第四話 裏
王宮の深奥、磨き上げられた大理石の回廊を、アイリスは一人静かに歩いていた。
彼女が纏うのは、仕立て直した控えめなドレスと、アレンジを繰り返した最小限の宝石。王宮の貴族たちは「貧乏臭い」「悪名を隠すための偽善」と嘲笑っていたが、アイリスの背筋が揺らぐことは一度としてなかった。
(……これでいい。私を愚かだと油断させておけばいい)
アイリスの青い瞳に宿るのは、氷のような冷気と、燃えるような意志だった。
父王の暴政はすでに限界を超えている。重税、村の焼き払い、横暴な魔獣狩り。私財を投じた配給や衛生環境の改善も、王の破滅の速度には追いつかない。
そして父王は、自らの権力欲と隣国の軍事支援を得るため、アイリスを隣国の好戦的な皇子と婚約させようとしていた。
(お父様を止めるには、武力をもって引きずり下ろすしかない。……だが、王宮親衛隊は王の手先。私には兵がいない)
そこでアイリスが目をつけたのが、国境付近に強大な私兵団を抱える辺境伯ヴァルツだった。
ヴァルツは野心家で気性が荒く、以前から狂王の横暴な徴税や自分たち辺境伯家への冷遇に激しい不満を抱いていた。何より、アイリスの美貌と王位継承権に執着していたが、狂王が隣国皇子との婚約を独断で進めたことで、蚊帳の外に追いやられ苛立ちを募らせていた男だ。
暗い回廊の陰で、アイリスは秘密裏にヴァルツと対峙した。
「……何の真似だ、アイリス王女。私を呼び出したりして。貴女は来月、隣国の気障な皇子様と晴れて婚約するのだろう?」
忌々しそうなヴァルツ。その瞳には狂王への憎悪と、届かぬ獲物への焦燥が揺れていた。当然だろう。正式な縁談を申し込んでいるのに国王に理由もなく却下され続け、挙句の果てに狙いの王女は隣国へ嫁がせると言い放たれたのだから。
アイリスは笑みを浮かべ、彼に歩み寄る。
「ふふ……本気で言っていらっしゃいますの、ヴァルツ様? 私が、あのような他国の傀儡になることを望んでいるとお思い?」
「……何?」
アイリスは細い指先でヴァルツの胸元を軽く押し、囁くように密談を持ちかけた。
「お父様の暴政はすでに限界。このまま隣国と結べば、我が国は骨まで喰らい尽くされますわ。……でも、もしも婚約式典の当日、民を守るために立ち上がった『正義の将』がいればどうでしょう?」
ヴァルツの目がピクりと跳ねた。
「正義の将……?」
「ええ。狂王の暴政を正し、他国への国売りを阻止するという【大義名分】のもと、あなたが私兵を率いて式典へ乱入し、お父様を拘束するのです。王宮の腐敗を正した英雄として……私をその傍らに迎えれば、この国の実権はあなたのもの」
「王を討つ大義名分と、貴女を手に入れる権利か……!」
ヴァルツの息が荒くなる。もとより狂王に反発していたヴァルツにとって、「王女自らの手引き」と「暴政を倒す大義名分」が揃うクーデターの誘いは、喉から手が出るほど欲しい好機だった。
「いいだろう……! 隣国の皇子なんぞに貴女を渡してたまるか。当日は私の精鋭三千を極秘裏に王都近郊へ潜ませ、式典の混乱に乗じて城内へ突入してやる!」
ヴァルツが笑みを浮かべて立ち去った後、アイリスは冷えた息を吐き出し、自らの手のひらを見つめた。
アイリスの本当の狙いは、ヴァルツの己への執着と狂王への怒りと武力を利用して父王の暴政を止めさせること。そしてクーデターが起こればまず間違いなくアイリスもまた処刑されるだろうことは覚悟の上だった。
辺境へもアイリスの悪名は轟いている。ヴァルツの誠実な縁談を蹴り続けているのだから、当然だろう。いくら彼が庇ったところで、王家の血を残すことに民衆が納得するわけがない。
しかし民を守り、国を再建するためなら、悪名も、己の未来も、この身すらどうなってもいい。
(……アッシュは、今どうしているかしら)
ふと、脳裏をよぎる黒髪と琥珀色の瞳。
あの木の上で、自分と同じ目をして「あんたの代わりに俺が泥を被る」と言い放ったアッシュ。諦めるなと言ってくれた彼の、式典でアイリスを熱く見つめるその眼差しに気づいたのはいつだったか。
騎士の従者だったのが、いつの間にか従騎士となり、騎士となり、見る度に着実に肩の階級章をランクアップさせていた。
常に足を引っ張ってくる父の配下に見咎められぬよう、敢えて声はかけられなかったが、アッシュのその眼差しと目に見える努力にどれほど勇気を貰っただろうか。
「アッシュ。私の騎士様。……見ていてくださいね。国の未来はきっと守ってみせますから」
窓の外、遠く広がる下町の煙を見つめながら、アイリスは決意を新たにする。
タイムリミットは、来月半ばの婚約式典。
王女アイリスの、命を懸けた「捨て身の裏取引」が静かに動き出していた。




