第7話「動いた仕組みと、小さな綻び」
朝の光が洞の岩肌を白く撫でる刻限になっても、足の裏は乾いたままだった。
いつもなら土竜の地響きが革靴の底を突き上げ、梢の上からは風切りの罵声が落ちてくる時間だ。湯気を立てる煮汁の鍋を火から下ろし、椀に注ぐ。木匙が底を擦る音だけが、天井の低い岩間に小さく響いた。
外の平地に出ても、怒鳴り声は降ってこない。
大樹の幹に沿って張られた細い糸が、風に吹かれて規則正しく震えていた。煙蜘蛛の張り巡らせた通信線だ。中央の中継杭に、一枚の平たい泥板が立てかけられている。
板の表面に指を滑らせた。泥を半乾きのうちに指で抉って刻まれた、土竜の振動記号。その端に、風切りの風切羽が一枚、爪痕の筋をつけて深く差し込まれていた。
泥板の内容は簡潔だった。
『境界石の位置、受領。北の沢筋の通行を承諾』
羽に刻まれた線は、それに対する返答だ。
『空路の高度、三丈を保持。泥炭地への糞害を避ける』
先週まで互いに牙を剥き、泥炭地で殺し合い寸前までこじれていた二種族の懸案が、記号の板一枚で片付いていた。
自分が二つの縄張りの間を全力で走り抜けることも、喉の粘膜を擦り減らしながら言い換えを重ねることもなかった。
板の重みを確かめ、中継杭の棚へ戻す。
「……走らなかったな」
独り言が口から出た。朝の冷気の中に落ちた音は、誰にも拾われない。
洞の入り口へ戻ると、ジークが石の上に腰を下ろし、真鍮板の歯車を小刀の先で調整していた。油の匂いが指先から漂っている。
「どうだい。苦情が届かない朝の気分は」
「手が余る」
「贅沢な悩みだな。荷重が抜けた梁は、しばらく軋むものさ」
ジークは真鍮板を革袋にしまい、立ち上がって手帳を開いた。羊皮紙の角は指の脂で丸くなっている。
「北と中央の導通は確実だ。次は南の湿地から東の密林への横断ルートを固める。ルウの蛇鱗の屋根も、昨夜の小雨を完全に弾いたそうだ」
作業台の隅で、ノアが小刀を使い、干し草の束を一定の長さに切り揃えていた。刃が草を断つサク、サクという乾いた音が同じ間隔で刻まれる。
「仕組みが回れば、余計な火種は減るわ。……今のところはね」
「不吉なことを言うなよ、ノア。図面は現場の寸法に合わせて引き直してある」
「図面の話はしていないわ」
ノアは顔を上げず、切り揃えた草を麻紐で手早く縛った。
異変が届いたのは、昼前の日差しが梢の隙間から差し始めた頃だった。
南の泥濘地へ続く獣道の茂みが激しく揺れ、濁った水しぶきを跳ね上げて何かが飛び出してきた。
沼蛙の連絡員だ。通常なら水草の陰を這うように移動する種族が、地表の落ち葉を蹴立てて呼吸を乱している。喉袋が異常な大きさに膨張し、泡混じりの呼気が漏れていた。
〈対話者! 念のためどころではないぞ! 境界が破られた!〉
土間に膝をつき、跳ね上がった泥の匂いを吸い込んだ。
「どこだ。種族は」
〈人間だ! 鉄の板を着けた兵が百近く! 南の浅瀬、薬草の群生地に踏み込んできた!〉
奥で草を縛っていたノアの手が止まった。
「南の浅瀬だと」
立ち上がり、壁の鹿革の地図へ歩み寄る。
「あそこは底なしの泥炭層だ。人間の足で踏み込めば、十歩も行かずに腰まで沈む」
〈沈んでいない! そもそも沈まない道を選んで歩いている!〉
沼蛙は前肢で乾いた土を掻きむしった。
〈水底の隠れ岩だ! 俺たちしか知らんはずの、硬い岩脈の筋を一直線に踏んで渡ってきた! 荷車まで引いている!〉
背後で、紙が擦れる音がした。
振り返ると、ジークが手帳を広げたまま固まっていた。
手帳を握る手が強張り、紙の端が細かく波打っている。
「……ジーク」
呼びかけたが、男は視線を羊皮紙の図面から上げない。足元の重心がわずかに後ろへ引けていた。
「南の浅瀬に、人間が荷車を通せる岩脈があることを、知っていたか」
「……あそこは」
ジークの唇の間から、掠れた声がこぼれた。
「あそこは、川底の地盤が固い。砂利の堆積層が帯状に繋がっている」
洞の中の空気が、急激に冷えた。
ノアの影が、床の上を音もなく滑った。
作業台の小刀ではない。外套の内側から抜かれたのは、刃渡り一握りほどの抜き身の短剣だった。研ぎ澄まされた鋼が、薄暗い洞の中で白く光を弾く。
ジークが顔を上げた瞬間には、切っ先が男の喉仏の皮膚へ押し当てられていた。
皮膚が一ミリほど窪み、刃の腹に触れた血管が跳ねる。
「ノア」
制止の声をかけたが、彼女の腕は微動だにしなかった。銀の髪が肩から滑り落ち、冷え切った眼球がジークの瞳を射抜いている。
「なぜ、外の人間がその岩脈を知っているの」
ジークの手から炭筆が落ち、石の床で跳ねて転がった。
首筋を刃に預けたまま、男の額から脂汗が吹き出し、こめかみを伝って顎へ垂れる。
「……三年前だ」
ジークは唾を飲み込もうとして、喉仏を刃に当てて動きを止めた。
「三年前の冬、街道の段取り屋をやっていた頃だ。手持ちの金が完全に尽きて、宿の部屋から叩き出されそうになった。……隣領のバルト領主の代官が、森の周辺の地形図を買い集めていたんだ」
「売ったのね」
「南の浅瀬の水深メモと、岩盤の測量図だ。……すまん、三年前の飯代だったんだ……!」
ジークの背中が壁の岩肌に押しつけられる。
「言い訳はいいわ」
ノアの指が、短剣の柄をさらに強く握り込んだ。
「貴方が流した紙のせいで、今、森の草が踏まれている。……ここで首を裂いておくのが、一番確実よ」
ジークの呼吸が荒くなり、両手の手のひらを胸の前に持ち上げた。弁解の言葉を探すように唇が震えるが、声にはならない。
大股で二人の間へ踏み込んだ。
ノアの手首を、親指と四指で包むように掴む。冷えた骨の感触が皮膚越しに伝わってきた。
「ノア。刃を引け」
「イーサン。この男は、外の略奪者に道を売ったのよ」
「三年前の話だ。今ここでジークを殺しても、浅瀬の兵は消えない」
手首を握る力を強めた。
ノアの暗い瞳がこちらへ向く。視線の奥にある硬い氷のような頑なさを、正面から見据え返した。
「南へ行く。ジークを殺すかどうかは、戻ってから決めろ」
五秒ほどの無言の競り合いののち、ノアの指から微かに力が抜けた。
短剣の切っ先が、ジークの喉元から二寸離れる。男の首筋には、赤い点のような血の滲みが一つ残っていた。
ジークは壁に後頭部を打ちつけ、荒い息を吐きながら床へへたり込んだ。
その胸倉を、外套の上から右手で掴み上げた。布地が引きちぎれそうな音を立てる。
「ジーク」
「……す、すまない、イーサン。悪意があって売ったわけじゃ」
「言い訳は聞かない」
男の目を至近距離で睨みつけた。
「次はない」
手を放すと、ジークの背中が再び石壁へ落ちた。
壁の釘から鹿革の雨覆いを取り、肩へ巻きつける。棚から炭のかけらを拾い、上着のポケットへ突っ込んだ。
足元の沼蛙を見下ろす。
「兵の装備は」
〈鉄の胸当てに、長槍。馬は指揮官の一頭だけだ。ただし、火矢の筒を持っている〉
「風切りを呼べ。南の空へ集めろ」
洞の出口へ向けて駆け出した。
背後で、ノアが短剣を鞘に収める硬い金属音が響いた。衣擦れの音が一つ、遅れることなく背中を追ってくる。
大樹の洞を出ると、南の空の雲が不自然に千切れていた。
湿った腐葉土を靴底で蹴破り、急斜面を一気に駆け下りる。
木立の向こうで、梢が一本、また一本と倒れていく。
鉄の板を着けた足音が、確実にこちらへ近づいていた。




