!」
くそ!こいつ、こういうタイミング絶対に逃さないよな。
「正太郎お兄ちゃん、まだまだだね!パパに負けるなんて!」
紬ちゃんにも煽られる。く、くそう!折り紙なら負けないぞ!
俺が「ぐぎぎぎ……」としていると、叔父さんが上から目線で語ってくる。
「いや、甥っ子がゲーム下手で、俺は悲しいよ。もしかして、この中で一番弱いんじゃないか?」
「お、叔父さん!もう一回もう一回!」
叔父さんにすがりつく俺に、千穂が「しょうちゃん、おもしろいなぁ」とニコニコしている。
結局……最後に負けて泣いたのは、俺なのだった。
※※※
決めた。あのレースゲームを購入しよう。そして練習しよう。そしていつか……叔父さんを泣かしてやる!
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