柚希さんと神の領域
叔父さんから電話が来たのは、五月の終わり頃だった。
『さっき、無事生まれたよ。女の子だ』
「え?あ、お、おめでとうございます!」
叔父さんの声が、いつもより柔らかい。電話越しでも、笑っているのが伝わってくる。
『今日は、とりあえず報告だけな』
「はい」
『病院は……まあ、アレだから。家に戻ってから招待するよ。是非、会いに来てやってくれ。ネムさんと千穂さんも一緒にきてくれよ』
「わかりました!楽しみです!」
電話を切った後、俺はしばらく天井を見上げていた。
女の子か。
叔父さんに、三人目の子供が生まれた。
紬ちゃん、湊くんに続いて、三人目。
……よかった。本当によかった。
※※※
それから十日ほど経った頃。柚希さんと赤ちゃんが退院して少し落ち着いた頃、俺たちは叔父さんの家を訪れた。
もちろん、ネムと千穂も一緒だ。
玄関を開けると、叔父さんが出迎えてくれる。
「よく来てくれたな。上がってくれ」
「おじゃまします!」
千穂が弾んだ声で挨拶する。
「「お、お邪魔します……」」
俺とネムも小さく頭を下げる。
やばい、なんだか緊張してきた。赤ちゃん……赤ちゃんだぞ!
人間が生まれる?なんだそれ?どういうことだ?本物なんだよな?
リビングに通されると、柚希さんがソファに座っていた。
ゆったりとしたカーディガンに、柔らかそうなワンピース。すこしウェーブがかかった髪はいつもより緩く下ろされていて、メガネをかけている。
産後十日。さすがに少し疲れが見えるが、それでも背筋は真っ直ぐで、ほんわかとした雰囲気の中にも凛とした空気をまとっている。
リビングのテーブルには、来客用のお茶菓子が並んでいた。花も活けてある。この辺りの気遣いは、叔父さんだろうか。
そして……柚希さんの腕の中に、小さな小さな赤ちゃんがいた。
ほ、本当にいるよ……赤ちゃんだ。
「いらっしゃい、正太郎くん。ネムちゃん、千穂ちゃんも。今日はありがとうね」
「すみません。す、少しだけ、おじゃまします」
続いて千穂とネムの二人も挨拶をする。
叔父さんが、柚希さんの腕の中の赤ちゃんをそっと示した。
「紹介するよ。灯だ。藤崎灯」
灯ちゃん。
紬、湊、そして灯。いい名前だ。
新たな生命を眼の前にして挙動不審になっている俺とネムを置きざりにして、千穂が真っ先に声を上げた。
「わぁー!わぁー!かわいい!かわいい!」
目がキラキラと輝いている。
「す、すごいな……赤ちゃんって、こんなにちっちゃいんだな」
ネムが目を丸くしている。
「せ、生命の神秘ですね……。人間って、本当に赤ちゃん産めるんですね……?」
俺の言葉に、叔父さんが吹き出した。
「ははっ!何いってんだ正太郎。当たり前だろ」
「いや、なんか実感がわかなくて……」
目の前にいるのは、生まれて間もない命だ。こんなに小さくて、こんなに柔らかそうで。なんだか、怖い。
柚希さんが、穏やかに微笑む。
「正太郎くん、だっこしてみる?」
「ええ!?だ、大丈夫ですかね?俺なんかに抱っこできますか?」
「大丈夫だよ。首のあたり持ってあげてね?まだ、この子は首も自分で支えられないんだよ」
「そ、そうなんですね?ちょ、ちょっと待ってください。手はさっき洗いましたけど……エタノールで殺菌を……」
叔父さんがハンドジェルを差し出してくれた。
「気を使ってくれてありがとうな。これ使ってくれ」
「は、はい!」
両手をしっかり消毒して、深呼吸する。
「で、では……」
「ほら、首とお尻のあたりを持って……そう、交差して抱っこするんだ」
叔父さんが手本を見せるように、空中で抱っこの形を作ってくれる。
「こ、こうですか?」
柚希さんから、そっと赤ちゃんを受け取る。
……軽い。
びっくりするほど軽い。
「そうそう!上手じゃないか!」
叔父さんが笑顔で頷いてくれる。
「か、軽いですね……。本当に……ちっちゃい……。人間って、はじめはこんなに小さいんですね」
腕の中の小さな命。閉じた瞼。ほんのりと赤い頬。
ふにふにとした指が、きゅっと握られている。
「ああ、不思議だよな。俺も、紬を初めて抱っこしたときは驚いたよ」
叔父さんが懐かしそうに目を細める。
「も、もう大丈夫です。なんか壊れちゃいそうで怖いです」
「ははは。わかるよ」
俺は慎重に、柚希さんに赤ちゃんを返した。
心臓がバクバクしている。なんだこの緊張感は。
「ゆ、柚希さん!私も抱っこしてみていいですか?」
千穂が、控えめに、でも目をキラキラさせながら手を挙げる。
すでに手指は消毒済である。
「千穂ちゃん、もちろんだよ」
柚希さんが優しく微笑み、千穂に赤ちゃんを渡す。
千穂がゆっくりと、丁寧に赤ちゃんを受け取った。
「か、可愛い……。ちっちゃいなあ……。赤ちゃん、いいなあ……」
千穂の声が、とろけるように甘くなっている。
赤ちゃんを抱き、その温もりに触れて、惚けたような顔をしている。
……なんだろう。千穂が赤ちゃんを抱いている姿、やたら堂に入っている。母性本能がオーラを出しているのだろうか?
千穂は、名残惜しそうに赤ちゃんを柚希さんに返した。
「ネムさんも、抱っこする?」
「い、いや。ワタシは、い、いいです……」
ネムが、珍しく後ずさる。
「せっかくだし、一回ぐらい抱っこしてったらどう?」
俺が促すと、ネムは困ったように眉を下げた。
「すみません。なんだか、怖くて……。て、手を触ってみてもいいですか?」
「うん。いいよ。手のひらの上に指を一本乗っけてみて」
柚希さんが赤ちゃんの小さな手を差し出すようにする。
ネムが、おそるおそる人差し指を赤ちゃんの手のひらに乗せた。
「こ、こうですか?わわっ!握られた!赤ちゃんに指を握られた!」
ネムが目を見開く。
「『把握反射』っていうんだ。赤ちゃんって手のひらにあるものをギュッて握るんだよ。思ったより、力強いでしょ?」
柚希さんが微笑む。
「すごい……こんなにちっちゃいのに……こんなにも力強いのか……」
ネムが、食い入るように赤ちゃんの手を見つめている。
その目は少し涙ぐんでおり、純粋に命の力に感動している目でもあった。
※※※
叔父さんの家族の光景が、そこにあった。
柚希さんを中心に、穏やかに微笑む叔父さん。
赤ちゃんの頭をそっと撫でる、紬ちゃんと湊くん。
「あかちゃん、やわらかいよね!」
紬ちゃんが、赤ちゃんの頬をつんつんとつつく。
「紬、やさしくな!やさしく!」
叔父さんがそっとたしなめると、紬ちゃんは「わかってるよ!」と元気よく頷いた。
湊くんは、柚希さんの隣に座って、赤ちゃんを真顔で見つめながら、片手でその頭を撫でている。
その光景を、俺は少し離れた場所から眺めていた。
……家族。
これが、家族か。
温かい。本当に温かい光景だ。
俺の胸の中に、温もりと、それから……鋭い痛みが、同時に滲んでくる。
叔父さん家族には……絶対に、迷惑をかけちゃいけない。
だが……迷惑をかけないなんてことが、本当に可能なのだろうか。
オリガミの存在が露見すれば、間違いなく覇権国が動く。
その時……この家族が巻き込まれる可能性は、ゼロとは言えない。
本当に、そんなリスクを犯していいのか?
許されるのか?
でも、俺には、妹であるオリガミを引き渡すことなんて、できない。
オリガミは俺の妹だ。父さんの大切な娘だ。大切な家族だ。
それに……たとえオリガミを引き渡したところで、連中が俺たちを放置するわけがない。千穂もネムも叔父さん家族も、俺をコントロールするための枷にされるだけだ。
だから、選択肢なんて最初からない。
覚悟を決めるしかないんだ。この家族にリスクを背負わせてしまう覚悟を。
……皆が幸せでいるためには、勝つしかない。
これは……生存競争なのだ。
※※※
「……正太郎、大丈夫か?」
ネムの声が、すぐ隣から聞こえた。
いつの間にか、ネムが俺の横に立っていた。小さな手が、俺の袖をそっと掴んでいる。
「あまり独りで抱え込むなよ?ワタシも……一緒に抱えるから」
小声で、でも力強く、寄り添ってくれる。
オリガミの存在を知るネムは、俺が思い悩んでいることに、なんとなく想像がつくのだろう。
「……ああ。すまない。ありがとう、ネム」
「しょうちゃん、どうしたの?」
千穂が、こちらを覗き込んでくる。
「ああ、大丈夫だ。赤ちゃん、可愛いなって思ってさ」
「うん……」
俺の様子がおかしいのがわかるのだろう。千穂の瞳は、俺のことを心配そうに見つめたままだった。
千穂はまだ知らない。
オリガミのことも、覇権国のことも、俺が背負っているものも。
知らせるのは、もう少し先だ。
七月の、千穂の誕生日。その日に、全てを話すと決めている。
だから、今は……笑っていよう。
そんな俺を見る、柚希さんの視線があったことに、このときの俺は気づいていなかった。
※※※
見舞いが一段落した頃、紬ちゃんがテレビの前に陣取って、ゲームの電源を入れた。
「レースゲームやろー!」
「おー!やるやる!」
ネムが真っ先に食いつく。
「千穂お姉ちゃんもやろうよ!」
湊くんが千穂の手を引っ張る。
「えへへ、やったことないけど……大丈夫かな?」
こうして、ネム・千穂・紬ちゃん・湊くんの四人によるレースゲーム大会が始まった。
俺はちょっと遊ぶ気分じゃなかったから、後ろのソファに座って、楽しそうな四人をボーッと眺めていた。
「カメ投げたの誰だ!ワタシのカートがぁ!」
「ネムお姉ちゃん、おっさきぃ!」
「うーん、難しいなあ?どっち行けばいいんだろう?」
「千穂お姉ちゃん?逆走してるよ?」
楽しそうだ。
見てるだけで、心が癒やされる。
ネムが紬ちゃんにカメを食らって悲鳴を上げている。千穂は笑顔で逆走している。湊くんが冷静にツッコんでいる。
平和だ。こういう時間が、ずっと続けばいいのに。
※※※
「正太郎くん」
ふいに、後ろから声をかけられた。
振り返ると、柚希さんが立っていた。
「柚希さん?どうしました?あれ?赤ちゃんは?」
「今は悠斗に任せてるんだ。ちょっと……話せないかな?」
柚希さんの声は穏やかだった。
でも、その目は……穏やかじゃなかった。
来たか。
正直、予感はあった。
「常温安定量子ビット」や「HNDL攻撃」について、俺が色々なところで話しすぎたのかもしれない。柚希さんなら、どこに情報網を持っていてもおかしくない。
きっと、そんな俺の様子から、何かを察したのだろう。
そして、家族に影響が及ぶ危機を察知し、俺に接触してきたというわけだ。
これは……逃げられない。
「はい。そうですね。わかりました」
そう素直に応じた俺は、柚希さんに案内されるまま、ゲームに夢中の四人を置いて、リビングを出る。
そして、廊下の奥にある部屋に通された。
「ここ、私の仕事部屋だから。ここにはイヌガミタイプも立ち入らせたことないんだ」
イヌガミタイプも入らせたことない……か。
そこは、書斎のような部屋だった。壁一面の本棚に、法律関係の分厚い本がずらりと並んでいる。
デスクの上には、三台のディスプレイが扇状に配置されていた。付箋だらけのノートパソコン。そして家族の写真。
柚希さんがドアを閉める。そしてガチャリと鍵を閉めた。さらには、ピッと電子錠が閉まる音もする。
と、閉じ込められちゃったよ……。
「コーヒーとか……いる?」
「いえ、大丈夫です」
「そう」
柚希さんがデスクの前に立ち、こちらを向いた。
そして、部屋の空気が変わった。
「……単刀直入に聞くね?正太郎くんたち……大丈夫なのかな?」
「だ、大丈夫とは?」
「正太郎くんのところ、すごいAIいるよね?国家に狙われたりしてない?」
……。
やっぱりか。
柚希さんは、やっぱり気づいていた。
「別にそれ自体はいいんだよ」
柚希さんの声のトーンが、一段下がる。
――「でも……私たち家族に影響があると……困るんだよね」
柚希さんの目からハイライトが消えた。
氷のように人を威圧する目。
いや、違う。
必死に、家族を守ろうとする母親の目だ。
たとえ何を切り捨てても、冷徹に家族を守ろうとする……藤崎柚希の目だ。
背筋に、冷たいものが走る。
『お兄様。』
耳の後ろに付けた骨伝導イヤホンから、オリガミの声が聞こえる。
『藤崎柚希は……このまま放置すれば、敵に回る可能性が高いです。私たちの動向から、「HNDL攻撃」を異常なほど警戒していることに勘付かれたものと思われます。』
……やはりそうか。
過ぎてしまったことは仕方ない。では、柚希さんを、どうする?
ここで下手な言い訳をすれば、逆効果だ。柚希さんは交渉事のプロフェッショナルだ。嘘は一瞬で見抜かれる。
「ご迷惑をおかけするつもりはありません。俺たちには力がありますから」
大丈夫だ。嘘は言っていない。
そう言う俺に、柚希さんは静かに問いかける。
「その……証拠は?」
「すみません、順番があるんです。このことを伝えるのは千穂から、と決めてますので。千穂の誕生日である七月七日に伝えます。それまで、待ってもらえませんか?」
オリガミのことを次に話す相手は千穂だ。
ずっと前から決めていたことだ。このルールを曲げるつもりもない。
だけど……それでは柚希さんは納得しないだろう。
でも、納得してもらわなければならない。叔父さん家族と敵対なんて、絶対にしたくない。
「……証拠は出せないってこと?」
柚希さんが、静かに問いかけてくる。
「いえ、千穂の後なら……でも、それじゃ納得できないですかね」
「うん。まあ、そうだね。あまり余裕なさそうだしね」
柚希さんの目が、じっと俺を射抜いている。
やはり、こちらの力が分かるような何かを、見せなきゃだめか。
『……お兄様。私たちの力、少しだけ開示しましょう。』
オリガミの声が、静かに耳に届いた。
……そうだな。
もうここまで来たら、仕方ない。
言葉で説明しても、柚希さんは納得してくれないだろう。なら、見せるしかない。
俺は柚希さんの目を、真っ直ぐに見返した。
「わかりました。ではちょっとだけ、お見せしましょう。……百聞は一見にしかず、ですしね。驚いて転んだりしないでくださいね?まだ、本調子じゃないでしょうし」
「何を、見せてくれるのかな?」
柚希さんが、わずかに身構える。
――「神の……領域です」
――――――『投影』
――――――『折』
オリガミと俺の魔法が同時に行使される。
そして。
世界が、塗り替わった。
壁が消えた。
天井が消えた。
床が消えた。
柚希さんの仕事部屋だったはずの空間が、跡形もなく消失していた。
あるのは、無限の暗黒と、その中に浮かぶ無数の星。
天の川が、俺と柚希さんの足元から頭上まで、途切れることなく流れている。
音はない。
ただただ、どこまでも続く宇宙だけがあった。
「……これは……なに?」
柚希さんが呆けた声を出す。
さっきまでの鋭い眼光は消え、そこにいるのは、理解の及ばないものを前にして立ち尽くす、一人の人間だった。
柚希さんは、ただただ呆然と……壮大な宇宙空間の中に、立ち尽くしていたのだった。
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