第8話「煙蜘蛛の危機」
南の泥濘地へ抜ける獣道は、湿った赤土が深く抉れていた。
車輪の鉄輪が地面を切り裂いた平行の溝。それに重なる無数の革底の足跡。爪先が泥へ沈み、踵が滑った跡が点々と連なっている。荷車の重みで押し潰された蕗の葉から、青臭い汁が立ちのぼっていた。
走る足取りを緩めなかった。
背後から、衣擦れの音が一定の間隔を保って追いついてくる。
ノアの足音は土をほとんど叩かない。跳ねた泥粒が彼女の外套の裾に染みを作るが、踏み込みの拍子は乱れなかった。抜身の短剣はすでに鞘へ戻され、柄頭に添えた指が、歩調に合わせて小さく拍を刻んでいる。
「浅瀬の硬い岩脈をそのまま抜けたわね」
前方を凝視したまま、短く告げてくる。
「迷った形跡がない。ジークの図面通りだ」
「あの男の始末は、戻ってから必ずつける」
「今は前を見ろ」
密集した灌木を腕で払い除けると、急激に視界が開けた。
南の湿地帯。広大な灰色の水面を、黒い泥炭の畦が幾筋も区切っている。
水深の浅い澪筋の縁に群生していたはずの薬藻が、無残に引き抜かれていた。根こそぎ鎌で刈り取られ、泥水の中に千切れた茎が浮いている。王都の薬種問屋が高値で買い取る消毒薬の原料だ。
畦道の上に、荷車が二台、車軸を軋ませて停まっていた。
荷台の木枠には、濡れた布を被せられた薬藻の山が積まれている。その周囲を固めるのは、揃いの鉄胸当てを身につけた兵士たちだ。胸当ての中央には、交差する二本の鎌――バルト領主の家紋が刻印されている。
頭上から、梢を激しく叩く突風が落ちてきた。
風切りの若鳥が二羽、低空をかすめる。羽ばたきが跳ね上げた水しぶきが頬を打った。
〈奥へ行ったぞ! 鉄の板を並べた奴らだ、百はいる!〉
「向かった方角は」
〈東の端、大樹の根元へ続く下層だ! 木の間に網を張っている連中の縄張りだぞ!〉
煙蜘蛛の糸場だ。
南の湿地から中央の大樹地帯へ抜ける回廊には、樹齢数百年の古木が立ち並んでいる。その幹と枝の間に、煙蜘蛛の群れが何代にもわたって幾重もの網を張り巡らせていた。
湿気を吸って粘りを保つあの糸は、森の内部通信の基幹であり、同時に孵化して間もない幼体たちを地表の獣から守る揺りかごでもあった。
草を踏み分け、東の樹林へ足を向けた。
泥炭地を抜けると、大気の肌触りが一変した。
風が運んでくるのは、腐葉土の冷気ではない。
煤の混じった黒い煙。乾いた樹脂が弾ける爆竹のような音。そして、獣脂と硫黄を練り合わせた調合油の鼻を突く悪臭だった。
林の奥で、赤い光が幹の肌を斑に舐めていた。
太い古木の間に張られていた白銀の網が、火を吸って縮み上がっていく。
蜘蛛の糸は濡れていれば火を寄せつけない。だが、侵入者たちはただ火を放ったのではなかった。粘度の高い油を詰めた素焼きの壺を投げつけ、糸の表面に油膜を作ってから松明を突きつけていた。
パチ、パチ、と高い音が連なり、網の結び目が次々に弾け飛ぶ。
頭上から、細い糸が何本も垂れ下がってきた。
糸の先端が、激しく、不規則に引き絞られている。言葉の体をなさない、微細な張力の痙攣だった。
〈……熱い、熱い……〉
〈糸が、切れます……網が落ちる……〉
〈下に、幼体たちが……逃げ道が……〉
煙蜘蛛の親たちが、燃え盛る枝から枝へと必死に脚を動かしていた。
背中に白銀の毛を持つ成体たちが、八本の脚で幼体たちを抱え上げようとしている。だが、下層の網が焼け落ちた場所から、次々に幼い蜘蛛たちが下草へ転がり落ちていた。掌の半分ほどの大きさしかない灰色の幼体たちが、熱気と煙に巻かれ、足場を失って落ち葉の上をあてもなく這い回る。
その落ち葉を踏み躙りながら、鉄の列が進軍していた。
先頭に立つのは、大人の背丈ほどもある大盾を構えた重装歩兵たちだ。
樫の厚板に鉄帯を巻いた盾が、隙間なく横一列に噛み合わされている。その背後から、穂先の長い長槍が何本も突き出していた。さらにその後ろ、二列目の兵士たちが腰の革袋から素焼きの壺を取り出し、導火線に火を移している。
三重の陣形。
盾で前方を塞ぎ、槍で接近を阻み、頭上へ火炎壺を投擲する。
対人戦闘用の教本通りに組まれた陣立てだった。獣を狩るための隊列ではない。最初から、抵抗する者を力づくで焼き払い、押し潰すために整えられた行軍だった。
「おい、上を念入りに焼け! 糸を払わんと奥の群生地へ荷車が通せんぞ!」
甲冑の上から革の陣羽織を重ねた指揮官の男が、抜き身の長剣を掲げて怒鳴り散らしていた。顎に深い火傷の痕がある男だ。
「虫けらどもを踏み潰せ! 毒針に触れるなよ、皮手袋を二重にしておけ!」
兵士の足元で、逃げ遅れた煙蜘蛛の幼体が軍靴の底に踏み潰された。
甲高い、潰れた木の実のような破砕音が湿った土に吸い込まれる。兵士は足元を見向きもせず、槍の石突きで下草を薙ぎ払った。
木立の影から滑り出た。
泥水に濡れた外套の裾が、燃え落ちた灰の上を擦る。
「そこまでだ」
低く発した声は、火の爆ぜる音に紛れることなく、前列の盾の隙間へ届いた。
大盾の列が一瞬、ぎしりと軋んで歩みを止めた。
鉄兜の目庇の奥から、無数の視線がこちらへ向けられる。先頭の兵士が槍の柄を握り直した。
「……何だ、貴様は」
指揮官の男が、盾の列の背後から馬首を少し進め、見下ろしてきた。手綱を引く指には、略奪した薬草の汁が黒く染み付いている。
「森の猟師か? 命が惜しければ失せろ。領主様の公務の邪魔立てをする者は、反逆罪でその場にて首を刎ねる」
答えず、足元へ目を落とした。
足首のすぐ脇に、焼け落ちた網の残骸が横たわっていた。
かつて中央中継点から南の湿地へと情報を繋いでいた、幾千の結び目を持つ糸の幕。
いまやそれは黒い煤の塊となり、熱を帯びた煙を細く立ちのぼらせている。
膝を曲げ、指を伸ばした。
指先で、黒く炭化した糸の端を拾い上げる。
まだ微かな熱が残っていた。炭の粉が皮膚の溝へ入り込み、煤けた油の匂いが爪の間に染みつく。
糸の先には、足をもがれた幼体が一体、丸まって転がっていた。
小さな脚が一度だけ痙攣し、二度と動かなくなった。
立ち上がった。
背筋を伸ばし、拾い上げた炭の粉を外套の裾で拭う。
肺の底へ冷えた空気が満ちていく。
こめかみの奥で鳴っていた拍動が、ふっと凪いだ。頭の奥にあった雑音がすべて引き、目の前の光景だけが切り取られたように鮮明になる。
木々の間を走る炎の赤。
大盾の鉄帯に反射する鈍い光。
百人の兵士たちが踏み固めた黒土の窪み。
枝の上で身を寄せ合い、熱気に震えながらこちらを見下ろしている、無数の蜘蛛たちの複眼。
背後で、ノアがするりと並んだ。
彼女の指先が、外套の合わせ目から短剣の柄を静かに引き抜く。金属が鞘を離れる細い摩擦音が、火の粉の舞う空気の中に響いた。
「イーサン」
ノアの声は、氷のように平らだった。
「どうするの」
前方を遮る大盾の三重陣形を、ただ見据えた。
指揮官の男が剣先をこちらへ向け、声を張り上げる。
「聞えなかったのか! 弓隊、射殺せ! 森の浮浪者ごと焼き払え!」
大盾の隙間から、何本もの矢の鏃が突き出された。弦が引き絞られ、乾いた木が軋む音が重なる。
左足を半歩、前へ踏み出した。
靴底の下で、湿った黒土が重く沈んだ。




