第9話「掟の外、音のない制裁」
大盾の隙間から突き出された十数本の矢が、湿った空気を切り裂いて放たれた。
矢羽の鳴る音が重なり、金属の鏃が一直線に眉間へ迫る。
動く必要はなかった。
頭上から落ちてきた一筋の灰色の影が、目の前で鋭角に軌道を変える。翼の骨が風を孕んで撓み、突風が矢の軌道をまとめて上方へ撥ね上げた。外れた矢は梢の樹皮へ深く突き刺さり、木屑を撒き散らす。
木立の奥へ向けて、喉の奥の筋肉を引き締めた。
人間の耳には届かない超低音の呼気と、踵で地面を二度、硬く叩き割る打撃。
魔物語の律動を、短く放つ。
「今日だけ、掟を外す」
周囲の木立のざわめきが、ぴたりと途絶えた。
ノアの指が短剣の柄から離れ、外套の裾をわずかに引いた。彼女の足元の影が、地面に落ちた灰を揺らさずに広がる。
「殺すな。火は使うな」
顎を上げ、大盾を構えた百の兵士を見つめた。
「……それ以外は、全部やれ」
返事は、頭上の梢から降ってきた。
長老格の風切りが嘴を打ち鳴らし、羽ばたきの音を合図に変える。
〈殺さん。ならば、まず頭の鉄からだ、当然だ〉
地中の奥底から、土竜の短く鈍い拍が踵を突き上げた。
〈……泥、緩める。深くは、沈めん〉
樹幹の間から、煙蜘蛛の細い糸が無数に繰り出される。目に見えない張力の網が、兵士たちの頭上を覆うように張り巡らされていく。
〈承知、いたしました……〉
指揮官の男が手綱を引き絞り、苛立ちに任せて剣先を振り下ろした。
「何を遊んでいる! 次の矢を番えろ! 構わん、斉射しろ!」
二列目の弓隊が矢筒へ手を伸ばした瞬間、天蓋が割れた。
風切り二十羽が、翼を畳んで垂直に落下してきた。
狙いは肉ではない。
前列に並ぶ重装歩兵たちの頭頂部。
鋭く湾曲した四本の鉤爪が、鉄兜の目庇と頂部の金具を正確に掴み取る。次の瞬間、翼が一斉に広がり、強力な浮力が二十の首筋にかかる革紐を引きちぎった。
乾いた金属の擦過音。
二十個の鉄兜が、持ち主の頭部を置き去りにして宙へ跳ね上がる。
禿げ上がった頭頂、脂汗の滲む乱れ髪、白髪交じりの側頭部。鉄の防具を失った兵士たちの頭部が、灰色の煙の中に丸出しとなった。
持ち去られた兜は、地上へ落とされない。
風切りたちは整然と旋回し、街道沿いに立つ古松の横枝へ向かった。嘴と爪を使い、枝の根元から先端へ向けて、等間隔に兜を引っ掛けていく。整然とした展示のように、二十個の鉄兜が梢に並んだ。
「な……兜を! 弓を上に向けろ!」
後方の弩兵たちが引き金を引こうとした。
だが、弦は鳴らない。
指先を引いた兵士の腕が、宙で不自然に固定されていた。
樹上から垂れ下がった無数の粘着糸が、弩の弓幹と引き金、兵士の指関節を幾重にも絡め取っている。動かそうと力むほど、粘度の高い糸が隣の兵士の腕へと渡り、十本の弩が一つの塊となって固まった。
足首に冷たい感触が巻きつく。
先頭の十名が同時に声を詰まらせた。
太い幹から降りてきた煙蜘蛛の成体たちが、八本の脚を猛烈な速度で動かし、兵士の長靴の周りに糸の結び目を幾重にも回している。
引き絞られた糸が、滑車のように枝の弾力を利用して跳ね上がった。
十人の重装兵が、両足を揃えられたまま同時に逆さ吊りにされる。
胴回りの鎖帷子が擦れ合い、甲高い金属音を立てて宙で揺れた。煙蜘蛛たちは一切の無駄なく、吊り下げられた男たちの口元から胸板、膝の裏へ向けて白い繭の層を塗り重ねていく。
叫ぼうとした口が塞がれ、くぐもった呼気だけが白い繊維の隙間から漏れた。
梢の兜の列の下に、十の白い繭が風に揺れて並ぶ。
「陣を崩すな! 盾を合わせろ! 押し通るぞ!」
指揮官の怒号が響く。
残った六十名ほどの歩兵が、訓練された動きで大盾の鉄帯を噛み合わせ、三重の壁を再構築した。樫の厚板が壁となり、前方の視界を塞ぐ。
その足元へ視線を落とした。
踵を引いて、湿った黒土を強く一度踏み抜く。
土竜への合図。
大盾の列の真下で、地面が水面のように波打った。
土竜たちが地中から土粒を掻き出し、地下水を地表近くへ吸い上げたのだ。硬く踏み固められていた黒土が、一瞬にして底なしの泥濘へと姿を変える。
重装兵たちの靴底が沈んだ。
まず足首。次いで脛。
五十斤を超える武具の重みが仇となり、鎧を着込んだ男たちから順に、太腿の半ばまで泥炭の中へ吸い込まれていく。
前列が前のめりに傾き、噛み合っていた大盾の鉄帯が不揃いに軋んで外れた。
三重の壁に、大きな亀裂が走る。
地響きが、背後の草原の方角から押し寄せてきた。
蹄が大地を連打する重い響きが、空気を震わせる。
木立の隙間を突き破り、百二十頭の草原馬が一塊となって突入してきた。
長老格を先頭にした灰色の巨躯の群れ。
四本の脚が独立して地を蹴り、傾いた大盾の列へ向けて一直線に雪崩れ込む。
〈通るぞ! どけえ!〉
長老の怒声とともに、前肢の硬い蹄が樫の大盾を粉砕した。
厚板が破裂音を立てて裂け、鉄帯がねじ切れる。盾を保持していた兵士の腕が弾かれ、泥に足を取られていた前列の兵たちが、枯れ草のように宙を舞った。
突進は人を踏まない。
草原馬の蹄は正確に盾の板と槍の柄だけを叩き折り、兵士の身体はその風圧と衝撃で泥炭の窪地へ吹き飛ばされる。
二列目の長槍がすべてへし折られ、三重の陣形はわずか数秒で瓦礫の山へと変わった。
泥炭に叩きつけられた兵士たちが、喘ぎながら這い上がろうとする。
その周囲を、灰色の影が隙間なく取り囲んだ。
影狼の群れだ。
若頭ルウを先頭に、二十頭を超える狼が木立の暗がりから音もなく滑り出ていた。
牙を剥き出しにはしない。喉の奥で唸ることもない。
ただ、泥に膝をついた兵士の眼前へ鼻先を寄せ、素早い顎の動きで革の装備を噛み切っていく。
胸当てを固定していた肩の留め金が外される。
腰の剣帯が断ち切られ、鞘ごと泥水の中へ没する。
さらに、爪の先がズボンの腰紐を正確に引っ掛け、一引きで引き裂いた。
甲冑を剥ぎ取られ、ズボンをずり落とされた兵士たちが、寒風の中に腰布一つの姿で晒される。
〈理由は単純だ。武器と鎧を奪えば、侵略の機能は停止する〉
ルウが前肢で泥を踏み、近くに転がっていた兵士の槍の穂先を爪で弾き飛ばした。
〈ゆえに、服も剥ぐ。恥を知れば足は止まる〉
混乱の極致の中、馬上に残っていた指揮官が、抜き身の長剣を両手で構え直した。
「ば、化け物どもが……! 寄るな! 近寄るな!」
男の足元へ、土竜の爪が伸びた。
軍馬の四肢の真下の土が崩れ、馬が悲鳴を上げて棹立ちになる。
男は鞍から放り出され、泥炭の水たまりへ頭から落ちた。
立ち上がろうとした男の腕を、ルウが踏みつける。
体重を乗せた太い前肢が、泥の中に男の右腕を縫い止めた。骨を折るほどの力は込めていない。だが、男の筋力ではびくともしなかった。
落ちた長剣を、爪先で泥の底へ蹴り込む。
ゆっくりと歩み寄り、泥水に顔を半分浸からせている指揮官を見下ろした。
外套の裾に泥を跳ねさせながら、膝をやや曲げる。
「終わりだ」
低く落とした声に、指揮官の顎が跳ね上がった。火傷の痕が泥で汚れ、見開かれた瞳が細かく痙攣している。
「ひ……あ、貴様……貴様が……」
「殺しはしない。火も使わなかった。……だが、次はない」
足元の泥炭地を見渡した。
百人の兵士たちは、一人残らず武装を解かれていた。
兜は梢に並び、武器は折られて泥の底に沈み、甲冑の革紐はすべて噛み切られている。
泥炭の中に腰布一枚で立ち尽くす男たち。足首を抱えて震える者、泥水の中で座り込んだまま動けない者、頭上の白い繭を見上げて歯を鳴らす者。
流された血は、一滴もない。
擦り傷と打撲、そして全身にこびりついた冷たい泥炭だけが、彼らに残されたすべてだった。
ルウへ向けて顎をしゃくった。
「退路を開けろ」
影狼たちが二歩、後方へ下がった。
南の街道へ続く獣道の正面だけが、ぽっかりと空白になる。
指揮官の腕を踏んでいたルウの前肢が退いた。
男は泥炭から這い上がり、脱落しそうなズボンを片手で必死に押さえながら、後ろも振り返らずに街道へ向けて走り出した。
それを合図に、泥の中にへたり込んでいた兵士たちが雪崩を打って駆け出した。
靴を失った素足で小石を踏み、転び、泥炭に足を取られながら、互いの肩を掴んで我先にと森の外へ逃げていく。
泣き叫ぶ声と、足をもつれさせる重い水音が、南の樹林の奥へと遠ざかっていった。
騒乱が引いた。
湿地の水面に、再び薄い波紋が広がる。
梢の上を見上げると、二十の鉄兜が枝の先で鈍い光を返していた。その下方で、逆さに吊るされた十の繭が、風を受けて静かに揺れている。
足元で、灰の中から小さな影が這い出してきた。
生き残った煙蜘蛛の幼体が二体、泥のついた靴の甲へ這い上がり、糸を一本、革の表面に貼り付けた。
微かな張力の拍が届く。
〈……受領〉
親たちの網は焼かれたが、命は残っていた。
靴の甲をゆっくり下げ、幼体を枯れ木の根元へ移した。
背後で、ノアが短剣を鞘へ完全に収めた。
カチリ、と小さな金属音が鳴る。
「全員、逃げたわね」
「ああ」
「噂になるわ。外の連中は、見たものしか信じない」
「勝手に言わせておけ」
泥の跳ねた外套の裾を払った。
梢に並んだ鉄兜を見上げ、回収の段取りを考える。風切りには、また貸しができた。




