第11話「記録官エレナ」
南の泥炭地が乾ききる前に、森の縁を走る街道の砂煙が上がった。
風切りの若鳥が頭上を一度旋回し、大樹の洞の張り出し枝へ鉤爪を掛けた。嘴を開くと、乾いた羽音が落ちてくる。
〈南の入り口に馬車が止まったぞ。黒塗りの箱に、青と金の旗だ。天秤の印がついている、当然だ〉
作業台の隅で真鍮の歯車を拭いていたジークが、油布を止めた。
「王都の商業調査局だな。バルトの兵どもが宿場町で喚き散らした報告書が、もう本府の決裁を通ったわけだ。役所の足にしては早い」
「何をしに来た」
「実態の検分さ。魔王が本当にいるのか、それとも国境警備を口実に予算を引き出したい地方領主の狂言か。それを確かめに来たのさ」
ジークは真鍮板を手帳の間に挟み、革紐で結び直した。
洞の奥から歩み出たノアは、すでに外出用の灰色の外套を羽織っていた。首元の留め金を指先で締め直しながら、洞の出口の外を鋭く睨んでいる。
「追い返すの?」
「武器を持っていないなら、まず話を聞く。追い返すのはそれからだ」
長靴の泥を石の角でこそげ落とし、南へ続く踏み分け道へ足を踏み出した。
南の境界は、鬱蒼とした大樹の列が途切れ、背の低い低木と砂利混じりの草地が広がる開けた場所だった。逃げ場があり、不意打ちを受けにくい。かつてジークが最初の交渉場所に選んだ平地だ。
砂利道の上に、二頭立ての馬車が一台、車輪を止めていた。
馬の胴回りは白く汗を吹き、御者が手綱を握ったまま周囲の木立を落ち着かない目つきで見回している。車輪の脇に立っていたのは三人だった。
先頭に立つ男は四十半ば。皺の寄った文官服の胸元に、青銅の天秤章を留めている。痩せた顔立ちに移動の疲労を濃く滲ませていたが、背筋は曲がっていない。
その後ろに控える従僕が一人、書類箱を両手で抱えて怯えたように膝を揺らしていた。
もう一人、馬車の踏み台の陰に、黒髪を後ろで束ねた若い女が立っていた。
年の頃は二十歳そこそこ。体に合っていない仕立ての硬い紺色の官服を着込み、両腕で抱えるようにして巨大な革の鞄を胸の前に抱き留めている。
女の革靴は砂利を踏んだまま固まっていた。
木々の梢を仰ぎ見る瞳には、得体の知れない樹海への警戒と、それ以上に強い光が張り付いている。
視線がこちらを捉えた瞬間、女の肩がわずかに引き締まり、抱え込んだ鞄の金具が指先の下でカチリと鳴った。
草地の中央へ進み出て、足を止めた。
「何の用だ」
文官服の男が喉を整え、二歩前へ進み出た。歩幅は小さく、武器を持たない者の歩き方だった。
「王都商業調査局、第二調査班のベルナルドと申します。此度は……その、魔の森における物流の実態、ならびに先だって発生したバルト領主私兵団との武力衝突の経緯について、事実確認に参りました」
「バルトの兵は、森の薬草を盗みに来た。武装を解いて追い返した。それだけだ」
「報告書には、百名の精鋭が一瞬にして無力化され、身包みを剥がされたとありまして……」
ベルナルドは額の汗を麻布で押さえた。
「調査局といたしましては、この森に組織的な武装勢力、あるいは……噂されるような、魔物を統率する長が存在するのかどうか、直接確かめる必要が生じました」
「組織はない。俺がいるだけだ」
「貴方が……?」
ベルナルドの眉が中央に寄った。二十代前半の薄汚れた外套姿の男を、品定めするように頭の先から泥のついた靴まで見分していく。
その背後で、鞄を抱えた女が一歩横へ踏み出した。
紺の制服の襟元から覗く首筋が細い。手元の革鞄の留め金を外し、中から分厚い紙束を挟んだ木製の手挟みと、真鍮の万年筆を取り出している。
女の視線が、こちらの顔から離れない。
恐怖で固まった表情の底に、見落としを許さない観察者の鋭利な光が宿っていた。
そのとき、横腹に硬い布地の圧迫が加わった。
ノアだった。
足音を立てずに隣へ滑り込んできた彼女は、一切の隙間を空けず、自らの左肩をこちらの右腕に押し当てていた。
灰色の外套の裾が重なり合う。彼女の指先は、こちらの右肘のあたりを布越しに押さえていた。
ノアの瞳は、馬車の脇に立つ若い女の顔へ据えられていた。
暗く、動かない光だ。
「……あの女、胸元が緩いわ」
ノアが唇をほとんど動かさず、耳元へ冷たい声を落とした。
「ただの服の仕立てだ」
「官服の合わせ目が二寸下がっている。奥に毒針でも仕込んでいるのかしら」
「文官の記録係だ。余計な疑いをかけるな」
ノアは何も言い返さず、肘を押さえる力だけを強めた。
爪が外套の繊維を突き抜けて皮膚に食い込む。離れる気配は微塵もなかった。
ベルナルドが女を振り返り、手招きした。
「紹介いたします。本調査の公式記録係として同行いたしました、エレナです。彼女の記録が、そのまま本府への答申原案となります」
呼ばれた女――エレナが、砂利を踏みしめて進み出てきた。
頭を下げたが、視線はすぐにこちらの顔へと跳ね上がる。
「商業省記録局第三課、エレナと申します。……お話の内容、すべて公記録として書き留めさせていただきます」
声は澄んでいたが、語尾の輪郭が硬い。真面目すぎる人間特有の、融通の利かない響きがあった。
「好きに書け。ただし、森の奥へは入れない」
「調査の必要上、ある程度の現場確認は不可欠かと存じますが」
エレナが手挟みの紙を押さえ、万年筆の尻を立てた。
「ここは王国の公認領地ではありません。ですが、先日の衝突現場、ならびに魔物との通信手段については、実見せねば報告書が成立いたしません」
「入れば死ぬぞ」
淡々と返した。
「外の人間が勝手に踏み込めば、影狼の縄張りに引っかかる。空からは風切りが石を落とす。土竜の泥炭地に足を取られれば、十秒で底まで沈む」
エレナの手が止まった。
怯えが皮膚の表面を走る。だが、彼女は視線を逸らさなかった。
「……先日のバルト領の兵士たちも、そのようにして無力化されたのですか」
「無力化ではない。排除した」
万年筆の先が羊皮紙の上を滑った。
カリ、カリ、とペン先の音が朝の空気に響く。
エレナは表情を崩さず、一行目を書き終えると顔を上げた。
「排除、と。……その指示は、貴方が魔物に対して直接下したのですか」
「そうだ」
「魔物は、人間の命令に従うのですか」
「命令ではない。取り決めだ」
エレナのペンが再び走る。
その様子を、ノアはこちらの腕に身体を預けたまま、冷徹な視線で見下ろし続けた。
ベルナルドが書類鞄を抱え直し、間に入った。
「あの……立ち話も何ですので、どこか風の通らぬ場所で、書面を交わしながら進められればと存じますが」
「洞の中には入れない」
ジークが背後から歩み出て、平石の並ぶ木陰を指差した。
「あそこに腰掛けなよ、ベルナルド調査官。丸太と石ならいくらでもある。冷たいが、話をするには十分だ」
ベルナルドがほっと息を漏らし、従僕に書類箱を運ばせる。
平石の上に腰を下ろしたエレナは、膝の上に手挟みを広げ、手早く頁をめくった。
「では、まず基本的な事実関係から確認させていただきます。……管理者殿のお名前を」
「イーサン」
「家名は」
「ない」
「ご年齢は」
「二十三」
エレナのペンが淡々と文字を連ねていく。
隣に座ったジークが真鍮板を石の上に置き、腕を組んだ。
「俺はジーク。二十六歳。設計と土木の助っ人だ。ついでに書いておいてくれ」
「承知いたしました」
エレナはジークの名を書き留め、最後にノアの方へ視線を向けた。
こちらの真後ろに立ち、影のように直立している銀髪の少女。
「……そちらの方のお名前と、ご身分は」
ノアは答えなかった。
薄い唇を結んだまま、エレナの胸元から万年筆の先までを、冷たい氷のような眼差しで見据え続ける。
「ノアだ」
代わりに口を開いた。
「俺の仲間だ。それ以上の記載は要らない」
「ですが、調査局の公記録には同席者の身元確認の義務が――」
「書かなくていい」
遮ると、エレナは唇を一文字に引き結んだ。
万年筆の先が紙の上で浮き、やがて小さく息を落として、欄の端に『身元不詳の同行人一名』とだけ書き加えた。
業務上の取り決めについての説明に入った。
森の境界から二町までの平地を調査団の野営地とすること。
それより奥へ進む際は、必ずこちらが同行すること。
魔物の巣や中継杭には一切手を触れないこと。
エレナは説明の一語一句を手挟みの紙へ書き写していった。
その筆圧は強く、紙の裏に文字の窪みが浮き出るほどだった。
「……以上だ。守れるか」
「守ります」
エレナは手挟みを胸の前に引き寄せ、深々と頭を下げた。
「当初の調査期間は三日間を予定しております。延長が必要となれば、改めて申請いたします。その間、ご迷惑をおかけせぬよう、規則は厳守いたします」
「なら、好きにしろ」
立ち上がり、平石から離れた。
背後で、エレナが万年筆を拭う小さな金属音が鳴った。
ノアの指先は、歩き出しても外套の袖から離れなかった。
大樹の洞へ向かう山道へ入るまで、彼女は一度も振り返らず、ただ前だけを見つめていた。




