第三話
「死の谷」と呼ばれた廃村の開拓は、アッシュが長年貯め込んできた騎士としての給与を切り崩し、最低限の農具や資材を買い揃えるところから始まった。
皆が持ち寄ったわずかな手元資金とアッシュの綿密な計画により、食料の自給自足が可能になるほどに順調に進んでいた。
まずは魔獣対策として、グレン達には武器を配り見回りを担当制にすることで安全性を確保した。
アッシュの計算どおり、山あいから引き入れた水路によって乾いた土壌は蘇りつつあった。スラムから極秘裏に移送された避難民や孤児たちは、雨風を凌げる家と畑を手に入れ、日に日に表情を明るくさせている。
その現場監督として八面六臂の活躍を見せていたのが、女盗賊のゼシカだった。
「ほら、さっさと木材運ばないと日が暮れるよ! 腹減って力が出ないなら、あたし特製のスープ飲んでからにしな!」
小柄な身体で二本差し短剣を揺らしながら、テキパキと指示を出すゼシカ。かつて街道を脅かした女狐の面影はなく、いまでは村の人間から全幅の信頼を寄せられていた。
……そして何より、彼女の視線はいつも、村の小高い丘から全体を見渡している頭目——アッシュの背中を追っていた。
最初は「綺麗事を言うタラシ」だと思っていた。だが、昼は騎士として王宮の内情を調査し、夕方からは村に来て泥に塗れて働き、民の一人ひとりの名前を覚え、誰よりも過酷な作業を買って出るアッシュの姿を見るうちに、ゼシカの胸の奥に芽生えた感情は、ただの「頭目への忠誠」ではなくなっていた。
汗を拭いながらアッシュを見つめるゼシカの頬が、少しだけ赤く染まる。
だが——その穏やかな空気をぶち壊すニュースが、スラムの連絡員によって持ち込まれたのは、その日の夕方のことだった。
「頭目! 城の方でまたあの高慢ちきなアイリス王女が暴れてますぜ! 今度はスラムの奥に便所ってのを作って、そこで用を足せとさ!景観が悪いのを何とかしろだと!」
焚き火を囲んでいたグレンや元盗賊たちが、一斉に立ち上がって怒号を上げた。
「またあの女か!」
「貧民は自由に用も足せねぇのか!?」
「どこまで俺たちを馬鹿にしてやがる!」
スラムの、いや、国の一般的な常識として用はその辺で足すものだった。決まった場所で用を足すのは貴族やごく一部の領地だけ。
アイリスの常識を覆す指示に仲間たちの憎悪が最高潮に達する中、ゼシカも短剣の柄を固く握りしめた。
「ホント、反吐が出るね!ねぇアッシュ、あんな女、早く引きずり下ろしてやろうよ!」
ゼシカが同意を求めてアッシュを振り返る。
しかし、アッシュは焚き火の炎を見つめたまま、顎に手を当ててぽつりと呟いた。
「……いや。景観だけの話ではない」
しーん、と場が静まり返った。
グレンが呆れ顔で「頭目……流石にあの悪名高い王女を庇うのは無理があるッスよ」と苦笑いする。
「そういう他国の医術書があるんだ。用を足す場所を決め、井戸に糞便が混じらないよう整えるだけで子供の死亡率が下がるという――」
「ハァ!?」
ゼシカの髪が逆立つかと思うほどの殺気が跳ね上がった。短剣を抜かんばかりの勢いでアッシュの目の前に詰め寄り、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「何なのさそれ! あんた、なんでいつもあの女のことになると、妙に庇うような口調になるわけ!?」
「あ? いや、俺はただ客観的な事実を言っただけで——」
「客観的だぁ!? あんたあの女に会ったことでもあるの!? 実際スラムの奴らは虐げられてんだよ! なのに、なんであんたがあの憎き王女の弁明をしなきゃいけないわけさ! 馬鹿アッシュ! あんたの頭の中はどうなってんの!?」
「なんでそこまで怒るんだ……」
アッシュは思わず引きつった笑みを浮かべて後ずさった。下町で数々の修羅場を潜り抜けてきたアッシュだったが、ゼシカのこの「理不尽なまでのブチギレ」の理由だけは、さっぱり理解できなかった。
「……あの政策は、そこまで悪いものではないよ」
アッシュの一言にゼシカは悔しそうに唇を噛み締めたゼシカはプイッと背を向け走り去っていった。
取り残されたアッシュは、困惑したように黒髪をくしゃくしゃと掻き揚げる。
「頭目……言いたいことは何となくわかったッスけど、ここにいるみんな、王家嫌いなんで受け入れられにくいというか……」
言葉を濁しながらも反論してくるグレンに、アッシュは大きな溜め息をついた。
こうして、村の開拓はすこぶる順調に進む一方で、アッシュの「アイリス擁護」は次第に封印され、二重生活のもどかしさはさらに深まっていくのだった。




