頭をかち割っちゃダメ(ユークン視点)
幼馴染の恋人、カルシーリとの日々は幸せだった。
貧しい木こりの僕と、村一番の美少女であるカルシーリ。
太陽を溶かしたような金髪に、透き通るような碧眼。
スラリとした長身で、胸こそ薄いが、それがかえって彼女の清楚な美しさを際立たせていた。
『ユークンのこの豆だらけの手、働き者で素敵よ』
『お金なんてなくても、私たちは一緒なら幸せだよね』
そんなことを僕に言ってくれていたカルシーリ。
身分違いの恋だなんて言う人もいたけれど、僕たちは……少なくとも僕は確かな愛を育んでいたと思っていた。
結婚の約束をしたこともある。
「ユークン、大好きよ!」
「カルシーリ、ぼ、僕も大好きだ!」
「大人になったら、この手で私を守ってね?……結婚しようね!絶対よ?」
「う、うん!カルシーリと結婚する!」
あのときの、花が綻ぶような笑顔。汚れのない、純真そのものの瞳。
あれが、嘘だったなんて思いたくない。
でも、現実は残酷で……あまりにも滑稽だった。
※※※
今日はカルシーリの誕生日。
数ヶ月も前からコツコツと貯めた小遣いで買った、ささやかな花束。
それを背中に隠し、僕は足音を忍ばせて裏口へ回る。驚く彼女の顔が見たかった。
それが、間違いだった。
家の中から聞こえてくるのは、聞きたくもない粘つくような水音と、艶めかしい声。
聞き覚えのある、愛しい人の声。
「あ……んっ!すご……いっ!マオートコくんの……太いぃ!」
「へへっ、カルシーリも好きだなぁ。相変わらず、最高だぜ。おらぁ!」
村長の息子、マオートコ。
乱暴で、傲慢で、いつも僕を馬鹿にしている男。
扉の隙間から見えたのは、そのマオートコに身を預け、だらしなく舌を出して熱に浮かされた表情を浮かべるカルシーリの姿だった。
「ユークンなんかと……全然違うぅ……!」
「当たり前だろ!あんな陰キャのヒョロ男と一緒にすんな!村長の息子の俺様が、たっぷり可愛がってやるよ!」
ゆ、ユークンとは違う?
僕よりも……マオートコの方が好きなのか……?
決定的な言葉だった。
目の前が真っ白になっていった。思考が砕け散った。
手から力が抜け、花束がハラリと地面に落ちる。いや、落ちる寸前で、無意識に握りしめていた。茎が折れる感触が手に伝わる。
に、逃げなきゃ。
ここにいてはいけない。
見つかったら、何を言われるか分からない。惨めな自分を、これ以上直視したくない。
僕は無様に、その場から転がるように逃げ出した。手の中の花束は、もう原型を留めていなかった。
涙は流れていなかった。ただただ、胸にぽっかりと風穴が開いたような、寒々しい虚無感だけがあった。
※※※
家に逃げ帰り、布団を頭から被ってガタガタと震えていた。
吐き気が止まらない。
しばらくして、カルシーリが尋ねてきた。「体調が悪い」とだけ伝えて、扉を開けずに追い返そうとするが帰らない。
「ユークン、大丈夫?体調が悪いって……何か作ろうか?」
優しい声。いつもなら僕を癒やしてくれる、天使のような声。
だけど今の僕には、さっきのあの獣のような声が重なって聞こえる。
「だ、大丈夫。多分、風邪か何かだから……気にしないで……」
「そう?また明日くるね?何か持ってきて欲しいものある?」
「寝れば治ると思うから大丈夫。カルシーリにうつしたくないから……今日はもういいかな?」
「そ、そう?お大事にね?……ユークン、愛してるからね!」
愛してる。
その言葉が、鋭利な刃物のように胸を抉る。
カルシーリはそう言うと、心配そうな声色を残して帰っていった。あの裏口で聞いた裏切りの熱が嘘かのように、軽やかな足取りで。
彼女を問い詰めることすらできない。
そんな勇気も、気力も、僕にはなかった。
カルシーリが好きだった。
でも、今の僕には、カルシーリが何を考えているのかわからない。
美しい皮を被った、得体の知れない化け物にしか見えなかった。
でも、カルシーリを変えてしまったのは僕なのかもしれない。
僕が弱かったから。僕が貧乏だったから。僕が、彼女を満足させられない、つまらない男だったから。
自分を責める言葉ばかりが頭を巡る。
どうしたらいいか分からない。何をしたらいいか分からない。
ただ、絶望という暗い海に、深く深く沈んでいくだけ。
そんな風に考えること自体を止めようとしたときだった。
異常な現象が発生したのは。
※※※
それは突然のことだった。
『……聞こえるか……?ユークンよ……』
な、なんだ?
重低音のような、それでいて女性のようにも聞こえる、不思議な響き。
耳からではなく、脳髄を直接震わせるような感覚。
勘違いか……?
『ユークン……聞こえているはずだ……』
いや、聞こえる。確かに何かが聞こえる。
『今……お前の頭の中に直接……語りかけている……』
頭の中に、ノイズ交じりの、しかし奇妙に威厳のある声が響く。
幻聴だろうか?ショックで頭がおかしくなったのかもしれない。
『これは幻聴ではない……』
「な、なに……!なんなんだよ!誰なんだよ!」
思わず反射的に叫んでしまう。
誰もいない部屋に、僕の枯れた声だけが虚しく響く。
『我は……この世界の神に委託されし者……言わば、救済の代行者だ……』
「か、神!?救済……?」
『そうだ……神は、お前を見捨ててはいない……』
か、神様?
そんなものが本当にいるのか?
いるなら、どうして僕にこんな酷い仕打ちをするんだ。これまでずっと無視してきたくせに。
「な、なぜ。僕なんかに。なんで負け犬の僕なんかに……今更……」
疑問と、僅かな怒りをぶつけると、声は静かに問い返してきた。
『くやしくは……ないのか……?』
「はい?」
『奪われたままで……尊厳を踏みにじられたままで……悔しくは、ないのか……』
感情のない、けれど心の奥底の導火線に火をつけるような声。
悔しい。悔しくて仕方ない。
はらわたが煮えくり返るほど憎い。
でも……僕には力がない。腕力もお金も権力もない。すべてマオートコに負けている。
「でも……僕なんて……勝てっこないです……」
『そうか……では、これを見ても、まだそう言えるか?』
目の前の空中に、突然、映像が浮かび上がった。
※※※
それは、さっきの部屋の光景。おそらく、僕が逃げ出したあとの情景だろう。
事後の、気怠げな空気が漂う部屋で、カルシーリはマオートコに腕枕されながら、ピロートークを繰り広げていた。
『あーあ。ユークンったら、今日は私の誕生日なのに、プレゼント持ってこなかったな。本当に気が利かないんだから』
『ギャハハ!あいつ貧乏人だからな!俺様みたいに高いネックレスなんか買えねぇよ!』
『やっぱりマオートコくんが一番……強く求めてくれるし、お金持ちだし……愛してるよ!』
『へへっ、で?ユークンとは別れないのか?』
『えー?だって、マオートコくん、許嫁がいるじゃない。私は「村長の息子の愛人」止まりでしょ?それじゃあ将来が不安だもん』
『あ〜、そりゃそうかすまんな。お詫びに俺の優秀な種、たっぷりと仕込んでやるから勘弁してくれよ?』
『うん!私、マオートコくんの赤ちゃんが欲しい……!ユークンと結婚して、ユークンのお金で、貴方の子供を大切に育てるね!』
そして、二人は幸せそうに熱烈なキスを交わす。
当然のことかのように、ふたたび絡み合い始める二人が映されていた。
※※※
『……こ、これは……なんという……ひでぇ……』
声の主ですら、言葉を失っているようだった。
だが、それを見せつけられた瞬間、僕の中で何かが完全に砕け散った。
「お……え、ぇぇ……!」
吐き気が込み上げる。
信じられない。マオートコの子供を、僕に育てさせる?僕を金づるにして、裏で笑いものにする?
あんなの、人間じゃない。
人の皮を被った悪魔だ。
涙はもう枯れていた。代わりに、どす黒い感情が胸の奥から噴き出してくる。
カルシーリを愛していた心は、瞬時に焼け焦げ、憎悪の灰へと変わった。
「ゆる……さない……」
荘厳な声が、確認するように、しかし力強く脳内に響く。
『……みかえして……やりたいか……?』
「見返してやりたい……いや、させてください!あいつらを、僕を地獄に突き落としたあいつらを!」
殺してやる。いや、殺すだけじゃ生ぬるい。
僕が味わった以上の絶望を、あいつらにも味わわせてやる。
絶対に!絶対に許せない!
『よくぞ……よくぞ言った……』
声の主が、深く、満足げに頷く気配がした。
※※※
だが、その気持ちにも、現実がすぐに追いついてくる。
「……でも、マオートコは村長の息子なんだ。権力も力もある。握りつぶされるに決まってる。僕に出来ることなんて……」
現実は変わらない。僕はただの木こりだ。
貧乏から食べるものもなくて、筋肉もロクについていない。木こりとしても、ダメダメだった。
カルシーリと会えない休日などはやることがなく、地面に数字を書いて、それをこねくり回して時間を潰しているような、つまらない男であった。
しかし、そんな僕に声の主は可能性を示してくれる。
『ユークンよ……斧を見ろ……そこに立てかけてある、木こりのお前の斧を……』
言われて、部屋の隅に置いてあった仕事道具の斧を見る。
いつも使っている、刃こぼれしたボロい鉄の斧のはずだった。
「……え?これは!?」
そこにあったのは、見たこともない材質の斧だった。
黒曜石のように深く輝く刃。柄の部分には、血管のように微かな青い光の脈動が走っている。
「神の……奇跡だ……」
震える手でそれを握る。
ずっしりと重い。だが、何故か手の一部になったかのように馴染む。
振ってみる。
ヒュンッ!
空気を切り裂く鋭い音。恐ろしいほどの切れ味を秘めているのが、僕でも分かった。
な、なるほど!
「これを使って、マオートコの脳天をかち割ればいいんですね!」
殺意が湧いた。これなら、あいつを殺せるかもしれない。
一撃だ。一撃であいつの汚らわしい頭を砕ける!
『ち、ちがう!ちがうぞ……?そんなことをしてはいけない……』
しかし、声の主は慌てて否定した。
『それはただの暴力だ……復讐としては下の下だ……』
「じゃあどうすれば……!」
『魔糸樫を切りまくれ……』
「魔糸樫……?」
村の外れにある、鋼鉄のように硬い木だ。
加工すれば高級な建材や繊維になるが、硬すぎて誰も切り倒せない。切り倒したとしても、加工にお金がかかる。
邪魔だけどどうしようもない、厄介者扱いされている木だ。
「あの木は使い道が……それに硬すぎて倒せません」
『その斧なら切り倒せる……固いから邪魔で切り倒してほしい人もいるはず……そういう人達から報酬をもらえ……』
「な、なるほど。それなら心当たりがあります」
村長も、あの木が邪魔で困っていたはずだ。切り倒せば、それなりの報酬が出るかもしれない。
でも、村長ってことは、マオートコの父親だ。あんな奴のために働くなんて。
『金を得るのだ……復讐には資金がいる……』
声の主は、僕の心を読んだように告げた。
そうだ。金だ。金があれば、何かが変わるかもしれない。
『あと、魔糸樫の根本にいる白い虫……アレを食べるんだ……』
「あ、あんなものを?」
腐った木や魔糸樫の根元にいる、親指ほどの大きさの白い芋虫。
見たことはある。ブヨブヨしていて、気持ちが悪くて、普通なら触りたくもない。
『焼いて食べろ……体を構成する成分が満ちている……そんなヒョロヒョロじゃ……何もできない……』
「わ、わかりました……」
あんなものを食べるなんて考えたことも無かった。
だけど……あいつらを見返せるなら……強くなれるなら……泥だって啜ってやる。虫だって食ってやる。
『百本、魔糸樫を切れ……そしたら次を教えてやろう……』
※※※
百本。途方もない数だが、この斧があれば可能かもしれない。
「は!魔糸樫を使って、事故に見せかけてマオートコの脳天をかち割るってことですか!」
『ち、ちがう。ちがうぞ……?そんなことをしてはいけない。過激なやつだな……』
違うのか……ではどうすれば?
『カルシーリとマオートコとは、これまで通りに付き合え……絶対に、お前にマオートコとの関係がバレたことを悟らせるな……』
「な、なんで!?」
僕は思わず叫んだ。
「嫌です!あいつらの顔なんて見たくない!吐き気がするのに、今まで通りヘラヘラ笑っていろっていうんですか!?」
カルシーリ……好きだったからこそ、もう見ていたくない。
愛していた女が、他の男の子種を欲しがるあさましい姿なんて、これ以上見たくない。
『耐えろ……それも復讐のためだ……』
「復讐……?」
『そうだ……いいか?人は、幸せの絶頂から叩き落とされるときが一番、絶望する……』
声の主は、諭すように言った。
『今あいつらを殺しても……ただの「悲劇のカップル」になるだけだ……幸せになるその直前まで行かせて……そこで全てを刈り取るのだ……』
『それが……「ざまぁ!」だ……』
「ざまぁ……」
『彼女の心を取り戻せ……惚れ直させるのだ……やり返すのはそれからだ……』
地獄のような提案だ。
あんな女の心を掴むために、また努力しろというのか……。
でも……その先にある「全てをひっくり返す」という言葉に、背筋が震えるほどの快感を覚えた。覚えてしまった。
「わかりました……やります。地獄の底まで付き合いますよ」
この声に従えば、あいつらを見返せる。その声には、そんな確信を感じさせる何かがあった。
※※※
『さいごに……ひとつ……奇跡をおしえてやろう……』
「きせき?」
『右掌を上に向けろ……中指を親指にかけ……弾くのだ。同時にとなえろ……「熱点」と……』
ゆ、指パッチン?
言われるがままに、右手を前に出す。中指と親指を構え、震える唇で不慣れな言葉を紡ぐ。
「ね、熱点!」
パチンッ!
ボシュッ!!
乾いた音と共に、指先で紅蓮の炎が弾けた。
「うおあっ!?」
熱くない。でも、確かな爆風と、熱量の波。
尻餅をつきながら、僕は自分の指先を見つめた。
「こ、これは……魔法……?」
選ばれた貴族や、大富豪しか使えないはずの、事象記述操作。
それを、ただの木こりの僕が?
「あ、あなたがくれたんですか……?僕に、力を……?」
『切り倒した魔糸樫は捨てるな……売るな……乾燥させて、お前が保存しておけ……百本だ……』
『百本切ったらまた来る……』
※※※
声が遠ざかっていく。待ってくれ、まだ聞きたいことが。
この方の名前も知らないまま、別れるわけにはいかない。
「お、お名前を!貴方様のお名前を!」
一瞬の沈黙の後、声は答えた。
『…………ショタロだ』
「ショタロ様……」
『ユークン……お前が全てを知ったこと……悟られるなよ……?最高の……「ざまぁ」のために……』
そして、フッと蝋燭の火が消えるように、声は完全に聞こえなくなった。
※※※
残されたのは、僕と、青く輝く不思議な斧。そして、手のひらに残る火薬のような硝煙の匂い。
夢じゃない。
指先の震えも、胸の奥で渦巻く暗い熱も、すべて現実だ。
これが、ショタロ様からの初めてのお告げだった。
そして、僕の「お人好しの負け犬」としての人生が終わり、新しい人生が始まった瞬間だった。
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