第10話「魔王の噂と、第一の杭」
夜明け前、宿場町ハルツの軒下で一晩を明かした風切りの斥候が、南の樹林へ戻ってきた。
焦げた古木の根元で復旧の段取りを見ていた肩口へ、灰色の翼が降りる。爪が外套に食い込む感触は、軽かった。
〈……酒場。人間。騒いでいた〉
「バルトの兵か」
〈……五人。裸足。血が出ていた。……板戸を、壊して入った〉
風切りは人間の言葉を話さない。ただ、聞いた音を音の形のまま持ち帰る。斥候が嘴を鳴らして再生する断片を繋ぎ合わせると、酒場の光景が輪郭を持った。
麻布を足首に巻いた五人の兵士が、酒を寄こせと叫び、銅貨ではなく泥だらけの手のひらをカウンターに叩きつけたこと。給仕の注いだ麦酒を、一息に呷ったこと。
〈……「化け物が出た。……いや、違う。人間だ」。……男は、何度も言った〉
「他には」
〈……「地面が水になった」。「空から鳥が来て、兜だけ取っていった」。「一言も怒鳴らなかった」〉
三重の大盾も、正規の教本通りの陣形も、あの朝の泥の前では意味を持たなかった、ということだろう。
〈……「死んでいないから気味が悪い」。「殺す価値もないという顔で、退路を開けられた」〉
死者が出ていないことは、彼らが一番よく知っている。それが恐怖の種になっているのは、皮肉というほかなかった。
斥候は首を傾げ、最後の一節を、一語ずつ区切るように再生した。
〈……「森の魔物を束ねる、魔王だ」〉
「……魔王、か」
口の中で転がしてみたが、他人の名前のように響いた。
〈……酒場、静かになった。鍛冶屋、槌を止めた。商人、帳面を閉じた〉
斥候はそれだけを付け加えると、用は済んだとばかりに翼を畳んだ。
「ご苦労だった。……その肩書きは、覚えなくていい」
〈……了解〉
人間が勝手に付けた呼び名だ。苦情を聞いて回る男に、似合うとも思えない。
噂がどこまで膨らむにせよ、南の樹林の朝は何も変わらなかった。
煙蜘蛛の糸場の復旧は、淡々と進んでいた。
焦げた古木の幹に梯子をかけ、炭化した外皮を平らな木篦で削ぎ落とす。削り屑が黒い粉となって下草へ落ち、靴の甲を汚した。
頭上では、生き残った成体たちが腹の先端から新しい白銀の糸を引き出し、枝と枝の間に手早く幾何学の網を渡し直している。火で焼かれた網の跡は痛々しいが、親蜘蛛たちの脚の動きに淀みはない。
下草の落ち葉の上を、掌ほどの幼体たちが元気に這い回っていた。
足元の丸太を退かすと、三体の幼体が長靴の革をよじ登り、膝の布地に小さな粘着糸を貼り付けてくる。
〈……糸、張れます〉
かすかな振動が、ズボンの繊維を通して皮膚へ届く。
「落ちるなよ」
指を差し出し、幼体を太い幹の窪みへ移した。
街道沿いの古松を見上げると、風切りたちが梢の横枝に並べた鉄兜が、朝露を弾いて鈍く光っていた。二十個の兜は、風切りの巣の補強材として手際よく組み込まれている。嘴で泥を運び、兜の目庇の隙間に塗り込める若鳥の姿があった。
足の裏に、規則正しい振動が届く。
〈……泥炭、埋め戻した。南の澪筋、岩盤の隙間、すべて泥で塞いだ〉
土竜の報告だった。
「礼を言う。余分に掘った土は、東の松の根元へ盛っておいてくれ」
〈……了解〉
踵で地面を二度叩き、返事を送る。
戦いの後始末は、いつもの泥の移動と変わらなかった。壊れた場所を埋め、散らかった枝を払い、境界の石を元に戻す。血が流れなかった分、片付けの手間は格段に少なくて済んでいた。
大樹の洞へ戻ると、作業台の上に新しい羊皮紙が広げられていた。
ジークが定規を当て、黒いインクを含ませた羽ペンを走らせている。紙の端を押さえる石の横には、分解された真鍮の歯車と螺子が整然と並んでいた。
洞の入り口の吊り布をくぐった足音に、男の手が止まる。
「……戻ったか」
ジークはペンを置き、作業台の角に目を落とした。昨日の喉仏の赤い傷跡には、白い布切れが小さく貼られている。
「浅瀬の岩脈は、土竜が泥で埋めた。もう荷車は通れない」
「そうか」
ジークは手短に応じ、手元の定規を指の腹で弄んだ。
「……バルトの兵ども、街道の宿場で大騒ぎしているらしいな。『森の魔王に身包みを剥がれた』とさ」
「外の連中が何を喚こうと関係ない。ここには壁も門もない。騒ぐなら勝手に騒がせておけばいい」
「関係大ありだよ」
ジークは定規を置き、広げられた羊皮紙を両手で押し広げた。
「今回は領主の私兵百人だった。だが、魔王の噂が王都の軍閥や大貴族の耳に入れば、次は正規の討伐軍が来る。あるいは、街道を完全に封鎖されて、森の素材を一切買い取らない経済封鎖を敷かれるかだ」
「封鎖されたところで、森の連中は腹を空かせない。木の実も魚もある」
「だが、土竜の沼を広げる鉄の鋤は手に入らない。風切りの治療に使う精製油も入ってこない。……何より、君の過労は元に戻る」
ジークの言葉には、いつもの軽薄な抑揚が消えていた。
男は羊皮紙の中央を指差した。
そこに描かれていたのは、先日の郵便網の路線図ではなかった。
二本の平行線が、細い等間隔の横線で結ばれ、森の西の出口から外の草原へと一直線に伸びている。
「……これは何だ」
「鉄の道だ。以前話しただろう。地面の上に鉄の棒を二本敷き、その上を蒸気と車輪で荷車を走らせる。鉄道だよ」
ジークは革袋から、手のひらに収まる長さの太い角杭を取り出した。
鋳鉄で作られた頑丈な杭だ。頭部には、二本のレールを固定するための平らな座金が鋳造されている。黒錆止めの油が塗られ、鈍い鉄の光を放っていた。
「郵便網が内側の血管なら、鉄道は大動脈だ。この森をただの『魔獣の巣窟』から、大陸を貫く『不可欠な交通結節点』へ作り変える。ここを通らなければ王都の物流が成り立たない仕組みを先に敷いてしまえば、人間側は軍隊を送り込めなくなる。線路を壊せば、自分たちの胃袋が干上がるからだ」
「魔物を道具にする気か」
「共存の基盤にするんだ」
ジークは鉄の杭を作業台の中央へ立てた。コトン、と重い金属音が石の上に落ちる。
「郵便の次は、鉄道だ。外の世界と繋ぐぞ、イーサン。君が森の言葉を束ね、俺が線路の荷重を計算する。これがあれば、もうバルトのような小悪党に怯える必要はなくなる」
立てられた鉄の杭を見つめた。
黒い鉄の冷たさが、蝋燭の炎を跳ね返している。
外の世界との接続。
森の中で完結していた平穏を破り、巨大な鉄の動脈を敷き詰めるという提案。それがどれほどの摩擦を生み、どれほどの軋轢を呼び込むか、想像がつかないわけではない。
だが、昨日のように、いつ外から火を放たれるか分からない恐怖を放置し続けることも、またできなかった。
それに、もうひとつ。
鉄の線が森の端から外へ伸びる。その線の両側まで、森の連中の縄張りとして守れたなら。道が通った分だけ、森が広がると言えるのではないか。
唇の内側で、その考えを転がした。悪くない。ただし条件がある。
「敷くなら、森の側から敷く。外の連中の都合で線を引かせない。杭を打つ位置も、通す幅も、先に森の連中に聞く」
「当然だ。そのための通訳だろう」
作業台の向こう側から、布の擦れる音がした。
ノアが立っていた。
足音もなく背後へ回り込み、外套の左袖を指で掴んでくる。
細い指が布地を巻き込み、皮膚の肉を圧迫するほど強く引き絞られた。爪の先が、外套の繊維を突き抜けて二の腕に食い込む。
視線は、作業台の上に引かれた二本の平行線に注がれていた。
「……線が、外へ伸びているわ」
ノアの声は低く、平坦だった。怒りも、怯えもない。
「外へ伸びれば、人が来る。人が来れば、言葉が増える。……貴方が一人で背負える枠を、完全に超えるわ」
「枠を超える前に、仕組みで受けるんだよ」
ジークが反論の口を開きかけたが、ノアは一瞥もくれなかった。
彼女の瞳は、ただこちらの横顔だけを捉えている。
ノアは半歩、身を寄せてきた。肩が触れ合う距離で、彼女の視線は鉄の杭から動かない。
「……どこへも行かせない」
耳元に落ちた囁きは、吐息の温度を失っていた。
「森の外には、管理と数字しかないわ。貴方の言葉を解す者など、あそこには一人もいない。……ここを出ていけば、貴方はすり潰される」
「ノア」
袖を掴む彼女の指の上に、右手を重ねた。
皮膚の冷たさが掌へ移る。
「出て行く気はない」
彼女の瞳が、ようやく鉄の杭から離れた。
「俺は森を出ない。この線は、森の端を外へ押し広げるためのものだ。出て行くんじゃない。広げるんだ」
「……広げる」
「ああ。お前の居る場所が、少し大きくなるだけだ」
ノアは言葉を咀嚼するように、唇をわずかに動かした。信じたい、という色と、信じきれない、という色が、銀の瞳の中で交互に浮かんで沈んだ。
「……そう言うなら、そうなのでしょうね。今は」
最後の二文字は、聞こえなかったふりをした。
「線路を敷くとしても、森の内側からだ。俺の仕事は、今日も明日も変わらない。苦情を聞いて、枠を整えるだけだ」
ノアの指先が、少し強張りを緩めた。
だが、袖から手は離れなかった。掴んだまま、彼女はジークの置いた鉄の杭を、冷たい視線で見下ろし続けた。
ジークが手帳を閉じ、鉄の杭を革袋へ戻した。
「最初の起点杭は、西の草地の境界に打つ。草原馬の縄張りと、人間の街道が交わる結節点だ。あそこなら地盤が均一で、地盤沈下の恐れもない」
「草原馬への説明が先だ」
「分かっているさ。君の通訳がなければ、杭一本打てやしないよ」
ジークは外套を羽織り、真鍮の器具を腰に吊るした。
洞の外へ出ると、西の空から吹き抜ける風が、草の青い匂いを運んできた。
天蓋の梢を抜けた光が、足元の湿った土の上に落ちている。
この草の下に、鉄の道が通る。まだ誰も、その重さを知らない。




