第一話
王都の冬は、どこまでも灰色の静寂に包まれていた。
かつて十歳のあの日、大樹の上で王女アイリスが指さした下町の屋根群を見下ろす。寒風が吹き抜ける中、立ち上る生活の煙は十年前よりもさらに細く、まばらになっていた。
アッシュはその光景に寒気を増す。漆黒の外套の襟を立て、冷えた息を吐き出した。
二十歳になった彼は、いまや王宮親衛隊の若き騎士として、洗練されたしなやかな体躯と、黒髪を冷酷な兜の奥に隠していた。琥珀色の瞳は、かつて下町を疾走していたガキ大将の奔放さをひた隠し、静かな冷気を宿している。
身分差ゆえ、アイリスと直接言葉を交わしたことは十年間でただの一度もない。もちろん、アイリスから声をかけられることも無かったが、力をつける前に注目された場合の弊害を思えばありがたいとさえ思った。
だが、アッシュは遠目から彼女の姿を追い続けていた。
――アイリス王女は贅沢をしているという噂がある。
しかし、式典で見かける彼女を飾る宝飾品は同じ石をアレンジしながら3つほどを上手く使い回しているようだ。ドレスもまた然り。手直しをしてそれと分からぬように気回している。
――アイリス王女は貧民を虐げているという噂がある。
しかし、貧民への炊き出しを制限したかわりに、彼女は治水工事や灌漑設備の工事などに人足として彼らを用い、食べていくための道を作っている。
――アイリス王女は民への医療を取り上げたとの噂がある。
しかし、不良品や粗悪品を売りつける悪徳薬師や似非医師を排除したことで民の不審死は減った。
政策については勉強途中のアッシュだが、医療や経済政策など調べた様々な文献から推測するに、アイリスの打ち出す方針や政策にブレはない。
彼女はずっとあの時会ったままの善性の光溢れる王女だと確信する。
しかし現在の国王は狂っていた。「魔獣狩り」という大義名分を掲げ、領土拡張と自らの権力欲のために徴税を重ね、村々を焼き払っている。アイリスがどれほど民を救おうと、王がそれを上回る速度で国を破壊していた。
アッシュは確信していた。綺麗事の騎士の枠組みの中に留まったままでは、彼女を守ることも、この腐った国を変えることもできない。
だからといって騎士を辞める訳にはいかない。城内の情報、親衛隊の警備配置、そして王宮に不満を抱く実務派の貴族や騎士たちの動向——それらを握り続けるためには、この騎士の甲冑が必要だからだ。
「動かなくては……守れない」
アッシュは表と裏、二つの顔を使い分け泥を被る決意を固めた。
非番の夜。甲冑を脱ぎ捨て、黒い粗末な布服に身を包んだアッシュは、王都の最底辺に位置するスラム街へと足を踏み入れていた。狙うのはスラムを牛耳っているという噂の――。
「おい、見ねぇ顔だな。どこの馬の骨だ?」
暗がりからぞろぞろと現れたのは、鉄パイプや刃物を手にした柄の悪い若者たちだ。その先頭で身を乗り出していたのが、ボサボサの赤褐色の髪を乱雑に上げた、眼光の鋭い男——グレンだった。
「その佇まい……どこかの騎士様か? 王家の犬がこんな場所で迷子かよ。この街に入りたきゃ、身ぐるみ置いて失せな」
粗暴に唾を吐き捨てるグレン。アッシュが身に纏う隠しきれない立ち振る舞いの品格が、彼の虫の居どころを激しく刺激したのだ。
アッシュは黒髪をくしゃりと掻き揚げ、琥珀の瞳を細めた。
「……生憎だが、持ってるもんといえば、この拳くらいだ」
「口だけは達者じゃねえか……ぶっ殺せ!」
グレンの合図とともに、一斉にならず者たちが襲いかかる。
だが、下町での喧嘩殺法と騎士団の実戦剣術を融合させたアッシュの動きは圧倒的だった。無駄のない身さばきで攻撃をかわし、瞬時に二人を叩き伏せると、一気にグレンの懐へと潜り込む。
「ぐっ……お前ッ!」
大振りの右拳を受け流され、重い腹パンチを打ち込まれたグレンは、呼吸を止められてその場に膝をついた。アッシュはその胸ぐらを無造作に掴み上げ、冷ややかで、けれど奥底に熱を秘めた琥珀の瞳で見下ろす。
「お前は、なんのために拳を振るってる?」
「……あ?」
「こんな路地裏で弱者を脅して、溜まった鬱憤を晴らすために人を殴って……それがお前らのやりたかったことか?」
アッシュが見抜いていたのは、グレンたちの暴力の奥にある「不完全燃焼な苛立ち」だった。腐った国への反発と行き場のないエネルギーを持て余し、狭いスラムの中で暴れ回るしかない若者たちの限界だ。
「行き場のない感情を、こんな暗がりの小競り合いで消費して満足か? 腐った国に腹が立つなら……なんでその拳を王宮へ向けねぇんだ」
そこにあったのは、自分たちを見下す騎士の目ではなかった。自分たち以上に理不尽な世界に苛立ち、泥を被って国そのものを叩き潰そうとしている「本物の規格外」の目だった。
「王宮だと?!てめぇ……本気で言ってるのかよ……っ!」
「アッシュだ」
アッシュは胸ぐらを放し、ためらいなく背を向けた。
「俺はこれから、あの腐りきった城を叩き潰す。一人じゃ手が足りねぇ。……グレン、お前の拳は狭いところで暴れるには大きすぎる。もっとでかい暴れ場所が欲しいなら、俺について来い」
膝をついたまま、グレンは血のついた唇を拭い、吐き捨てるように笑った。
「ハッ……スラムのならず者を集めて城を襲うだと? お坊ちゃん、頭のネジが飛んでんじゃねぇのか」
歩みを止めたアッシュが、肩越しに振り返る。
「こんな狭い路地裏でくすぶって一生を終えるより、国を引っくり返す大喧嘩に乗っかる方が、ずっと面白い命の使い方だと思わないか?」
その眼差しの圧倒的なカリスマ性と、途方もない大打倒の提示。
「路地裏の頭目」で満足していたグレンの胸の奥で、男としての野性と熱い熱量が激しく爆発した。
野性的な笑みを浮かべ、彼は勢いよく立ち上がる。
「……国を叩き潰す大喧嘩だと? ハッ、最高じゃねえか!!」
拳を高く突き上げ、グレンはスラムの闇に向かって咆哮した。
「おい、野郎ども! 今日の今日から、俺たちの頭目はあのアッシュさんだ! 城をぶっ壊しに行くぞ!!」




